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第7巻「黄泉の門の戦い」

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82.切り札

 黒と金と色鮮やかな宝石に飾られ、妖しい光に充ちた部屋の中で、レィミ・ノワールはテーブルのグラスを見つめ続けていました。

 すると、その紅い唇が、にっこりとほほえむ形に動きました。

「来たわね」

 とつぶやいて、おもむろに椅子の中から入口を振り返ります。

 入口の扉が勢いよく開いて、外から二人の人間が飛び込んできました。金の鎧兜を身につけた小柄な少年と、もっと小柄な白い髪の少年です。ここまで全速力で駆けてきたので、肩で息をしています。鎧の少年は、手に大きな黒い剣を握っていました。

「ようこそ、勇者たち。待っていたわよ」

 と魔女はほほえみながら話しかけました。動じる様子はまったくありません。椅子の中で優美に足を組み、椅子の肘起きに頬杖をついています。紅い唇に触れる指先には、ぎょっとするほど長く鋭い爪が伸びていました。

 フルートは一歩前に出ました。炎の剣を構えて叫びます。

「ゼンから闇の毒を消せ! 今すぐにだ!」

 そんなフルートを見て、魔女は言いました。

「二年前に会ったときよりは男っぽくなってきたみたいね、勇者の坊や。どう? 二年前に見せられなかった夢の続きを見せてあげましょうか? この世の天国を見られることよ」

 黒いドレスの胸元からは豊かな胸の谷間がのぞき、足を組んで座る姿は、なまめかしいほどの曲線を描いています。赤い瞳が誘いかけるようにフルートを見つめます。

 けれども、フルートはただこう繰り返しました。

「ゼンから闇の毒を消せ! 早く!」

 ほほほ、と魔女は笑いました。

、あなたたちがここにたどり着く前に殺されてしまうものね。それじゃあ、つまらないのよ。あたくしは、あなたの泣き叫ぶ顔が見たいんだから――」

 魔女が立ち上がりました。歩み寄って、無造作に手を伸ばしてきます。フルートは魔女に顔をつかまれそうになって、あわてて飛びのき、剣をふるいました。魔女の体を横なぎに真っ二つにします。

 

 と、黒いドレスの女の姿は消え、魔女はまた椅子の中に座っていました。頬杖をついたまま、にやにやと笑い続けています。

「まあ、怖いこと。女性相手にそんな乱暴をするものじゃなくてよ、坊や。もてないわよ」

「ゼンを元に戻せ」

 フルートは堅い声で繰り返しました。

「い、や、よ」

 魔女が楽しげに歌うように答えました。その体が椅子の中でみるみる変わっていきます。妖艶な姿が、黒い長衣に赤いお下げ髪の、華奢な少女に変わります。

「ねえ、フルート。ゼンを助ける必要なんてないわよ」

 とポポロの姿をした魔女は言いました。

「ゼンさえいなければ、あたしはあなたのものだもの。あなたは誰にも遠慮せずに、あたしを好きだと言えるもの、ね。ゼンなんて助ける必要はないのよ、フルート」

 後ろでそれを聞いていたポチが顔色を変えました。思わずフルートを見ましたが、ポチは後ろに立っているので、その表情を見ることはできません。

 魔女がまた立ち上がりました。本物のポポロそっくりの笑顔と訴える瞳で、フルートに近づいていきます。

「ねえ、フルート。あなたは気がついていなかったの……? あたしはずうっと、あなたを好きだったのよ。あなたから言い出してくれるのを、ずっと待っていたの。でも、フルートったらゼンに遠慮して、いつもなんにも言わないから……」

 黒衣の少女はフルートの目の前に立っていました。ほっそりした腕を少年に向かって伸ばします。

「フルート、あたしを抱きしめて。あたしを、あなたのものにして――」

 

 フルート! とポチは叫ぼうとしました。

 が、声が出ません。いつの間にか、魔女の魔法にとらえられていたのです。身動きすることさえできませんでした。

 ポポロがフルートにほほえみかけていました。いつものあの、優しいかわいらしい笑顔です。緑の宝石の瞳が、誘いかけるように、じっと見上げています。

 フルートの左手が動きました。ポポロに向かって伸びていきます。

 ダメです、フルート! とポチは心で叫びました。どうしても声が出てきません。止めたいのに、止めることもできません。フルートの手は動き続け、とうとうポポロの体に触れました。その細い腕をつかみます。

 すると、ポポロが目を見張りました。フルートが痛いほどに腕を握りしめてきたのです。次の瞬間、フルートの右手が動きました。持っていた炎の剣で、頭の上からポポロを真っ二つにします。

 ひっ、とポチは思わず息を飲みました。――声が出ました。

 炎の剣で切られても、ポポロは燃え上がりませんでした。幻のように消えていって、また、椅子に座る魔女の姿に戻ります。

 剣を振り下ろした格好で、フルートは繰り返しました。

「ゼンを元に戻せ」

 その瞳は、少しも揺らぐことのない、あの強い光を浮かべていました。

 

 ふぅん、と魔女はつぶやきました。

「本当に頑固な坊やね。ドワーフの坊やといい、ちっとも乗ってくれないんですもの、張り合いがないったら。それじゃ、こちらも最初の予定通りに行くしかないわねぇ」

 言いながら、優美に腕を伸ばし、部屋の入口に向かって呼びかけます。

「タウル! タウル――!」

 入口からのっそりと入ってきたのは、さっき大広間で円柱の下敷きになったはずの牛男でした。驚いているフルートを見て、からからと笑います。

「さっきの勝負の決着をつけるぞ、勇者! さあ、相手をしろ!」

 そのたくましい体にはかすり傷一つ負っていません。大きな黒い斧を、水車のようにぶんぶん振り回します。

 すると、それを抑えるように魔女が言いました。

「お待ちったら、タウル。戦って殺すのは後よ。その前に、この坊やに見せたいものがあるの。とっておきの――素敵な場面よ。坊やがそれを見届けるまで、坊やが逃げ出さないように見張っていてちょうだい」

 ほほほほほ、とまた魔女が声を上げて笑います。ひどく意地の悪いものを秘めた笑い声です。フルートは思わずいっそう身構え、駆けつけてきたポチを守るように抱き寄せました。

 

 すると、魔女はテーブルに並ぶグラスの一つを指さして言いました。

「見える? 勇者の坊や。ここに映っているのがどこの景色か、あなたにはわかるでしょう?」

 フルートはいっそう用心しながらテーブルを見ました。魔女が言うグラスの中へ目をこらします。

 と、フルートは愕然としました。隣のポチも驚いて声を上げます。

「オリバンだ! ゴーリスも、ユギルさんもいる!」

 グラスの中に、よく知っている人々の姿が映っていました。板壁に囲まれた小さな建物も見えています。フルートがつぶやくように言いました。

「ハルマスの……ゴーリスの別荘の庭だ……。ゼンが眠ってる東屋だ……」

 小さな建物の後ろには、バラ色の雲がたなびく空が広がっていました。夜明けが近づいているようです。建物を前に、男たちは集まって、何かをしきりに話し合っているようでした。

「みんな無事みたいですね」

 とポチがほっとして言いました。魔女の意図がなんであれ、仲間たちが元気でいる姿を見られるのは嬉しいことでした。

 すると、魔女はにっこりしました。底知れない冷たさを秘めた笑顔が広がります。

「そう、無事よ。あなたたちの仲間の、海のお姫様も、魔法使いの小娘も――ゼンもね、まだ生きてはいるわ」

 その言い方に、フルートとポチはふいに背筋が寒くなりました。魔女は何かを企んでいます。ひどく危険な予感が少年たちを襲います。

「何をする気だ!?」

 とフルートはどなりました。また炎の剣を構えます。

 魔女はますます妖しく笑いました。

「覚えてないこと、金の石の勇者? 二年前、あたくしとエスタの首都のカルティーナで戦ったわよね? あの時、あの小娘にしてやられて出せなかった、あたくしの切り札――それが何だったか、思い出せるかしら?」

「切り札?」

 フルートとポチは目を見張りました。二年前の風の犬の戦いを、必死に思いだそうとします。

 あの時、レィミ・ノワールは夜の魔女と呼ばれていて、エスタ国王の弟の命令で、偽の金の石の勇者と仲間を組み、フルートたちを襲ってきました。強力な魔法でフルートたちを苦しめたのですが、ポポロがそれを上回る魔法を使って攻撃を跳ね返し、仲間たちを守ったのです。

 魔女が魔法で敗北を味わったのは、それが初めてでした。しかも、相手は自分よりもずっと貧弱な小娘です。怒り狂った魔女は、究極の攻撃魔法を使おうとしました。闇の力を一箇所に集めて破壊する、黒い魔法です。その威力はすさまじく、街一つを跡形もなく吹き飛ばしてしまうと言われていました――。

 フルートたちは真っ青になりました。まさか、とつぶやきます。それ以上は、ことばになりません。

 すると、レィミ・ノワールが言いました。

 

「やめろぉ!!」

 ポチが叫びました。フルートが、ものも言わずに炎の剣を振り下ろします。大きな火の玉が魔女に向かって飛び出します。

 とたんに、魔女の手前に黒い壁が広がりました。闇の障壁です。火の玉が激突してはじけ、炎のかけらが部屋中に飛び散ります。それが燃えつき、黒い壁が消えたとき、部屋の中からは魔女の姿も消えていました。

 フルートとポチは茫然と立ちつくしました。魔王になった魔女は、はるかな距離を一気に越え、ハルマスの仲間たちのところへ飛んでいったのです。

 すると、二人の少年を、太い腕が後ろからぐいとつかまえました。タウルです。牛にそっくりな顔が、にたりと笑いかけてきます。

「そら。ぼーっとしてないで、グラスの中を見ろ。レィミが貴様たちの仲間を殺す様子が見物できるぞ」

 と少年たちの顔をテーブルに押しつけます。その目の前に、美しいグラスがありました。透きとおった液体が充ちたガラスの内側には、ハルマスに残った人々が鮮やかに映し出されていました――。

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