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第7巻「黄泉の門の戦い」

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89.命乞い

 レィミ・ノワールは両手を高く差し上げ、闇の魔法を呼び集め続けていました。指先から手のひら、手首と腕が黒く染まっていきます。またあたりに風が巻き起こり、動けなくなっている人々の髪と服を激しくはためかせます。

 オリバンは傷ついたユギルを抱き支えながら尋ねました。

「ユギル、ゼンは!? 彼らはどうなったのだ!?」

 吹きすさぶ風に負けないように言うので、どなるような声になっていましたが、ユギルは何も答えませんでした。ただ、この世ならぬものを見る目で、じっと遠くを見つめているだけです。

 ゴーリスは足の骨を折っていました。肋骨も何本も折れています。もう立ち上がることはできません。ただ激痛に耐え、妻を抱いています。

 すると、ジュリアがつぶやくように言いました。

「ミーナ……」

 乳母と一緒に王都へ帰した娘の名前です。それまで決して泣かなかったジュリアの目に涙があふれました。両親の彼らはこの世を去らなくてはならないのです。生後半年にしかならない、幼い娘を残して――。ジュリアは夫の胸に顔を埋めると、声を上げてむせび泣き出しました。それをゴーリスがいっそう強く抱きしめます。

 ポポロは、白い砂の上に座りこんだまま泣き続けていました。どこも怪我はしていませんが、やっぱり立ち上がることができません。もともと自分に自信などちっともないポポロです。もてあますほど強力な魔法を仲間のために使うことで、かろうじて自分を支えてきたのに、それさえも打ち砕かれて、自信をすっかり失ってしまったのでした。小さな子どものように泣きじゃくって、もう何もすることができません。

「ポポロ……」

 とルルが立ち上がろうとしました。よろめく足で二歩、三歩とポポロの方へ歩いていきますが、すぐにぱたりと倒れてしまいました。闇の障壁にはじき飛ばされ、地面にたたきつけられて、やっぱり大怪我をしていたのです。

 

 同じく地面にたたきつけられたメールが顔を上げました。やはり起き上がることができませんが、その瞳はまだ戦う意思を失っていませんでした。魔女をにらみつけながら呼びかけます。

「花たち……! 花たち、いるかい……!?」

 庭の隅から、本当に最後の守りの花が一輪だけ飛んできました。風の中をついて、矢のような勢いで魔女に向かっていきます。けれども、それも魔女に届く前に、黒い光の壁に激突して燃えつきてしまいました。

 ふん、と鼻で笑った魔女を、メールはにらみ続けました。深い青い瞳が燃え上がるように輝いています。絶望して打ちのめされている目ではありません。

 魔女は不愉快な表情になりました。両手で黒い魔法を抱えながら、メールに向かって片足を蹴り上げて見せます。魔女とメールの間にはかなりの距離がありましたが、ぱっと黒いドレスの裾がめくれて黒い靴先がのぞいたとたん、メールの体がいきなり後ろへ吹き飛ばされました。まるで見えない足に蹴飛ばされたような勢いでした。

「生意気な目をしているんじゃないことよ!」

 と魔女がどなりつけてきました。

「この期に及んで、あたくしに逆らおうと言うの!? 死にぞこないのくせに!」

「あたいは海の民さ」

 とメールは言い返しました。

「海の民は死ぬ最後の瞬間まで戦うことをやめないんだ。悔しがりなよ、魔女。あたいは、絶対に絶望なんかしてやんないんだから」

 魔女の赤い眼が、ぎらりと光りました。かざしていた黒い魔法をふいに縮めて片手だけに収めると、つかつかとメールに近づいてきます。

「本当に礼儀知らずで生意気なお姫様ね。そんなに言うなら、この魔法をまずあんたの大事な人にプレゼントしてあげるわ。それでも絶望しないかどうか、見せてごらん」

 と魔法の集まった手を階段の上のベッドへと向けます。そこにはゼンが横たわって眠り続けていました。

「やめて!」

 とメールは思わず叫んでしまいました。真っ青になっています。必死で立ち上がり、魔女を止めようと思うのに、どうしても体が動きません。

 魔女は満足そうな笑顔に変わると、地面に倒れたままのメールを踏みつけました。黒い靴の底でメールの顔を踏みにじります。

「さあ、しっかり見るのよ。あんたの好きな男が粉々に吹っ飛ぶ様子をね」

 メールは悲鳴を上げました。魔女の片手の中で、魔法がパチパチと黒い火花を散らしています。魔女はそれをゼンにたたきつけようとしました。

 

 その時、若い男の声が呼び止めました。

「お待ちなさい、魔女」

 ユギルが血に染まった肩を抱えながら起き上がってくるところでした。魔女は振り向き、にやりとしました。魔法の発動を止めて、艶然と笑いかけます。

「あたくしに何か用かしら、綺麗な占い師さん?」

 ユギルは、自分を守るために前に立とうとするオリバンを押しとどめました。ふらつきながら立ち上がると、魔女をまっすぐに見ます。

「あなたはわたくしに仲間になれとおっしゃった……。あなたのものになれ、と。わたくしがそれに従ったら、彼らの命は助けてもらえますか?」

 ユギルは血に汚れ、全身埃まみれです。浅黒い顔は多すぎる出血に青白くなり、長い銀の髪も輝きを失っています。けれども、それでも彼の姿は美しく、伝説のエルフのように凛然と立っていました。

 魔女はそんな彼を見つめて、うふん、と笑いました。ゼンを攻撃するのをやめて、今度はユギルへ歩いていきます。

「やっとその気になったの、占い師さん? ええ、あなたがあたくしの言うことを聞くというなら、あなたの命は助けてあげることよ。あなたみたいに綺麗な男を吹き飛ばしてしまうのは、あまりにももったいないものね」

「わたくしが聞いているのは、他の皆様方の命を助けてもらえるか、ということです」

 とユギルは繰り返しました。冷静な声です。

 魔女はくすくすと笑い続けました。片手には黒い魔法を抱えたまま、もう一方の手を伸ばし、ユギルの首に絡みつくように腕を回してきます。

「あなたの命は助けてあげることよ。あたくしのものになると言うなら、人の命の何倍もの寿命もあげるわ。他の者の命を使って、いつまでも生きながらえていくことができるのよ。でもね、他の連中はダメ。あたくしに徹底的に逆らったんですもの。そんな奴らは生かしてはおけないわ。綺麗さっぱり吹き飛ばしてやるのよ」

 魔女はユギルの目と鼻の先にいました。ユギルに抱きついたまま、怪しく笑いかけ、悩ましいほどに優美な体をすり寄せてきます。それでも、片手の黒い魔法は手放しません。

「こいつらが死ねば勇者の坊やも絶望するわ。あの坊やは、ただこいつらを助けたくて必死になっているだけなんですもの。金の石の勇者さえいなくなれば、デビルドラゴンの邪魔をできる者は誰もいなくなって、後はあたくしたちの天下。ゆっくりと、世界をあたくしたちのものにしていけばいいだけなのよ。あたくしと一緒にいらっしゃい、占い師。あなたは本当に綺麗だわ。あたくしの恋人にしてあげてもいいことよ」

 魔女の豊かな胸がユギルの体に押しつけられてきました。

 ユギルは魔女に尋ね返しました。

「恋人――ですか? あなたの」

「ええ、そう。どう? 悪い話ではないと思うわよ」

 そばに立つオリバンが、二人のやりとりを聞いて顔色を変えていました。ユギル! と必死で叫びます。

 けれども、それを無視して、ユギルは魔女を見ました。考えるような表情をして、やがて、にっこりと、美しい微笑を浮かべてみせます。

 それを見て魔女も笑い返しました。血のような唇が勝ち誇ったほほえみを作ります。彼が承知したと思ったのです。

 すると、ユギルは笑顔のまま魔女に短く答えました。

「くそくらえ」

 

 魔女は目をむきました。オリバンも、やりとりを聞いていた他の者たちも、驚いていっせいに目を丸くしました。いつも上品で丁寧なユギルの口から出たことばとは、とても思えません。

 すると、ユギルが突然声を上げました。

「ポポロ様! ポポロ様、魔法をお使いください! ありったけの力で魔女の魔法を砕くのです――!」

 砂の上に座りこんでいたポポロが、ぎょっと顔を上げました。大きな瞳はまだ涙を流し続けています。とっさに大きく首を振ります。

 それへユギルは叫び続けました。

「おやりください! もうそれ以外の方法はありません! 最大級の魔法で魔女を打ちのめすのです!」

 びしり、と魔女の平手がユギルの頬を打ちました。やっと立っていたユギルの体が、大きくよろめいて倒れそうになり、オリバンに抱きとめられます。

 魔女は怒りとあざけりを混ぜ合わせた顔で笑いました。

「そう、よくわかったわ。あんたたち全員をまとめて黒い魔法で吹き飛ばしてあげる。もう命乞いも何も受けつけないわよ。そのおチビさんに何ができるもんですか。おチビさんの魔法はあたくしには効かないわ。ただ泣きながら死んでいくだけよ!」

 魔女はまた両手を上に差し上げました。ずっと抱えていた黒い魔法が、その間で大きくふくれ始めます。また魔女の手が黒く染まっていきます――。

「ポポロ様!」

 とユギルが叫びました。

「ポポロ!」

「ポポロ、やりな!」

 とルルとメールも声を上げます。庭にいる全員が、黒い衣を着た小さな少女を見つめました。

 けれども、ポポロは砂の上に座りこんだまま、両手で顔をおおってしまいました。涙は止まっていません。泣きながら激しく頭を振り、小さな声で繰り返します。

「だめ……かなわないわ……だめなのよ……」

 少女は両手に顔を隠したまま、むせび泣きました。

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