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第7巻「黄泉の門の戦い」

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86.絶体絶命

 「ポポローーッ!!!」

 フルートはテーブルの上のグラスに向かって叫びました。少年の姿のポチは悲鳴を上げていました。思わず目をおおってしまっています。

 美しいグラスの中に、黒い光が炸裂していました。すさまじい光と風が大きな波紋のように広がって、何もかもをなぎ倒し、消滅させていきます。ハルマスの街の家々が、通りが、店が、緑の木々が、黒い波動の中で崩れ、蒸発するように消えていきます。

 光と風がリーリス湖に達すると、湖面に激しい波が広がりました。ザザザーッと音を立てながら湖の上を渡り、さらに向こう岸へと広がっていきます。木が倒れ、さらに向こうにそびえるデセラール山までが地鳴りを上げます。

 と、大荒れに荒れる湖の上に、次々と何かが浮いてきました。大量の死んだ魚です。白い腹を見せて、波間に揺れています。湖を渡った黒い魔法は、湖の中を泳ぐ魚たちの命まで一瞬で奪ったのです。

 光と風が完全に通りすぎました。わき起こっていた煙と砂埃がちぎれていきます。その後に現れた光景を見て、フルートは愕然としました。何も――何もないのです。家も、木も、草も、何一つ残っていません。まるで火を焚いた後のように、黒焦げになった地面が延々と広がっています。

 貴族たちが競って美しい別荘を建て、たくさんの店が通りに軒を連ね、湖の桟橋には貴族たちが乗る船や漁船が鈴なりにつながれていた、保養地ハルマス。それが一瞬で焦土と化していました。本当に、何一つ残っていません。石畳の道さえ、跡形もなく消えています。

 フルートは声が出せませんでした。ハルマスに人の姿がなかったことには気がついていました。きっと、ゴーリスたちが街の人々を避難させていたのでしょう。けれども、それでもこれはあまりに甚大な被害でした。本当に、街ひとつがそっくり消滅させられたのです。

 

 ポチがおそるおそる目を開けてグラスの中をのぞき、また大きな悲鳴を上げました。テーブルに突っ伏して泣き出してしまいます。

「ルル! ルル! ルル……!」

 フルートは気がつかない間にテーブルの縁をつかんでいました。爪から血の気が失せるほど強く握りしめながら、グラスに向かって叫びます。

「みんなは――みんなはどうした!? 映せ! 早く映せ――!!」

 その命令がわかったように、グラスの中の視点が動きました。一面焼け野原の景色を頼りなく揺らし、やがて、一つの場所を映し出します。

 そこには緑が残っていました。数本の木が、ほそほそと風に揺れています。まばらな木々に囲まれて、白い地面が広がっています。白い砂でおおわれているのです。その中に数人の人影が見えました。死んだように倒れている者もありますが、起き上がり、寄り添い合っている人々もいます。ゴーリスとジュリア、ユギルとオリバン、そして、ポポロとメールとルルです。彼らの後ろには低い階段があって、その上にぽつんとベッドが置かれていました。そこに横たわるゼンの姿も見えています。

「無事だ――!」

 フルートは思わず歓声を上げました。えっ、とポチも顔を上げます。グラスの中の人々は、フルートたち以上に茫然とした顔で、黒こげになった荒れ地を見回していました。誰も、声も出せずにいます。

 彼らの目の前には、まだレィミ・ノワールが浮いていました。相変わらず長いドレスの裾を優美に引いています。

「どう、わかった? 黒い魔法の威力」

 と魔女が言いました。

「魔法をかわしたんだ、なんて勘違いしてはダメよ。あなたたちが無事だったのは、あたくしが、この場所だけ黒い魔法の影響を受けないようにしたから。あたくしが即死を免除してあげたのよ。どうしてかわかる?」

 魔女はまた、くすくすと笑い、楽しそうに人々を眺めました。色白の肌に戻った手で一同を指さしていきます。

「それはね、あんたたちに死ぬ恐怖を味わってもらうためよ。次こそが本番。今度は黒い魔法も手加減はなしよ。あんたたちは一人残らず、本当に跡形もなく消滅するの。あんたたちのまわりに広がる景色のようにね」

 それを聞いて、ポポロがすすり泣きの声を上げました。全力で使ったはずの魔法でも、魔女の黒い魔法に対抗することはできませんでした。今日の魔法は、まだもうひとつ残っていますが、それでレィミの魔法を食い止めることはできないのです。魔法が役に立たないポポロは、ただの普通の少女でした。もう、何をすることもできないのです――。

 

 すると、レィミ・ノワールがふいに振り返ってきました。血のように赤い唇で、にっこりと笑いかけてきます。

「さあ、ゆっくりとご覧。お友だちの最後の姿をね。あんたにはもう、どうすることもできないわ。黒い魔法があんたの大事な者たちを一人残らず焼き尽くしていくのを、その目でしっかりと見届けなさい」

 唇に負けないほど赤い瞳は、グラス越しに、まっすぐフルートを見つめていました。遠くはるか、シェンラン山脈に取り残されている金の石の勇者を、ハルマスからあざ笑っているのでした。

 フルートは音を立てて歯ぎしりをしました。拳でテーブルを殴りつけ、グラスに向かって絶叫します。

「やめろ、レィミ・ノワール!! 卑怯だぞ! みんなに手を出すな! ぼくと勝負しろ――!!」

 けれども、どんなに叫んだところで、魔女が戻ってくるはずはありませんでした。勇者の手の届かないところで、見せつけながら仲間を惨殺する。そのことこそが、魔女が着々と準備を進めていた復讐の計画だったのです。

 

 ポポロが庭に座り込み、顔をおおって泣いていました。立ち上がる力を失っています。ゴーリスは妻のジュリアを抱いたまま、やはり立ち上がれずにいました。実は魔法でたたきつけられたときに、あちこちの骨を折っていたのです。痛みで土気色になった顔で、それでも敵をにらみ続けています。

 その時、突然ユギルが地面に崩れるように倒れました。うずくまり、激しく震え出します。魔弾に傷ついた肩から流れる血はまだ止まらず、多すぎる出血にショックを起こしかけているのでした。灰色の衣に広がる赤い染みが、ますます大きくなっていきます。ユギル! ユギル――! とオリバンが必死で呼び続けます。

 メールが手に数本の花を握っていました。最後の守りの花です。かたわらでごうごうと音を立てている風の犬のルルへ、そっとささやきます。

「あたいを乗せて……魔女まで飛ぶんだ」

「どうする気?」

 とルルがささやき返しました。メールは手の中の花を見つめました。

「これを……あの女の口ん中にたたき込んでやる」

 それだけを言って、きりっと唇をかみしめます。

 ごうっとルルが風のうなりを立てました。メールの足下でつむじを巻きます。メールはその背中に飛び乗り、鋭く叫びました。

「行くよ!」

 ルルが魔女目がけてまっしぐらに飛んでいきます。あっという間に至近距離まで迫ります。メールは花を高く振り上げました。

「この魔女――!」

 けれども、そのとたん、黒い光の壁が二人を吹き飛ばしました。闇の障壁です。ジュッと音を立てて守りの花が燃えつき、メールとルルは地面にたたきつけられました。ルルが小さく縮んで茶色い犬の姿に戻っていってしまいます。

 

「ルル!!」

 とポチはグラスの中へ叫びました。犬に戻りたい、風の犬に変身して今すぐルルの元へ駆けつけたい、と心の底から願います。ここはシェンラン山脈です。ハルマスは遠い西の彼方なのです。

 フルートはもう何も言いませんでした。ただ、テーブルに拳をたたきつけたまま、じっとグラスを見つめ続けていました。怒り、憎しみ、悔しさ、そして後悔。心の底からわき上がってくる激しい感情に、フルートの背中が震え続けます。

 すると、その体がふいに、ぼうっと淡い光を放ち始めました。したたる血のような赤い光です。フルートの隣にいたポチが気がついて、真っ青になりました。この光の正体は願い石です。フルートの中に眠る願い石が、フルートの強い想いに応えて目覚め始めたのです。見つめる間にも、フルートが放つ光は赤く強くなっていきます。どんどん輝きを増していきます――。

「だ、だめです、フルート! 願っちゃだめだ!」

 ポチは必死で叫びました。願い石は恐ろしい石です。願うことはなんでもかなえる代わりに、その人にとって一番大事なものを、その人の中から奪い去っていきます。フルートが願い石で仲間たちを助けようとしたとき、代わりに何を奪われることになるのか――。ポチには予想もつきません。つかないだけに、恐ろしくてしかたありませんでした。必死でフルートを止めようとします。

 すると、そんなポチを、いきなり大きな手が高々と持ち上げました。ポチが思わず悲鳴を上げます。牛男のタウルにつかまってしまったのです。

 

「ポチ!」

 フルートはとっさに向き直りました。背中の剣を抜きます。

 すると、タウルが笑い出しました。

「なるほど、レィミの言ったとおりだ。勇者の坊主が赤く光り出したら、白いチビを捕まえろ。そうすれば光は止まる、とな――」

 その通り、願い石の光はもう消えていました。フルートはまた歯ぎしりをすると、剣を構えて叫びました。

「ポチを放せ!」

 すると、タウルが後ずさり始めました。手にはポチを捕まえたままです。

「間違えるなよ、坊主。この白いガキを殺すのは俺じゃあない。レィミが呼んでおいた、こいつらだ――!」

 言うなり、ポチの小さな体をぶんと空中に放り投げます。ポチはまた悲鳴を上げました。硬い大理石の床に頭から落ちていきます。

 すると、ぬるりと何かが絡みついてきました。墜落は止まりますが、その代わりに、何本もの触手のようなものが次々とポチの体に絡みつきます。振り返ったポチは、ぎょっと目を見張りました。すぐ目の前に触手の一本があり、その先には人の顔のようなものがあったのです。ポチと目があったとたん、にたりと笑いかけてきます。その目玉も顔も、腐って崩れかかっていました。悪霊です。

 突然部屋に現れた悪霊は、死人の顔を持った空飛ぶ蛇のようでした。黒い体をぬらぬらと光らせながら、次々とポチに絡みついていきます。全身を触手のような長い体で包み込んでしまいます。

 ポチが、かろうじて顔をのぞかせながら声を上げました。

「苦しい……は、放せ……」

 けれども、悪霊は手でつかむことができません。フルートも必死でポチを助け出そうとしましたが、炎の魔力を持つ剣でも悪霊を切り倒すことはできませんでした。

 タウルが笑いながら言いました。

「赤い光を使うならこっちだぞ、勇者の坊主。ぐずぐずしてるとチビを殺されるし、おまえ自身も悪霊に取り憑かれるからな。さあ急げ」

 何十体もの悪霊に絡みつかれて、ポチは今にも息が詰まりそうになっていました。全身が悪霊の放つ死者の毒でしびれ始めます。

「ポチ――!」

 フルートは剣で切りつけ続けました。けれども、やっぱり悪霊を追い払うことはできません。フルートの腕にまで悪霊が絡みついてきて、手が動かせなくなっていきます。

 

 テーブルの上のグラスでは、黒いドレス姿の魔王がゆっくりと腕を上げていくところでした。まるで舞うような優美な動きで、両手を天に差し上げます。その手が指先から黒く染まり始めます。闇の魔法がまた集まり始めたのです。

「さあ、これで終わりね」

 とレィミ・ノワールは言いました。血のように赤い唇、赤い瞳が、身動きひとつできなくなった人々を見て笑います。

 それを振り返って、フルートは叫びました。

「やめろ、魔女! やめろ、やめろ――やめろ――!!!」

 その手が完全にしびれて力を失いました。

 炎の剣は石の床の上に落ち、ガシャーン、と大きな音を立てました。

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