「ゼン!?」
狭間の世界で金の石の精霊が声を上げました。抱き支える手の中で、ゼンがわずかに身動きしたのです。
ゼンと金の石の精霊とランジュール、そして、彼らを乗せた大蜘蛛は、死者の国へ吹く風に巻き込まれ、もう黄泉の門の内側まで入りこんでいました。ぴんと張り詰めた糸に、大蜘蛛が必死ですがりついています。
すると、ランジュールが叫びました。
「門が閉まる! 死者の国につかまっちゃうよぉ!」
黒い格子が左右からゆっくりと閉まり始めていました。大蜘蛛が必死で外に出ようとしますが、風の力が強すぎて、どうしても戻ることができません。アーラちゃん、しっかり! とランジュールが悲鳴のように叫び続けます。
けれども、金の石の精霊はそんな様子には目も向けていませんでした。精霊が見ていたのは、ゼンの胸の上の花でした。ポケットに差した一輪の花が、光りながら溶けていきます――。
すると、ふいに風が弱まりました。彼らを門の奥へと引きずり込む力が急に消えて、蜘蛛がよろめくように前に走ります。
そこへ、勢いよく門の扉が動いてきました。
「風がやんだ!」
「門が閉まる――!」
精霊とランジュールが同時に声を上げました。大蜘蛛は全速力で外へ這い戻ろうとしました。門の隙間へ突進しますが、門の閉まる方がどう見ても先です。ひゃああ、とランジュールがまた悲鳴を上げます。
その時、大蜘蛛の背中から太い腕が伸びました。蜘蛛が前脚に絡めていた糸をつかまえると、ぐいっと力任せに引っ張ります。すると、糸がぴんと張り、反動で大蜘蛛が前に飛び出しました。大きな体が門の隙間目がけて飛んでいきます。
「ぶつかるぅ!」
とランジュールがまた叫びました。門はもうほとんど閉じかけています。このままでは門の内側に激突してしまいます。
すると、今度はいきなり足が伸びました。閉まりかけた門を蹴り飛ばし、勢いよく跳ね開けてしまいます。その間から、蜘蛛は外に飛び出しました。何メートルも飛んでいって、地面の上に軟着陸します。
門が反動で勢いよく閉まりました。扉と扉がガシャーンと音を立ててぶつかり合います。蜘蛛はまた、門の外側に戻ってきていました。
金の石の精霊とランジュールは、蜘蛛の頭の付け根に座っている少年を見ました。小柄ですが、幅の広い、がっしりした背中をしています。明るい茶色の瞳が振り返ってきて、にやっと笑います。
「今度こそ本当の間一髪ってヤツだよな。遅くなって悪かったな」
さっき、金の石の精霊が言ったことばを真似して言います。
「ゼン」
と精霊は少年を見つめました。ランジュールもあきれて少年を見ていました。
「どうしてぇ!? 今度こそ本当に死ぬところだったのに、どうして戻ってこれたのさぁ、キミ!?」
ゼンは蜘蛛の背にしゃんと座って、蜘蛛の糸を握っていました。笑いながら、ぐっと片手を拳に握って見せます。もうすっかり元気な姿です。
精霊が、ふ、と笑って肩をすくめました。
「またメールに助けられたね、ゼン。戻ったら、もう彼女に頭が上がらないんじゃないのかい?」
「る、るせぇや! そんなことあるか!」
ゼンはたちまち真っ赤になると、むきになって言い返してきました。
やぁれやれ、とランジュールも笑いました。
「愛の力ってヤツぅ? 若いくせになかなかやるじゃないの、キミたち」
「愛?」
ゼンは目を白黒させました。ますます赤い顔になって、わめきます。馬鹿野郎、ランジュール、変なこと言うんじゃねぇ――!!
狭間の世界に死者の国からの風はもう吹いていませんでした。いつの間にか黄泉の門も姿を消し、ただ荒れ果てた大地だけが、白い空の下に広がっていました。
「メール様、大丈夫ですか?」
そっと、ユギルが尋ねてきました。
メールはゼンのベッドにもたれたまま、のろのろと顔を上げて目を開けました。――かすむ世界の中に、心配そうにのぞき込む人々の顔が見えます。メールは小さくうなずいて見せました。
「うん……だいじょぶだよ……」
人々はいっせいに、ほっとした顔になりました。ユギル、オリバン、ジュリア、ゴーリス、ピラン、白い女神官、赤の魔法使い……みんな、笑顔になっています。ポポロは顔をおおって泣いていました。ルルが伸び上がってメールの頬をなめます。
「安心しなさい、メール。ゼンはもう大丈夫よ――。あなたが力をわけてあげたから、また持ち直して安定したわよ」
メールは、はっと顔を上げ、とたんにまた激しい目眩に襲われてベッドにもたれました。メール! とジュリアがあわててかがみ込んできます。
「だいじょぶ……大丈夫だよ……ちょっと目が回っただけ……」
メールは弱々しく言いながら、また頭を上げました。今度は気をつけながら、そろそろとベッドの上を眺めます。
ゼンは静かに眠っていました。その胸がまた、浅く規則正しく動いているのを確かめて、メールは、ほーっと大きな溜息をつきました。そのまま、ぐったりとまたベッドに寄りかかってしまいます。全身崩れ落ちそうなほど力を失った中、安堵の想いだけがこみ上げてきます。想いが涙になって、頬の上を伝い始めます。
声もなく泣き出したメールを、人々は優しく見守りました――。
ポポロは静かに建物の外に出ました。
不思議な想いが胸の中を充たしています。嬉しいような、悲しいような、でも、やっぱり嬉しいような――とても透きとおった気持ちでした。何故か、もう涙も出てきません。西に大きく傾いて紅く染まり始めた太陽を、ただじっと見つめます。
すると、後を追って建物からルルが出てきました。ポポロの足下まで来て見上げてきます。
「どうしたの? 急に外に出たりして」
うん……と言って、ポポロは両手を組み合わせました。少しずつバラ色に染まってくる雲を眺めながら、答えます。
「なんだかね……わかっちゃったの」
「何が?」
とルルがけげんそうな顔をします。
ポポロは空を見上げ続けました。ほほえむような目をしながら、静かに言います。
「メールは本当にゼンが好きなんだなぁ、って……。ホントにホントに……ゼンのことが大好きなのよね……」
言いながら、一粒、大きな涙が目からこぼれ落ちました。
ルルは少しの間黙り、それから、ポポロと同じくらい静かな声で言いました。
「でも、あなたもそうでしょう? メールに負けないくらい、ゼンが大好きなんでしょう?」
ポポロは何も答えませんでした。ただじっと、赤く染まっていく空と太陽とを見つめ続けます。
本当に長い沈黙の後、ポポロがまた口を開きました。
「狭間の世界に行って、あたしは気を失っちゃったんだけどね――」
と遠い目をしながら話します。
「その中で、聞いたような気がするの……ゼンがメールを呼ぶ声。とても一生懸命呼んでいたのよ。泣きそうなくらいの声で、必死になって……。今も、なんだか聞こえたような気がしたわ……」
ポポロは目を伏せました。うつむいたまま、小さく笑います。
「ホントはね、あたしがゼンに力を上げようと思ってたの。あたしの力を上げる、あたしの力を使って――って。あたしは小さいけど、魔力だけは大きいから、きっとゼンにも力をわけて上げられると思うわ、って――。でも、言えなかったの」
「ユギルさんが、メールを選んだから?」
とルルが聞き返しました。ポポロは首を振りました。
「ううん……。なんだか、そう言っちゃいけない気がしたのよ……。メールはゼンが大好きで、ゼンも――メールが大好きで――」
ポポロの声が詰まりました。その頬を、いつの間にか涙が伝い始めていました。大粒の涙が次々と転がり落ちて、夕日に赤く光ります。
「それなら――ねえ、ルル――あたしは、何も言っちゃいけないわよね――。だって……だって……」
涙に声を詰まらせながら、ポポロは言い続けました。
「だって……あたし、メールもゼンも……二人とも、大好きなんだもの……」
ポポロは両手で顔をおおいました。そのまましゃがみ込み、むせび泣き始めてしまいます。黒衣に包まれた華奢な背中と肩が震えます。
「ポポロ」
ルルは妹のような少女を見つめていましたが、やがて、そっと前脚をかけて伸び上がると、温かい舌で涙をなめてやりました。
「いい子ね、ポポロ――本当にいい子ね――」
山の端に近づいていく夕日が空と地上を染める中、泣きじゃくる少女をルルは優しくなめ続けました。