「来るわね」
テーブルの上のグラスを見つめながら、レィミ・ノワールは言いました。意外なほど冷静な声です。
黒曜石のテーブルに並ぶグラスに、それぞれ違った景色と人々が見えていました。今、魔女が眺めているグラスには、グリフィンと共に空を飛ぶフルートの姿が映っています。金の鎧兜に夕日が赤く照り映えます。
魔王になった魔女は、宝石をちりばめた椅子にもたれかかりました。しばらく考えてから、こんなことを言います。
「誉めてやるべきでしょうね。あの状況から逃れて、こちらへ向かってくるのだから。さすがは金の石の勇者、やっぱり見た目通りじゃないわ。油断がならないこと」
魔女はもう子どもを見る目ではなくなっていました。状況を冷静に分析する顔で、グラスを見つめ続けています。
「この調子で来れば、勇者たちがシェンラン山脈のふもとに到着するのは夜中ね。闇の怪物どもが一番元気づく時間帯なのが幸いかしら。闇のガーディアンたちを呼び寄せなくては。そして、それでも勇者がここまでたどりついたら――」
魔女は一瞬黙り込み、ふいに、その口の端を持ち上げました。したたる血のしずくのような唇が、ぞっとするほど美しい微笑を刻みます。
「その時には、あなたに本物の地獄をあげましょうね、金の石の勇者。後悔と悲しみで泣き叫ぶ顔を見せてもらうわよ。今度こそね」
魔女がつぶやくことばは、グラスに映るフルートには届きません。勇者の少年は、ただまっすぐなまなざしで進み続けていました。
すると、宝石の椅子の後ろで大男が動きました。牛のような頭を上げて魔女を見ます。
「レィミ……」
言いかけて、そのまままた黙り込んだので、魔女は振り向きました。
「なによ、タウル。さっきから様子がおかしいわね。ずっと黙りっぱなしで」
牛男はさらにためらい、思いきったように尋ねてきました。
「約束したな、レィミ? 勇者の一行を倒して世界がおまえのものになったら、俺と結婚してくれると――。あれは嘘ではないんだろう?」
レィミ・ノワールは驚いたように男の顔を見つめました。牛男は真剣な表情をしていました。
魔女はほんの少し考えてから、いかにもあきれたように言いました。
「急に何を言い出すの、タウル? あなた、誰かに何か言われたんじゃないこと?」
「あのドワーフの小僧だ。俺がおまえにだまされている、おまえは俺のものになる気などないんだ、などとほざいた。――違うな、レィミ? おまえは俺をだましたりはしていないな?」
愚直なほどに単純な顔が、食い入るように魔女を見ます。
魔女は紅い唇に指先を当て、また少し考える様子を見せてから、ふいに、にっこりと笑いました。怪しい笑顔が広がります。
「そう言うあなたはどうなの、タウル? あたくしと結婚して、あたくしと一緒にこの世界を支配するんだ、と言った約束。あれは嘘だったというわけなの?」
「嘘ではない!」
牛男は頭を振って勢いよく立ち上がりました。
「嘘なものか! 俺は――!」
「あなたを頼りにしているのよ、タウル」
と魔女がささやきました。椅子から立ち上がり、自分の目の前に立つ大男の首に白い腕を回します。
「あなたはあたくしの永遠の守護者。あなたがいるから、あたくしは計画を成し遂げられるの。あたくしを裏切ったりしてはだめよ、タウル。そんなことをしたら、あたくしは本当に怒るわよ……」
女の声が甘くねっとりと絡みついていきます。ことばそのものが、媚薬の魔法を作り上げているのです。牛男の瞳が、とろんと白く濁ってきました。うっとりと女を見つめます。
そんな男へ、魔女はたたみかけるように言い続けました。
「あたくしのことばと、敵の子どものでまかせと、どちらを信じるの、タウル? あんまりあたくしを悲しませないで――」
レィミ、と男は言って女を抱きしめました。その太い腕の中で女はさらに手を伸ばし、男の首に腕を絡みつけました。美しい顔を近づけ、怪しく笑いかけながら、そっとささやきます。
「あたくしはあなたのもの。あなたはあたくしのもの。それを忘れちゃイヤよ、タウル」
白い腕で男の頭を引き寄せ、その唇に唇を重ねます。唇越しに媚薬の魔法をたっぷりと送り込み、男の心と体を絡めとっていきます……。
唇を離しても、タウルは夢見る顔のままでした。うっとりと女を見つめ続けています。
魔女が言いました。
「さあ、闇のガーディアンを呼んで山を守らせてちょうだい。勇者たちをここに到着させちゃだめ。あたくしを守るのよ」
「わかった」
タウルはうなずくと、すぐさま部屋を出て行きました。闇の番人を呼びつけに、通路を足早に遠ざかっていきます。
足音が聞こえなくなったとたん、レィミ・ノワールは顔を歪めました。ぺっと床に唾を吐くと、汚いものでもふき取るように唇をぬぐいます。
「馬鹿のくせに、一丁前に疑ったりするんじゃないわよ。手間がかかるったら」
乱暴に言い捨てると、魔女はまたテーブルに近づきました。
グラスに映るフルートたちの姿は、夜の闇に紛れ始めていました。日が沈んだのです。他のグラスにも、夕日が差し、夕暮れが迫っている景色が映っていました。
そのひとつをのぞき込んで、レィミ・ノワールは言いました。
「ここをもう少したたいておく必要があるわね。あのおチビさんの魔法はまだ一回残っているわ。使い切らせておかなくちゃ」
グラスの中にはポポロの姿が映っていました。夕日の照らす中、愛犬と一緒にしゃがみ込み、しきりに泣きじゃくっています。けれども魔女は少しも驚きませんでした。この娘がなにかというとすぐに泣くのは、よく知っていたのです――。
ふうっと魔女はグラスに向かって息を吹きかけました。グラスの中の液体が急に黒く濁り、それが無数の小さな虫に変わります。敵に呪いをかけるときに使う闇虫でした。グラスの中を泳ぎ回り、そこに映る少女に集まり始めます。
すると、グラスの中に突然背の高い人影が現れました。少女をかばうように前に立ち、グラス越しに魔女を指さします。
「殿下! 敵の襲撃です!」
それは、銀髪の若い占い師でした。それに応えるように、大柄な皇太子が飛び出してきて、聖なる剣をふるいます。とたんに、グラスの中の液体が渦を巻き、光が輝き、中の闇虫を消していきました。次の瞬間、グラス自体が音を立てて砕けます。グラスの破片と共に液体が飛び散り、魔女に跳ねかかりました。
魔女は歯ぎしりをしました。またです。あの銀髪の占い師が、先を読んで彼女の邪魔をしてきたのです。
「みてらっしゃい!」
とレィミ・ノワールはわめきました。
「あんたのことも、絶対に這いつくばらせてみせるわよ! あのチビの娘と一緒に、あたくしの目の前で泣いてのたうたせてやる!」
怒りにまかせて、砕けたグラスへ呪詛を吐きます。
並んでいるグラスに夜が迫り始めました。映る景色の奥で、闇のものたちがまたうごめきだす気配がしてきます。
それらに向かって、魔女は声を上げました。
「お行き、闇の森の怪物たち! 誰でもいい、ハルマスにいる連中に襲いかかっておやり! 夜の闇を力にして、あいつらを一人残らず殺すのよ!!」
ザザザァッといくつものグラスの中で暗い渦が巻き起こりました。その中に映っているのは、暗い闇の森と、群れなす闇の怪物たちです。てんでに夜の中に気配を探り、北西の方角へ向かって移動を始めます。空を飛び、地を渡り、流れを越えて進んでいきます。
「お行き、闇のものたち! 圧倒的な闇の前には、光も飲み込まれていくものよ! 奴らを一人残らず食い尽くしておやり!」
強い呪詛のことばに誘い出されるように、さらにたくさんの闇の生き物たちが姿を現しました。先の怪物たちと一緒になって進軍を始めます。雪崩のような勢いです。
怪物たちの先陣がハルマスに近づいてきました。闇の森を早くに離れ、ハルマスのすぐ近くまで迫っていた連中です。昼の光がある間は地にもぐり、日没と同時にまた動き出したのでした。
「お行き! 勇者たちを殺すのよ!」
魔女はまたグラスに向かって叫びました。まもなく、怪物たちを映すグラスに、またハルマスの中庭が映り始めるはずでした。グラスに庭が映ったとたん、闇の魔法をたたき込もうと待ちかまえます。
すると、突然グラスの中の映像が乱れました。一瞬白く光ったと思うと、あとは何も映さなくなってしまいます。ハルマスの様子も怪物たちの姿も、まるで見えなくなります。
魔女は驚き、歯ぎしりをしてわめきました。
「よくも……よくも、あたくしにたてついたわね! こざかしい人間のくせに! みていらっしゃい!」
プライド高い魔女は自分の邪魔をされることに我慢ができません。怒りに瞳を燃やしながら手を高く掲げました。目の前に燃える火の玉が現れ、黒と金と宝石に飾られた魔女の部屋を真昼のように照らし出します。
部屋の壁の上に、魔女の影が落ちました。魔女よりも大きく広がるそれは、四枚の翼が生えたドラゴンの形をしていました――。