その瞬間、フルートとゼンとメールは幻を見ました。
刺客の剣が振り下ろされてきます。研ぎ澄まされた刃が、白く光りながらフルートの手首を断ち切ります。
フルートの右手が血をまき散らしながら床に落ち、金の石のペンダントが手の中から飛び出します。男がそれに飛びつき、風のような素早さで奪い取って、窓の外へ姿をくらませていきます――。
それは幻でした。次の瞬間に起こる出来事を、少年少女たちは幻覚で見たのです。刺客が本当に剣をフルートの手に振り下ろそうとしています。息の止まるような光景が、そのまま現実のものになろうとしています。
ところが、そこへ澄んだ少女の声が響きました。一言、鋭く叫びます。
「セエカ!!」
とたんに、フルートもメールもゼンも、刺客の男も、いっせいにその場から飛ばされました。まるで見えない爆発が起きて、その爆風にはじき飛ばされたようです。それぞれに部屋の床にたたきつけられてしまいます。
きゃっ、とポポロが小さな悲鳴を上げて立ちすくみました。これはポポロの魔法でした。フルートを襲う剣をとっさに返そうとしたのですが、勢いが強すぎて、その場にいた全員をはじき返してしまったのです。
けれども、危険な場面を切り抜けるにはそれで充分でした。たちまちゼンが跳ね起き、刺客の男へ飛びかかっていきます。フルートはメールに飛びつき、金の石を押し当てます。メールの腕の傷がたちまち治っていきます……。
刺客が剣を振り回しました。ゼンを追い払うようにしながら床から跳ね起き、窓へと向かいます。今度こそ本当に逃げ出そうとしているようでした。
「待て、この野郎!!」
とゼンは追いかけましたが、また剣がうなりを上げて飛んできたので、とっさにのけぞってかわしました。
男が壊れた窓に手をかけました。外には夜の闇が広がっています。
「逃がしちゃダメだよ!」
とメールが叫びました。たった今まで怪我をしていたのに、もう敵に向かって駆け出しています。
「フルートの正体を知られたんだ! つかまえるんだよ!」
フルートも走り出しました。金のペンダントをまた首にかけます。右手を切り落とされたと思った衝撃で、心臓はまだ早鳴っています。右の手首がうずくような気がします。けれども、フルートは恐怖を押し殺し、落ちていたショートソードを拾い上げて、さらに走りました。ゼンの前に飛び出し、刺客の剣をショートソードで受け止めます。
刺客の動きが止まった瞬間、ゼンがさらに前に飛び出しました。男の腹に拳の一撃を食らわせます。男の小柄な体が吹っ飛び、窓のすぐ下の壁にたたきつけられます。
けれども、すぐにゼンは舌打ちしました。
「なんか下に着てやがるな……」
まともに食らえば内臓も破裂するほど強烈なゼンの一発なのに、男はまたすぐに跳ね起き、窓枠に飛びついたのです。そのまま飛び上がり、逃げだそうとします。
メールが振り返って叫びました。
「ポポロ、魔法! あいつを止めるんだよ!」
ポポロはまだ部屋の入り口のところで立ちすくんでいましたが、そう言われて我に返りました。あわてて両手を窓辺に向かって突きだし、今日二つめの呪文を唱え始めます。
「レマートヨキーテデバノ……」
とたんに、男が窓の上で止まりました。げっ、と短い声を上げ、黒い覆面からのぞく目をいっぱいに見開いて、ぎょろぎょろと動かします。それは恐怖の目つきでした。
「やった!」
と子どもたちは歓声を上げました。笑顔で魔法使いの少女を振り向きます。
ところが、少女は男に負けないほど大きく目を見開いたまま、驚いた顔で窓辺を眺めていました。
「違う……あたしじゃないわ……。呪文はまだ完成してないのよ……」
魔法にかかったわけでもないのに動かなくなった男を、信じられないように見つめます。
子どもたちは、そんなポポロと窓辺を見比べました。何がどうなっているのかわかりません。
すると、ふいにフルートの胸の上で金の石が光り始めました。きらり、きらりと石の奥から金の光を明滅させ始めます。それに気がついて、フルートが叫びました。
「闇の敵だ――!」
ずるり、と窓の外の暗がりで、何かがはいずるような音がしました。
「金の石の勇者だァ……? 確かにそう言ったな、聞いたぞォ……」
地の底から響くような不気味な声が、窓の外から話しかけてきます。
窓枠の上で、刺客の男が突然がたがたと震え出しました。目をむいたまま、喉の奥から絞り出すような声を上げ始めます。仰天した子どもたちの目に、突然、男の背中が見えました。そこには、黒い太い管のようなものが何本も突き刺さっていました。
「闇の触手!」
とポポロが悲鳴を上げました。闇の怪物が生き物の生気と体液を吸い取るための器官です。刺客の男が震え続けます。服を着たその下で、急速にその体が痩せ細っていくように見えます――。
と、男は窓の向こうに落ちました。まるで何かに力ずくで引き寄せられたような動きです。どさり、と窓の下に落ちる音に、ばりんぼりん、とかみ砕くような音が続き、男の絶叫が響き渡ります。
部屋の中の子どもたちは思わず顔を歪めました。ポポロが耳をふさいで悲鳴を上げます。全員が立ちすくんでしまって、その場を動けません。
すると、窓枠に黒いものがせり上がってきました。ずるり、ずるりと這い上がってくる音が響きます。蛇のようにくねる太い触手が何本も宙を揺れているのが、夜を背景に浮かび上がって見えます。それに続いて姿を現したのは、真っ黒な怪物でした。丸い頭にいくつも光る目があり、その両脇から、長いひげのように触手が揺れています。
光る目は部屋の中を見渡し、やがて、一人の子どもに注目しました。フルートです。ひ、ひ、ひ、と笑う声が不気味に響きました。
「金色の石……おまえが金の石の勇者だなァ。探した探した。ずいぶん探した。やっと……食えるなァ」
フルートは、はっとしました。闇の敵が狙っているのは自分だ、とはっきり悟ったのです。とっさに駆けつけようとする仲間たちに鋭く叫びます。
「動くな、みんな! そこにいろ!」
仲間たちは思わずまた立ちすくみました。フルートの声にはそれだけの強い響きがあったのです。
黒い生き物が窓枠から飛び出しました。部屋の中を大きく飛び、まっすぐフルートに襲いかかっていきます。それは頭が丸く、カエルのような吸盤の手を持った怪物でした。後足はなくて、蛇のような尻尾になっています。顔の両脇からひげのように突きだした触手をいっぱいに伸ばして、侍女の格好をしたフルートをとらえようとします。
「フルート!!」
と仲間たちは悲鳴のように叫びました。
すると、そこに強い少年の声が重なりました。
「金の石――!」
たちまちフルートの胸の上で金の石が輝きだし、強い光で部屋中を照らしました。目もくらむような金の輝きです。
とたんに、黒い怪物がどさりと床に落ちました。まばゆい光を浴びて、のたうち始めます。その体がみるみるうちに溶け出します。
魔法の金の石は聖なる石です。その光は闇のものの体を溶かす力があるのでした。
怪物が部屋から消えても、子どもたちはしばらくの間、身動きすることができませんでした。部屋の中にもう敵はいません。刺客の男も、闇の怪物も――。壊れた窓から冷たい北風が吹き込んできて、窓枠をがたがたと鳴らしています。
すると、そこへ通路から人が駆けつけてきました。短い茶色の髪をした、背の高い中年の男です。入り口から部屋の中をのぞき込み、子どもたちに叫びます。
「何があったんだ!?」
それはトウガリの声でした。子どもたちはびっくりして中年男を見つめました。トウガリの素顔を見るのは初めてだったのです。道化の化粧も衣装も身につけていないトウガリは、普通の人とまったく変わらないように見えました。
トウガリは壊れた窓、床にこぼれた血、立ちすくんでいる子どもたちと次々に眺め、全員が青ざめているのを見て、また尋ねました。
「何があった?」
「殺し屋が来た。俺を金の石の勇者だと思ったみたいだ」
とゼンが答えました。そのまま壊れた窓を眺めてしまいます。
「で、逃げていったのか」
とトウガリは言いました。何故だか、殺し屋の襲撃があったことには顔色ひとつ変えません。ゼンは低く答えました。
「いや。闇の怪物に食われた」
とたんにトウガリは驚いた顔になりました。すぐさま壊れた窓に歩み寄り、ランプでその下の地面を照らします。
「血が残っている……だが、それだけだな。食われた? 綺麗なものだな」
と言って、考え込むような顔になります。
開け放した扉の外で、遠くから人が近づいてくる気配がしていました。さすがに騒ぎを聞きつけたのでしょう。大勢の人がこちらに向かってきていました。
トウガリは顔を上げると、服の袖を血で染めているメールを見ました。
「怪我をしたのか?」
「ううん。フルートが金の石で治してくれたから大丈夫だよ」
「では、部屋に戻って服を着替えろ。ポポロもだ。隣の部屋に行っていて、こっちに来るんじゃないぞ。そら、おまえもいい加減、その剣を放せ」
最後のことばはフルートに言ったものでした。ずっとフルートが握りしめていたショートソードを取り上げます。
とたんに、フルートはその場に座り込みました。立っていられなくなったのです。金の石のペンダントを握りしめたまま、唇をかんでうつむいてしまいます。ゼンが心配そうにその脇に立ちました。
「それでいい。おまえらはその格好でいろ」
とトウガリはフルートとゼンに言いました。
「部屋に来たのは強盗だ。窓を壊して入り込んできたが、ゼンが撃退した。床や窓の外に落ちているのは、強盗が流した血だ。怪物のことは何も言うな。――いいな」
通路を向かってくる人の声は、もうすぐそばまで近づいていました。メールとポポロを隣の部屋に追い出して、トウガリはまたフルートとゼンを見ました。強盗に襲われて呆然と座り込んでいる侍女と、それを慰めている下男の少年にしか見えません。
フルートは真っ青でした。何も言わずにうつむき続けています。いつになく本当にショックを受けている様子のフルートに、トウガリが言いました。
「芝居というわけではなさそうだな……。闇の怪物は何故襲ってきたんだ?」
けれども、フルートはやはり黙ったまま首を振っただけでした。唇をさらに強くかみ、そっと金の石のペンダントを服の胸元に隠します――。
壊れた窓の外で風がうなっていました。夜の闇は暗く深く、どんなに目をこらしても見通すことはできませんでした。