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第8巻「薔薇色の姫君の戦い」

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19.決心

 ユギルは城の通路を一人で歩いていました。占い師を表す灰色の衣を着ていますが、フードはかぶっていないので、長い銀髪が燭台の明かりにきらめきます。

 やがて、彼は一つの扉の前に立ち止まりました。そこに立つ家臣に取り次ぎを頼むと、間もなく、扉から杖をついた小柄な老婆が出てきました。ラヴィア夫人です。ユギルの顔を見ると、おや、という表情になり、部屋の中を振り向いて言いました。

「お稽古は少しの間休憩にします。部屋の中で休んでおいでなさい」

「おじゃまして申し訳ございません、先生。勇者殿の生徒ぶりはいかがかと思いまして」

 とユギルは丁寧に頭を下げました。ラヴィア夫人はユギル自身もかつて礼儀作法を習った人物です。

 老婦人は部屋の扉が閉まったのを確かめてから答えました。

「よろしくありませんね。表面的には大変素直ですが、心がこちらを向いていません。心が抵抗している状態では、何を教えても入っていかないのです」

「わたくしも先生には大変ご苦労をおかけいたしました」

 とユギルは答えました。その声は静かすぎるほど静かです。ラヴィア夫人はちょっと笑いました。

「確かにそうですね。あなたもなかなか手強かった。ですが、あなたには時間がありました。勇者殿にはそれがありません。たった三日では、何も身につかないでしょう」

 それから、夫人は苦笑いするような表情に変わりました。

「ですが、想いを寄せる少女の前で女になれ、などと言うほうが、どだい無理な話なのです。あなた方も、なかなか残酷な作戦を思いつきましたね」

 かつての先生からそんなふうに叱られて、ユギルはまた頭を下げました。

「それは承知の上なのでございます。……少し勇者殿と話をしてもよろしゅうございますか?」

 ラヴィア夫人はうなずきました。

「では、私は隣の部屋で休んでいましょう。話が終わったら声をかけてください」

 と言って、家臣が開けてくれた隣の部屋に入っていきます。

 ユギルは静かに稽古の間の扉をノックしました。

 

 四角い部屋の真ん中で、フルートがぼんやり座り込んでいました。若草模様のドレスはよく似合っていて、本物の少女がいるように見えます。けれども、床の上に座る格好は少年そのものでした。疲れ切った表情も、やっぱり、あまり少女のようには見えません。

 ユギルは近づきながら、そっと声をかけました。

「勇者殿」

 フルートは目を上げて占者を見て、すぐにまた目を伏せました。ドレスの上から膝を抱えてしまいます。何も言いません。

 ユギルはその隣に並んで座りました。腰まである長い銀髪が、部屋の絨毯の上に流れて広がります。整った浅黒い顔をフルートに向けてじっと見つめますが、少年は意固地にうつむいたままでした。なんだか、今にも泣き出してしまいそうにも見える顔でした。

 ユギルは穏やかに話し出しました。

「勇者殿には、本当に申し訳ないお願いをしたと思っております。おつらいのは、よくわかっているのですが」

 フルートはやっぱりすぐには返事をしませんでした。しばらく間があってから、低い声で答えます。

「ラヴィア夫人から言われるとおりにしようとは思っているんです……。でも、どうしてもだめなんです。女になんてなれないんです。だって……」

 そこまで言って、またうつむいてしまいます。少年の横顔が唇をかんでいました。

 そんなフルートを静かに見つめ続けてから、ユギルはまた口を開きました。

「勇者殿は、そのご容姿でずっと嫌な想いをされてきた。そうでございますね?」

 フルートは顔を上げました。意外そうな表情をする少年に、青年は笑いかけました。

「わかります。わたくしも同じでしたから」

「同じ?」

 とフルートは相手を見つめ直しました。占者の青年は、浅黒い肌に色違いの瞳の、本当に美しい顔立ちをしています……。

 その長い銀髪を片手でさらりと持ち上げて見せてから、青年は言いました。

「こんなに綺麗な子どもは見たことがない、と小さい頃から言われ続けました。まるでエルフのようだ、ともよく言われます。色違いの瞳やこの肌の色を気味悪がる者もありましたが、むしろ、珍しい色合いだと好む者も多かったのです。わたくしはずっと、珍しい動物か綺麗な飾り人形のように人々から見られ続けてまいりました。……城に来てからは、今度はうらやましがられました。こんなに美しい容姿に生まれてすばらしい、神は占いの力と美しさと二つもの贈り物をわたくしに与えたのだ、と。それを聞くたびに心の中で思いました。冗談じゃない、勝手なことを抜かすな! と」

 本音の部分を、わざと乱暴な口調で言って、美しい青年はまたフルートに笑って見せました。

「わたくしは、この容姿を自分で嬉しいと思ったことなど、一度もありません。むしろ、うとましいばかりでした。自分は本当は占者なのに、どうして見た目だけで判断するんだ、本当の自分は違うんだ、と、子どもの頃からずっと考えておりましたから」

 フルートはとまどって目をそらしました。ドレスを着た自分の膝を眺めながら、また低い声で言います。

「ぼくも、人から綺麗だなんて言われて嬉しかったことは一度もないです……。ぼくは、もっと男らしい顔や格好に生まれたかったんです……」

 考えたってしかたないことなんだけど、とフルートは続けました。膝を抱えてうつむいた姿は、本当に年相応の多感な少年のものでした。

 そうですね、とユギルは答えました。優しいほどの声でした。

「勇者殿の持つ魂の強さに比べれば、確かにそのお姿は優しすぎるかもしれません。ですが、わたくしの占いの師匠が、昔、こんなことを言ったのです。『おまえの外見はおまえの本質を隠してしまっていただろう。けれども、おまえが一人前の占い師になったとき、今度はその容姿がおまえを助けるだろう』と。事実、占いを告げるときにこの顔と目でじっと相手を見つめれば、たいていの方はわたくしの言うことを信じてくださいます。占いの結果を疑っている方でも、そうです。占い師は相手に信じてもらって初めて役に立てるものですから、今では確かに、この姿がわたくしを助けてくれております」

 そして、美しすぎる占者はまたフルートに笑いかけました。

「それは勇者殿も同じです。男と疑われることなく侍女としてザカラスへ行くことができれば、王女を救い出せるだけでなく、お嬢様方を助けられる場面もありましょう――」

 

 フルートは、はっと顔を上げました。ユギルは、フルートが女装をすればメールやポポロを守ることができる、と言っているのです。フルートは今までとはうって変わった真剣な表情になって、占者を見返しました。

「それって……占いの結果なんですか?」

 ユギルは苦笑を漂わせました。

「わたくしの占いの目はまだ戻ってきてはおりません。ただ、本当に幼かった頃のように、予感がするようになっております。具体的にどうなるのかまではわかりません。将来を読むこともできないのですが、それでも、これから動いていく方向をなんとなく感じております」

「ポポロたちに危険なことが起きる予感がするんですね?」

 とフルートは確かめました。

「メーレーン様のそばに行って王女様を救い出すだけのことならば、お嬢様方だけでもできるだろうという気はするのです。ですが、どうにも胸騒ぎがしてなりません。侍女に化けて敵地に乗り込むというのは、決して楽観できる作戦ではないのです。どんなに有能な戦士であっても、敵地では思うように力を発揮できないのが普通です。万が一にもお二人の正体がばれることがあれば、ザカラスに捕らえられ、命も奪われてしまいましょう。それは、決してあってはならないことです」

 フルートは、また自分の膝を見つめていました。さっきまでの傷ついたような雰囲気はもうどこにも感じられません。ただ、じっと考え込み、やがて、つぶやくように言いました。

「でも、ぼくならば侍女になって彼女たちと一緒にいることができる」

 ユギルはうなずきました。

「従者では、それはかないません。王女に仕える侍女と従者が同じ部屋にいるなどというのはありえないことです。また、王女様のそばまで行けるのも侍女だけなのです」

 今度はフルートがうなずき返しました。何も言わずに考え込む顔の中で、青い瞳が次第に強い輝きを宿し始めます――。

 フルートは、立ち上がりました。長いドレスの裾を片手でばさりと後ろに払うと、まだ座っている青年に向かってきっぱりと言います。

「ラヴィア夫人に休憩時間は終わったと伝えてください。また稽古を始めてもらってかまいません」

 決心した声でした。

 ユギルは、そんなフルートに静かに一礼をすると、立ち上がって隣室へ向かいました。先生、と声をかけます。

 

「話はすみましたか」

 とラヴィア夫人が部屋の長椅子から答えました。夫人は長椅子に横になって休んでいました。痩せた手を伸ばして起き上がろうとしますが、小さく震え続ける手ではなかなか椅子の背がつかめなくて、起き上がるのに苦労します。ユギルは驚いて駆け寄りました。

「先生、大丈夫でございますか……!?」

 起き上がろうとするのに手を貸し、そこに感じる体重のあまりの軽さに、また思わず驚いてしまいます。

 すると、そんなユギルの表情を見て、ラヴィア夫人は笑いました。

「なんて顔をしているのです、ユギル。あなたらしくもない。私も来年にはもう九十歳になるのですよ。あなたに教えた頃の勢いは、さすがにもうありません」

 そう言いながら、杖を頼りに椅子から立ち上がります。ゆっくりと、ゆっくりと……頼りないほどにゆっくりと。杖を握る手や立ち上がる足が震え続けています――。

 ユギルは何も言えなくなっていました。そこにいるのは本当に小さな老婆でした。ラヴィア夫人は、ユギルが考えていた以上に年老いて衰えてしまっていたのです。

 けれども、口調だけは相変わらずしっかりしたままで、ラヴィア夫人は言いました。

「それで? 勇者殿はなんと言いましたか?」

「休憩時間を終わりにして、また稽古を始めていただいて良いです、と――」

 言いながら、ユギルは心配そうに夫人を見つめてしまいました。勇者の稽古などを頼んで、無理をさせてしまっているのだろうか、と考えます。

 すると、ラヴィア夫人はまた言いました。

「あなたにそんな表情をしなさいと教えた覚えはありませんよ、ユギル。いつも冷静に。どれほど内側に不安を抱いていたとしても、決して周囲にはそれを悟られないように――。それが城一番の占者としての務めです。大丈夫、私だってまだまだ、あなた方の先生をする元気くらいは残っていますよ」

 言いながら、杖にすがり、隣の稽古の間に向かいます。頼りない足下をユギルは見つめ続けます。

 けれども、家臣が稽古の間の扉を開けたとたん、老婆はしゃんと頭を上げ直し、誰もが驚くほどの声を張り上げました。

「さあ、それではまた稽古を再開しますよ! 時間がありません! 雑念を捨てて、本気で稽古に臨みなさい! よろしいですね!?」

 はい、先生! とフルートがそれに答える声が聞こえてきました。もう迷いのない、はっきりとした返事です。ラヴィア夫人は泰然とうなずき、部屋に入っていきました。

「先生――」

 再び閉じた扉の前で、ユギルは深く深く頭を下げました。

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