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第7巻「黄泉の門の戦い」

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88.到着

 シェンラン山脈の魔女の城で、フルートとポチは身動きできずにいました。腐りかけた顔を持つ悪霊が、黒い蛇の群れのように二人に絡みついてきます。ポチは全身を悪霊に取り囲まれて、もう顔だけしか見えません。悪霊が出す死者の毒に、二人の体がしびれ始めています。

「フルート……」

 ポチは泣き声を上げました。金の鎧の少年は、もう剣も持てなくなっていました。腕や体に太い縄のように悪霊を絡ませながら、黒いテーブルの上のグラスをにらみ続け、叫び続けています。

「やめろ、魔女! やめろ、やめろ――やめろ――!!!」

 グラスの中には、両手を差し上げていくレィミ・ノワールの姿が見えています。その指先がゆっくりと黒く染まっていきます。あれが肘まで夜のような黒に染まったとき、魔女は再び黒い魔法を下し、一瞬で焼き尽くしてしまうのです。ハルマスの中庭と、そこにいる大切な仲間たちを。

 魔女は笑顔でした。目の前でおののく人々を見て、満足そうな顔をしています……。

 ぬるり、とポチの肌の上を悪霊が這っていく感触がしました。探るような気配です。ポチは、ぞっとしました。悪霊が内側に入りこんで魂を食らいつくそうとしているのです。ポチは必死で抵抗しました。けれども、悪霊をつかむことはできません。体もしびれていて動きません。悪霊がポチを締めつける力が強くなっただけです。

 苦しさにポチは思わずあえぎました。助けて――と声を上げてしまいます。

 とたんに、フルートが真っ青な顔で振り返りました。なんとかポチを助けに駆けつけようとします。けれども、フルート自身も悪霊にしがみつかれて、身動きすることさえできなくなっているのでした。

 ポチの目の前で、悪霊が腐った目でにたりと笑いました。口を開け、と言っているのが何故だかわかります。そこから入りこんでこようというのです。ポチは必死で歯を食いしばりました。締め上げる力はどんどん強くなってきます。苦しくて苦しくて、思わずまた口を開けてしまいそうです――。

 

 その時、黒と金と宝石でできた部屋に声がしました。

「あぁ、やれやれぇ。やっと着いたよぉ。お疲れさまぁ」

 この緊迫した場面にはまったくそぐわない、のんびりした男の声です。続いて、こんな声が響きます。

「馬鹿やろ、遅いじゃねえか! 間に合わなかったらどうするつもりだったんだよ!?」

 少ししゃがれた、元気な少年の声です。先の男の声がそれに答えました。

「そんなこと言ったってぇ。黄泉の門の前から生者の世界まではすごく遠いんだよ。行くのは簡単でも、戻るのは大変なんだからね。もっと感謝していいと思うよぉ、ボクとアーラちゃんにさ」

「二人とも、そんなこと言い合っている状況じゃないみたいだよ。悪霊の群れだ」

 三人目の声が話しかけていました。幼い子どもの声なのに、いやに落ちついた口調です。

 フルートとポチはびっくり仰天しました。部屋の真ん中に、突然よく知っている人たちが姿を現していました。毛皮の上着を着込み、背中にはエルフの弓矢を、腰にはショートソードと青い丸い盾を下げたゼン。鮮やかな金の髪に金の瞳、小さな少年の姿の金の石の精霊。赤い長い上着を着た、痩せた青年も一緒です。彼らは巨大な蜘蛛の背中に乗っていました。

「ゼン、金の石の精霊!?」

「そんな……ランジュールも!?」

 フルートとポチは驚いて声を上げました。痩せた青年が少年のポチを見ました。

「あれぇ、キミとは初めて会うよねぇ? どうしてボクのこと知っているのさ?」

 すると、金の石の精霊が冷静に答えました。

「それはポチだよ。魔法で姿を変えられてるんだ」

「ポチだぁ!? おい、またえらく美形だな! おまえ、そんな美少年だったのかよ!?」

 フルートとポチは絶体絶命の場面にあるというのに、ゼンはどうでもいいようなことに驚いています。

 口々に言う三人は実体ではありませんでした。体が半分透きとおっています。魂だけでこの場所に駆けつけてきたのだと、フルートたちは気がつきました。

 ポチが泣き笑いしながら言いました。

「ぼくはもともとかわいい犬なんですよ――。早く助けてください。悪霊に体を乗っ取られたら、ぼくまで敵に回っちゃいますよ」

「へっ、相変わらずだな、生意気犬。待ってろ、今、そいつらをぶっ飛ばしてやるから」

 ゼンが大蜘蛛から飛び下りて駆けつけてきました。ポチに絡みついた悪霊を次々に引きむしり、拳で殴りつけていきます。今、ゼンは魂だけの幽霊のような存在です。悪霊をつかんで殴り倒していくことができるのでした。

「ゼン、あんまりやりすぎると、また体力を失って黄泉の門に呼ばれるからね」

 と金の石の精霊が注意します。

「るせぇな。だったらおまえも手伝えよ。俺一人にやらせてんじゃねえ!」

「ぼくは今、実体じゃないんだ。この世界では悪霊を追い払う聖なる光は出せないよ」

 答える精霊は冷静な顔を崩しません。ゼンは舌打ちしました。

「ったく、ああ言えばこう言う……。おいランジュール、ぼさっと観戦してないで手伝え!」

「えぇ、なんでボクがぁ? アーラちゃんの蜘蛛の糸で、キミたちをここまでちゃんとつれてきてあげたじゃないのさぁ」

「だから、その蜘蛛の糸でこいつらを縛り上げろよ! 数が多すぎてきりがねえんだ! 俺が力尽きて黄泉の門に引きずり込まれたら、おまえとその蜘蛛も道連れにしてやるぞ!」

「怪力のキミにつかまれたら逃げられないじゃないか。脅すなんてひどいなぁ」

 ブツブツいいながら青年は大蜘蛛の背中をぽんとたたきました。

「しょうがない。やっちゃってよ、アーラちゃん」

 たちまち大蜘蛛が糸を吐きました。幻のように透きとおった白い糸が、四方八方に広がり、部屋中を飛び回る悪霊に絡みつきます。悪霊は動けなくなって、糸で縛られた羽虫のようにぶんぶん音を立てながら暴れ回りました。大蜘蛛がそれを引き寄せ、嬉しそうに襲いかかっていきます。捕らえた悪霊で食事を始めたのです。

 

 フルートは茫然として部屋の中の光景を眺めていました。たった今まで追い詰められていたフルートたちが、あっという間に形勢逆転していました。ゼンが、何故かランジュールと一緒に悪霊相手に大暴れしています。あれほどたくさんいた悪霊が、殴り飛ばされ、蜘蛛につかまって、どんどん減っていきます。

 すると、フルートに絡みついていた悪霊も、急に離れて落ちていきました。目の前に金色の少年が立っていて、小さな手を悪霊に押し当てていました。悪霊が力を失って消えていきます。

「金の石の精霊……」

 フルートが言うと、少年は口の片端をちょっと持ち上げて、大人のような笑い方をしました。

「ホントにもう。君は必ずこんなふうになるんだからな。危なっかしくて、とても離れてなんていられないよ」

 精霊がフルートの腕に触れたとたん、しびれていた体が元に戻りました。驚くフルートに、精霊がまた皮肉に笑って見せます。

「怪我してなくて良かったね。今のぼくは実体じゃないから、傷を直す力まではないんだよ」

 と言いながら、今度はポチに近づいていって触れます。ポチも死者の毒から解放されて、動けるようになりました。

 

 その時、ぶん、と空を切る音がして、突然ゼンに斧が切りつけてきました。

「おっと」

 ゼンが思わず頭を下げると、その頭上を通り抜けた斧が、勢い余って隣のランジュールをなぎ払いました。

「うわぁ、な、なにするのさぁ!?」

 とランジュールは悲鳴を上げました。痩せた胴体が真っ二つになっています。

 ゼンは、じろりと横目でそれを見ました。

「ふざけてんじゃねえ。幽霊が切れるかよ」

「うふふ。だって、こうならなかったら気分出ないじゃないか」

 ランジュールが笑いながら切れた自分の下半身をつかみ、よいしょ、と上半身を乗せました。たちまちまた体が一つにつながり合います。

 ったく、と言いながら、ゼンは目の前を見ました。牛男のタウルです。大きな黒い斧を振り下ろした格好で、ゼンを見て笑っていました。

「よく来た、ドワーフの坊主! 黄泉の門の前では決着がつかなかったからな! おまえと俺とどっちが強いか、今度こそ勝負だ!」

 ゼンはあきれてタウルを見ました。

「ほんっとに、馬鹿だよな、おまえ。そっちは今、生身の体でいるんだぞ。魂だけの俺と勝負できるわけねえだろうが」

 それでも牛男はうなり声を上げてゼンに飛びかかってきました。ところが、大きな手も体も、半分透きとおったゼンの体を突き抜けてしまいます。いくらつかみかかっても、まるでつかむことができません。斧もゼンの中を素通りします。牛男は悔しさに地団駄を踏みました。

 やれやれ、とゼンは肩をすくめました。

 

 すると、フルートが突然呼びました。

「ゼン! ゼン、来い! みんなが大変だ――!」

 いつの間にかフルートはテーブルに駆け寄っていました。ハルマスの人々と魔女を映し出すグラスをのぞき込んでいます。

 ゼンもすぐに駆け寄り、顔色を変えました。

「おい……やばいぞ、これ。魔女のヤツ、仕掛けようとしてるじゃねえか」

「黒い魔法だよ! これでハルマスの街をすっかり吹き飛ばしたんだ。今度はみんなのことを飛ばそうとしてるんだよ!」

「なんだとぉ!?」

 ゼンはテーブルに飛びつくようにしてグラスをのぞき込みました。

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