フルートは、情けない想いで部屋の中に立っていました。
そこは、国王がフルートの礼儀作法の稽古のために特別に準備してくれた部屋です。けっこうな広さのある四角い部屋の周囲には、たくさんの鏡が並んでいます。そこにフルートが映っていました。若草模様の薄緑色のドレスで身を包んだ姿です……。
フルートは思わず溜息をつきました。この年頃の少女にしては痩せすぎていますし、ふっくらとした雰囲気にも欠けています。髪だって少年のように短いままです。それなのに、ドレスを着て鏡の中に立っている自分は、本当に少女そのものにしか見えないのです。それも、とびきり優しげな顔立ちの美少女です。
はぁ、とフルートはまた溜息をつきました。この格好で人前に出たら、十人中十人までがフルートを女と信じるでしょう。本当に、情けなくて涙がこみ上げてきそうになります。
すると、外の通路からばたばたと賑やかな足音が聞こえてきて、突然子どもたちが部屋に飛び込んできました。ゼンとメールとポポロ、そして二匹の犬たちです。彼らも稽古をするために衣装を替えていました。メールとポポロは地味な色合いのドレスを、ゼンもいつもとは違う、裾の長い上着を着ています。変わらないのは犬たちだけです。
フルートは、ぎょっと思わず身を引きました。絶対に彼らに大騒ぎされると考えて身構えてしまいます。
ところが、仲間たちはすぐには何も言いませんでした。目を見張ったまま部屋の中に立ちつくして、フルートと見つめ合ってしまいます。
やがて、最初にことばを発したのはメールでした。
「うーん……似合うだろうとは思ってたんだけどさ……すごいよね。ホントに女の子にしか見えないや」
と感心したようにドレス姿のフルートを見つめ続けます。
「フルート、お化粧もしてないのよね? それでこれだけ完璧に女に見えるんですもの。これはまず絶対にばれないわねぇ」
とルルが言えば、ポチも言います。
「ワン、なんかフルートのお母さんにそっくりですよ。お母さんをうんと若くしたみたいだ」
ポポロは何も言いませんでした。ただ複雑な表情でフルートを見つめ続けます。フルートは、本当に綺麗でした。あまり綺麗すぎて、何と言っていいのかわからなくなったのです。そんなポポロから、フルートは顔をそらしました。
すると、別の方向から自分をじっと見つめ続けていたゼンと目が合いました。あまり真剣に見ているので、フルートは聞き返しました。
「なにさ、ゼン?」
口調は少年のままです。
すると、ゼンが急にほっとしたような表情になって笑い出しました。
「良かった。やっぱりおまえだったな。……いや、あんまりドレスが似合いすぎてるからよ、本当におまえなのかと疑っちまったのさ」
「ぼくに決まってるだろう!?」
とフルートは言い返しました。珍しく、どなるような口調になっています。ゼンは首をすくめて笑い続けました。
「そう怒るなって……。それだけ本物の女に見えてりゃ、作戦だって成功するさ。あとは、その話し方だけだよな。そこまで女になりきれれば完璧だ」
フルートはゼンをにらみつけました。その目も、お世辞にも少女のようには見えません。無言の迫力に仲間の少女たちや犬たちは思わず後ずさりましたが、ゼンは平気な顔で言い続けました。
「ま、正直、おまえが男でホントに良かったと思うぜ。そうしていると、俺の理想ってヤツに相当近いもんな。おまえが女だったら、俺、間違いなくおまえに惚れてたぞ」
これには、フルートだけでなく、少女たちまでが顔色を変えました。ゼン!! とメールが金切り声を上げて飛びつきます。
「っと、馬鹿、本気にするな。冗談に決まってるだろ、冗談に」
と笑うゼンを、フルートがメールからひったくりました。ドレス姿のままで友人の襟首を締め上げてしまいます。
「冗談にしても、言っていいことと悪いことがあるぞ!!」
とどなりつけます。もうほとんど泣き顔になっています。ゼンが、やれやれ、と肩をすくめます。
そこへ、突然部屋中に声が響き渡りました。
「まあ、なんですか、この騒ぎは!? ここは宮中ですよ! 静かになさい!」
とても年をとった女性の声です。子どもたちはびっくりして、部屋の入り口を振り向きました。
そこに、小柄で痩せた老婆が立っていました。黒っぽいドレスを着て、つやのない白髪を頭の上で小さくまとめています。その顔はどれほど年をとっているのかわからないほど、しわだらけです。背中も腰も曲がって丸くなってしまった体を、杖でやっと支えています。
けれども、部屋中に響いた声はその小さな老婆のものでした。丸い眼鏡の奥から子どもたちを見回しながら、また驚くほどの大声を上げます。
「あなた方はこれからお城の作法を学ぼうというのですよ! そんな態度でいてどうするのですか!? 気持ちを切り替えなさい! ここでお稽古をするのは勇者殿だけです。さあ、他の者はすぐに出て行きなさい!」
本当に、相手にまったく有無を言わせない勢いです。
すると、老婆の後ろから、ふくよかな体つきの年配の女性が入ってきました。レイーヌ侍女長です。子どもたちに向かって老婆を紹介します。
「皆様、こちらが勇者殿に礼儀作法をお教えするラヴィア夫人です。夫人、勇者殿というのは――」
「見ただけでわかります。あなたですね」
と老婆はフルートに近寄っていきました。杖をつきながらなので、足下は少々おぼつかないのですが、それでも何とも言えない迫力を漂わせています。ゼンがフルートから飛びのくように離れました。
ラヴィア夫人はフルートの前に立って、じろじろと眺めました。ドレスを着た少年の姿を、上から下まで何度も見回します。
「そうですね。顔だちはまあ合格でしょう。体つきも、ちょっと痩せすぎていますが、ドレスでなんとか隠すことができますね」
「今、勇者殿に合わせたドレスを大急ぎで仕立てております」
とレイーヌ侍女長が丁寧に言いました。小さな老婆に、最大限の敬意を払っています。ラヴィア夫人はうなずきました。
「では、それも合格とします。ですが――その表情はいけません。それは男の顔です。まずは、表情のお稽古から。ことばづかいや身のこなしは、その後です」
フルートはすっかり面食らっていました。目の前に立つのは、小柄なフルートよりもっと小さな老婆です。杖を握る手が細かくふるえているのがわかります。本当に、立っているのもやっとのように見えるのに、フルートを叱りつけてくる声は、信じられないほど強い力に充ちているのです。
「あの……」
と言いかけると、たちまち老婆からまた叱られました。
「私を呼ぶときには、先生かラヴィア夫人と言いなさい。相手を呼ぶときには、必ず敬称をつけること。それが侍女としての常識ですよ」
フルートはさらに目をぱちくりさせ、あわてて、ラヴィア夫人、と言い直しました。
「けっこうです」
と老婆はうなずくと、あっけにとられて立ちつくしている他の子どもたちを振り向きました。
「あなたたちは別のお部屋でお稽古だと申しましたよ! 時間は貴重です。ぐずぐずしていないで、早くお行きなさい!」
子どもたちはいっせいに首をすくめました。あわてて自分たちのリーダーに言います。
「そ、それじゃがんばれよ、フルート」
「あたいたちもがんばるからね」
「そこのあなた! 『あたい』じゃなくて『私』です! 覚えなさい!」
と老婆が手にした杖で、びしりとメールを指し示します。メールは、ひゃっと声を上げると、あわてふためいて廊下に飛び出していきました。ゼンと犬たちがそれに続きます。すげえ婆ちゃんだな、とゼンが大声でぼやいたのが廊下から聞こえてきます。
ポポロは一番最後まで部屋に残っていました。何かを言いたげな顔で、フルートを見つめ続けます。
けれども、フルートはまた顔をそむけました。それだけでなく、完全に背中を向けてしまいます。ポポロは、はっとしたような表情になると、黙ったままうなだれて部屋から出て行きました。悲しげな雰囲気が漂います……。
そんな二人を、侍女長とラヴィア夫人が見ていました。大人たちの間で視線を交わして納得するようにうなずき合うと、侍女長は他の子どもたちの後を追って廊下に出ました。扉が閉まり、部屋にはフルートと老婆だけになります。
ラヴィア夫人は、フルートの前に立つと、小さな体からまた信じられないような大声を上げました。
「さあ、そんな顔はしないで! 表情のお稽古から始めますよ! まずは笑う練習から。女性らしく、優しくほほえむのです!」
笑え、と言われて、フルートは思わず泣き出しそうになりました。
これは本当に、想像以上にきつい稽古になりそうでした……。