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第7巻「黄泉の門の戦い」

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第22章 最終決戦・2

87.焦土

 ユギルは肩の痛みに目を覚ましました。

 魔女の魔法で撃ち抜かれた左肩は、まだ血が止まっていませんでした。灰色の衣が、もう肘の近くから胸のあたりまで赤く染まっています。かなりの出血量です。ユギルは失血のショックで意識不明になったのですが、傷の痛みでまた正気に返ったのでした。

 ほんの少しでも肩を動かすと激痛が走ります。ユギルはうめき、右手で左腕を抱えて身を起こしました。脂汗を流しながら、ようやく頭を上げます。

 そのとたん、ユギルは目を見張りました。目の前の光景に、茫然としてしまいます。

 

 何もありませんでした。

 見渡す限り焦土が広がっています。何一つありません。誰ひとりいません。ただ、ユギルがたった一人で座りこんでいるだけです――。

 ユギルは真っ青になってあたりを見回しました。

 ハルマスの街は、先の魔女の黒い魔法で跡形もなく消し飛びました。けれども、ゴーリスの屋敷の中庭だけは魔女が手加減をしたので、まだ残っていたのです。皇太子、ゴーラントス卿、奥方のジュリア、そして、勇者の少女たちとベッドで眠り続けるゼン――彼らもまだ無事でいたはずです。

 なのに今、中庭は消えていました。人々の姿もありません。あるのは黒く焼け焦げた地面だけ。聞こえてくるのは、その上を吹き渡る風の音だけです。風が水音を運んできます。音のする方角にリーリス湖があって、湖面にさざ波を立てていました。湖は驚くほど近くに見えています。間をさえぎるものが何もなくなっているからでした。

「で……殿下……? ゴーラントス卿……?」

 ユギルは青ざめながら周囲を見回し続けました。やはり、誰もいません。応える声もありません。肩の激痛は続いていましたが、ユギルはそれを無視して空中に象徴を探しました。人々の気配をつかみ取ろうとします。

 けれども、どんなに目をこらしても、意識を鋭くとぎすませても、仲間たちの象徴は見あたりませんでした。皇太子を示す青く輝く獅子、ゴーラントス卿を表す黒い剣、奥方の象徴の揺れる日だまり――ポポロの緑の光、メールの青い炎、ルルの白い翼――本当に、どの象徴も見つかりません。ユギルが見る占いの場から、すべての象徴が消え去っていました。

 ユギルは唇を震わせました。これが意味することは、たった一つです。象徴が見えなくなった者は、この世界には存在しません。彼らはもう、この世に生きていないのです――。

 

 気がつくと、少し離れた地面の上に一本の剣が落ちていました。皇太子のオリバンが使っていた聖なる剣です。

 ユギルはそれを声もなく見つめてしまいました。鞘から抜き放たれたその剣は、柄も刃も真っ黒に焼け焦げていたのです。痛む肩をかばいながら、やっとのことで近づいて剣を手に取ると、そのとたん、ぼろぼろと剣が崩れていきました。地面に落ちて、焼けた土と一緒になってしまいます。

 ユギルはわなわなと唇を震わせました。銀髪の頭を振り、その場に膝をつきます。焼け焦げた土に爪を立てて握りしめ、血を吐くような声で叫びます。

「殿下! 殿下――!!」

 何が起こったのかは明白でした。魔女が二度目の黒い魔法を使って、残っていた庭とその中の人々を跡形もなく吹き飛ばしたのです。ユギルがこうして無事でいるわけもわかっていました。魔女がユギルだけを助けたのです。約束通り、皇太子や仲間たちを殺して、それを彼に見せつけるために……。

 

 遠くで戦う人影がありました。魔女のレィミ・ノワールとフルートです。フルートは金の鎧兜で身を包み、炎の剣を握っていました。その顔は泣き顔です。泣きながら、怒りながら、魔女に切りかかっていきます。

「返せ、魔女!! みんなを――みんなを返せ――!!」

 フルートは叫び続けていました。魔女が声を上げて笑います。

「願えばいいでしょう、勇者。あなたにはその力があるのよ。願い石を使って、大事なお友だちを生き返らせればいいだけのことよ」

 それを聞いて、ユギルは、はっとしました。

 願い石の恐ろしさは彼も知っています。死んだ人の復活を願ったとき、石は願いをかなえる引き替えに、願った人の命を奪っていくのです。生き返ってきた者に殺される、という形で――。

「なりません、勇者殿! 願ってはなりません!!」

 ユギルは必死で叫びました。けれども、その声はフルートには届きませんでした。戦っている二人の姿は、このハルマスの光景ではないのです。遠い東にあるシェンラン山脈の城に飛び戻っていった魔女が、ハルマスのユギルへ自分たちの姿を送ってきているだけなのです。ユギルが守ろうとした者たちが一人残らず殺されていく場面を見せつけようとして。

 勇者が願い石に願えば、とたんに勇者は殺されます。石でよみがえってきた人々も、もう元とは違った闇の怪物になってしまいます。願い石は彼らを救ってはくれません。ただ、勇者に破滅をもたらすだけなのです。

 フルートが床にたたきつけられました。炎の剣が遠くへはじき飛ばされます。

 少年の目の前で魔女が怪しく笑っていました。

「さあ、もう後がないわよ、勇者の坊や。おとなしく殺されなさい。金の石の勇者の伝説は、ここで最終章なのよ」

 フルートは床につっぷしたまま泣き続けました。悔し涙は尽きることがありません。それを魔女が満足そうに見下ろしていました。魔女は望みをかなえたのです。勇者を打ちのめし、絶望の底へたたき込み、泣きわめかせることに成功したのです――。

 フルートの体が、ぼうっと赤い光を放ち始めました。

 床にうつぶせになったまま、拳を握り、フルートはうめいていました。

「よくも……よくも、よくも、みんなを……」

 涙にまみれた顔を上げて魔女をにらみつけたフルートが、いっそう強く光り出します。赤い光に包まれながら、フルートは声を上げました。

「願い石! 願い石――!!」

 

 その時、フルートと魔女の姿が急に揺らめきました。まるで水面に風が波紋を起こすように、光景が波に揺れて、見えなくなってしまいます――。

 驚いているユギルに、男の声が話しかけてきました。

「未来の光景を“力”が乱した。“力”が近づいてきている」

 ユギルはいっそう驚いて振り返りました。聞き覚えのある声ですが、ことばとして聞くのは初めてだったのです。

 距離感のつかめない彼方に、一人の男がうずくまって座っていました。縮れた黒髪、黒い肌、猫のような金の瞳の小男――赤の魔法使いです。その髪は血で半分以上固まり、黒い肌にも血がべったりとこびりついています。赤い衣がどす黒く汚れて見えるのは、血の染みがそこここについているからです。

 それでも、魔法使いは金の瞳を輝かせながら、ユギルに話しかけてきました。

「これは魔王が準備した未来だ。もう少しで未来が現実になるところだった。だが、今、“力”が勇者の元へ駆けつけようとしている。“力”は勇者を再び立ち上がらせる。未来は乱れる。新しい未来が開けていくぞ!」

 異大陸から来た魔法使いは、何故かユギルに理解できることばで話していました。血に汚れた顔で、明るく笑いかけてきます。

「力?」

 とユギルは繰り返し、赤の魔法使いが指さす方向を見ました。

 遠い遠い彼方から、ものすごい勢いで近づいてくるものがありました。“力”と赤の魔法使いは言いましたが、ユギルの目には別のものに見えました。強く明るく輝く、銀の光です――。

 

 

 とたんに、ユギルは我に返りました。

 オリバンがユギルを抱きかかえて名前を呼び続けていました。その顔色は真っ青でしたが、ユギルが正気に返ったのを見ると、ほっと安堵の表情を浮かべました。

「よかった。気づいたな――」

 ユギルは素早くあたりを見回しました。

 よかった、と言えるような状況でないことは、一目でわかりました。ユギルは相変わらず肩に傷を負っています。オリバンがそれをかばうように抱き、近くには、負傷したゴーリスとジュリア、泣きながら座りこんでいるポポロ、地面に倒れているメールとルルがいます。ルルは風の犬から、元の茶色い犬の姿に戻ってしまっています。

 動くことができない彼らの前で、魔女のレィミ・ノワールが両手を上げていました。その指先が次第に黒く染まっていきます。ユギルが見ている夢ではありません。今度こそ、本物の黒い魔法を彼らに下そうとしているのです。

 

 すると、夢で聞いた声が現実にも聞こえてきました。

「リキ、ル――ライ、ケル」

 白い砂におおわれた庭の片隅から、赤の魔法使いが顔だけを上げてユギルを見ていました。夢の中で見たのと同じように、頭も顔も血に汚れていますが、金の瞳は希望に明るく輝いていました。赤の魔法使いはまた異国のことばを話しています。けれども、ユギルには彼がなんと言っているのかわかる気がしました。

 ユギルはオリバンの腕をつかんで言いました。

「未来が開けます。銀の光が勇者殿のところへ駆けつけるのです」

「銀の光?」

 とオリバンは繰り返しました。銀の光とはゼンを示す象徴です。思わずゼンが眠るベッドを振り返り、不思議そうに言います。

「だが……あいつはあそこにいるぞ?」

 ユギルは首を振りました。

「いいえ、もうすぐたどりつきます。二つの光が、また揃うのです」

 その色違いの瞳は、この世ならぬ場所に強い象徴の光を見つめ続けていました。銀の光が流星のように走っていきます。その行く手には、まぶしく輝く金の光がありました――。

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