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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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第9章 前夜

35.王妃

 ユギルは、ロムド城の自分の部屋で机に向かって座っていました。

 その目の前にあるのは大きな占盤です。円盤形に削って磨き上げた黒い大理石の表面に、他人には意味の分からない線や模様がいくつも刻まれています。ユギルはその占盤の縁に手を触れて、じっと石の表面を見つめていました。そこに象徴を読み取ることで、ユギルは現在や未来を占うのです。

 けれども、どんなに念をこらしても、今のユギルにはそこに象徴を見いだすことはできませんでした。占盤はただの黒い石にしか見えません。目に入ってくるのは、鏡のように磨いた表面に映る自分自身の姿だけです。長い銀髪に青と金の色違いの瞳をした顔は苦しげな表情をしています。

 やがて、ユギルは溜息をついて立ち上がりました。あきらめたのです。疲れ切った様子で隣の部屋に続く扉を開けます――。

 

 すると、部屋の椅子に大柄な人物が座っていました。地味ながら立派な身なりをした、灰色の瞳の青年です。けむるような暗い灰色の髪を後ろ手に一つに束ねて金の環で止めています。

「殿下」

 とユギルは目を見張りました。皇太子のオリバンだったのです。

「ノックしても返事がなかったから、勝手に入っていたぞ」

 とオリバンが言いました。ユギルは銀髪の頭を丁寧に下げました。

「ご自由に。わたくしの部屋は、殿下にはいつでも扉をお開けしております」

 そんな占者の姿を、オリバンはじっと見つめました。重々しく言います。

「まだ占いの力が回復していないのだな……。まったく見えないのか?」

 ユギルは苦笑を揺らしました。それにはすぐには返事をせずに、廊下へ続く扉へ向かいます。

「今、女中にお茶を運ばせましょう」

「いや、いい。メーレーンや、助けに向かったあいつらがどうなっているか少しでもわかれば、と思って寄っただけだ。邪魔をしたな、ユギル」

 ぶっきらぼうな口調ですが、力を失っている占者を思いやって、早々に部屋を立ち去ろうとします。ユギルは、はっきりと苦笑しました。申し訳ありません、と謝ってから話し出します。

「わたくしの占いの目は、相変わらず何も見えておりません。ポポロ様がハルマスで使った光の魔法は、本当に強力なものでした。むろん、だからこそ魔王の黒い魔法を破壊することができたのですが、この感じでは、占いの力が回復してくるまでに、あと四、五日はかかることでしょう。それも、すぐに完全には戻らないだろうと存じます……」

 そう言って、ユギルは静かにうつむきました。その顔が密かに苦悩しているように思えて、オリバンは黙って見つめてしまいました。人前では決して見せなかった苦しさを、自分の部屋ではのぞかせているユギルです。

 占い師が、そのよりどころである占いの目を失ってしまうというのは、どんな気持ちがするものだろう、とオリバンは考えました。皇太子自身は、武人としての自負もあります。手を失い、足を失い、剣を握って戦えなくなった自分の姿を想像したとき、なんとなく、ユギルのつらい心情も理解できるような気がしました。

「焦るな、ユギル。待てば必ずおまえの目は戻ってくるのだ。私も、あいつらを信じて待ち続けよう」

 とオリバンは言いました。本当は、今すぐにでも自分でザカラスへ駆けつけ、フルートたちと一緒に妹を取り戻したいと考えているのですが、その想いも焦りもじっとこらえます。

 すると、ユギルはうつむきがちに続けました。

「象徴はまだ見えませんが、予感はしているのです……。ザカラスへ向かった方々に、危険がつきまとっている気がしております。時間がたてばたつほど、この予感は強まるばかりです。ですが、何が勇者の皆様方に迫っているのか、どうしても読み取ることができません。手の打ちようがないのです――」

 ついにユギルは唇をかんでしまいました。何かをこらえるように黙り込みます。

 オリバンは思わず大きな溜息をつきました。なんの手出しもできないのはオリバンも同じです。

「信じるしかない、あいつらを……。ああ見えても、あいつらは金の石の勇者の一行だからな」

 ユギルは黙ったまま、うなずきました。

 

 オリバンとユギルは部屋を出て執務室へ歩き出しました。何か事があれば真っ先に知らせが入るのは国王のところです。ザカラスへ向かったフルートたちからも、定期的に連絡が入ってきます。彼らが旅立って以来、オリバンたちの足は自然と執務室に向かうようになっていたのでした。

 すると、通路の向こうから一人の貴婦人がやってきました。華やかなドレスを着て、輝く金髪を結い上げ、数人の侍女を従えています。もう中年と呼ばれる年代なのですが、まるで少女のような初々しい表情をしています。オリバンとユギルの姿を見つけると、ぱっと顔を輝かせ、通路を小走りに駆け寄ってきました。

「オリバン――ユギル!」

 呼びかける声も若々しくて、本当に少女のようです。

 二人の青年は立ち止まりました。

「母上」

 とオリバンが言いました。ユギルも深くお辞儀をします。メノア王妃だったのです。

 王妃は小柄で華奢な女性でした。一方、義理の息子の皇太子や占者ユギルは標準よりずっと長身です。王妃は顔を思いきり上げて二人の青年を見上げました。

「会えて良かった。ユギルの話が聞きたくて、お部屋に向かっていました。すれ違いになるところでしたわ」

 そう言って笑いかけてくる顔は、無邪気と言っても良いほど明るく屈託のない表情をしていました。

 ユギルはまた丁寧に一礼しました。

「これはこれは。メノア王妃様じきじきにお訪ねとは、どのようなお話でございましょうか」

「メーレーンのことです」

 と王妃は娘の名を言いました。予想がついていたユギルとオリバンは、ただ黙って王妃のことばを聞きます。

「あの子は今、私のお父様に招かれてザカラスへ行っています。でも、あの子は病み上がりだわ。ザカラスで体調を崩していないか、それが心配で……。ユギルならば、あの子がザカラスでどうしているか、占いで知ることができるから、元気でいるかどうか見てもらおうと思って」

 

 二人の青年は、そっと微笑を揺らしました。苦笑いや嘲笑といった類の笑いではありません。もっと優しい、相手を思いやるような笑顔です。

 オリバンが穏やかに口を開きました。

「ご心配には及びませんよ、母上。昨日、ザカラスからメーレーンの便りが届いたし、とても楽しく過ごしていると書いてあったではないですか。ユギルに占ってもらうまでもなく、メーレーンは元気でいますよ」

「でもねぇ。母に挨拶もなしに遊びに行ってしまうのですもの。困った子だわ、本当に」

 青年たちはまた静かにほほえみました。メノア王妃は、本当に何も知らないのです。メーレーン王女が城から突然いなくなった理由も、父親であるザカラス王のたくらみも、何一つ。ただ、夫のロムド王から言われたことを、そのまま素直に信じているのでした。

 ユギルは王妃に頭を下げて言いました。

「メーレーン様はお元気でいらっしゃいます。ザカラス城の犬たちと楽しく遊んでいらっしゃる、と占いにも出ております。王女様のご様子は、わたくしが毎日占っておりますので、どうぞご安心くださいませ」

「まあ! ちゃんと占いにも出ていたのね!」

 とメノア王妃は手を打ち合わせました。本当に少女のような笑顔が広がります。

「良かった、安心しました! ユギル、これからもあの子の様子を時々見てくださいね。ザカラスであまり羽目を外しているようだったら、人をやって、ロムドに連れ戻さなくてはならないし」

 青年たちは、いっそうな優しい目になりました。真実を隠しながら、オリバンが言います。

「それもご心配なく。トウガリが侍女たちと一緒にメーレーンの元へ向かっていますよ」

「ああ、そうね。トウガリが行ってくれていたのだわ」

 と王妃がまた笑います。なんの疑いも持たない、無邪気なほどに透き通った笑顔です。

「ええそうね。きっと大丈夫ね。あなたたちと話せて良かった。安心しました――」

 晴れやかな笑顔を残して、メノア王妃はまた自分の部屋へと戻っていきました。侍女たちが、王女様の心配ばかりなさらないで、気分転換に芝居見物でもいかがですか、と王妃に話しかけていました。

 

 王妃たちが立ち去ると、オリバンはユギルと顔を見合わせました。今度は、はっきりと苦笑いをしてみせます。

「ゼンがここにいたら、『なんだ、あの王妃は!?』と絶対に言っただろうな」

「メノア様は、本当に人を疑うことをなさらない方ですから」

 とユギルは静かに答えました。ユギル自身、以前はそんな王妃を、なんとおめでたい女性だろう、と考えていたのです。けれども、今は、それともちょっと違った目で王妃を見るようになっていました。

 表には出せない陰謀と策略が渦巻く王宮。それはザカラスもロムドも同じです。その中にあって、いつまでも少女のように純真に人を信じ続けているメノア王妃は、ある意味、非常に希有な存在だったのです。生まれついた性格は大きいのですが、それにしてもすごいことだ、とユギルは思うようになっていました。

 すると、オリバンが言いました。

「私が父上と気持ちの上で行き違って、いさかいを起こしていた頃、城中の者たちは、こぞって私をいさめて父上に従わせようとした。ところが、母上とメーレーンだけは一度もそんなことはしなかった。私が辺境部隊から城に戻るたびに、いつも心から笑いかけて、『お帰りなさい、オリバン』と言ってくれたのだ。『今度はどのくらい城にいられますか』とも必ず聞いてくれた。……母上とメーレーンがいなければ、私は国を飛び出して、今頃はもうロムドにはいなかったかもしれない」

「左様でございますね」

 とユギルは答えました。

「王妃様は、とても心素直な方でいらっしゃる。そして、メーレーン様は、そんな王妃様に瓜二つです。ですから、王妃様とメーレーン様は、ロムド国民からとても愛されているのです」

「助け出さなくてはな、メーレーンを」

 とオリバンは言いました。低く強い声でした。

「ザカラスの汚い陰謀に、メーレーンや母上を巻き込んではならないのだ」

 ユギルは黙ってそれに頭を下げて同意しました。

 

 ところが、オリバンとユギルがまた歩き出そうとすると、通路の向こうから一人の家来が姿を現し、オリバンたちを見つけて駆け寄ってきました。

「殿下、ユギル殿、こちらにおいででしたか――」

「どうした?」

 とオリバンが尋ねます。家来は皇太子たちに一礼してから答えました。

「先ほど、城下のラヴィア邸から知らせが入りました。ケイト・ラヴィア様が、ご自宅でお倒れになったそうです」

「ラヴィア夫人が!?」

 とオリバンは驚きました。ユギルも顔色を変え、思わず自分から尋ねました。

「それで――? ラヴィア夫人の容態は!?」

「医師の手当てを受けているところだそうでございます。陛下とリーンズ宰相が、今ほどラヴィア邸に向かわれました」

「わかった、我々も行く。馬車を回せ」

 とオリバンは言って、即座に城の出口へ向かいました。その先を家来が全速力で駆けていきます。馬車を準備させるために急いでいるのです。

 ユギルも足早に通路を歩いていきました。長い銀髪と灰色の衣がなびきます。

 先生……! とユギルは心で叫びました。老いの衰えを隠して、杖をつき、毅然と立っていたラヴィア夫人の姿が浮かびます。「疲れました」と言って立ち去っていった姿も思い出されます。占者の目を失ったユギルは、こんな当然のような未来まで見えなくなってしまっていたのです……。

 唇を強くかみしめながら、ユギルはひたすら急ぎ続けました。

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