中庭の小さな建物の中で、ゼンが今まさに息絶えようとしていました。
呼吸はますます浅くとぎれがちになっていきます。血の気の失せた顔が透きとおるような色に変わっていきます。白いのに、ほの暗く見える、本物の死者の顔色です。
ポポロが泣き叫んでいました。ルルが必死でゼンの名前を呼び続けます。メールは茫然と立ちつくしていました。もう声も出せません――。
騒ぎを聞きつけて、外からピランとジュリア、赤と白の二人の魔法使いも駆けつけてきました。
「あなた……!?」
問いかけてくるジュリアに、ゴーリスは悲愴な顔で首を振りました。
「ゼンが死のうとしている。狭間の世界で闇の敵と戦って体力を失ったんだ」
「馬鹿な!」
とピランが金切り声を上げました。駆け寄って短い足でベッドを蹴飛ばします。
「えい、ドワーフの坊主! しっかりせんか! おまえはまだ、わしが強化した防具をまともに使っとらんじゃないか!」
皇太子のオリバンも叫びます。
「どうにもならないのか、ユギル!? ゼンを助ける方法はないのか!?」
銀髪の占い師は青ざめて立ちつくしていました。何も言わずにゼンを見つめ続けています。
すると、白の魔法使いが進み出てきました。首から下げた神の象徴の首飾りを握りながら、厳かに言います。
「このうえは、旅立つ魂を迷うことなく死者の国まで送り届けましょう。それが死にゆく者への最後の手向けです」
と祈りの歌を口ずさもうとします。それは葬送の曲でした。ルルがまた叫びました。
「やめて! そんな歌、うたわないで! ゼンはまだ死んでいないのよ!!」
「魂が迷えば闇にとらわれ、悪霊に変わってしまうかもしれません。彼ほどの力を持つ魂が悪霊になれば、この世に恐ろしい害をなします。死にゆくものを正しい道へ送ることは、神官としての務めなのです」
と白の魔法使いが話します。静かすぎるほどの声でした。
ポポロがむせび泣きます。誰にも、どうしていいのかわかりません。ただただ、今にも息が止まりそうになっているゼンを見つめてしまいます――。
すると、ふいにユギルが振り向きました。赤い衣を着てそこに立つ、小柄な男を見つめます。
「あなたなら、おできになりますね、赤の魔法使い殿……。ゼン殿の中に力を送り込む魔法が、お使いになれる」
異大陸の魔法使いは難しい顔つきになりました。ほんの少し考え込んでから、口を開きます。
「ガ、ケン、モ、ナイ」
「できないわけではないけれど、大変危険だと申しております。ひょっとすると、死ぬかもしれないから、と」
白の女神官が通訳します。
「赤の魔法使い殿がですか?」
とユギルは聞き返しました。
「ヤ、ラカチ、ル、ト」
「ゼン殿に体力を与える者が、だそうです。彼の魔法は、元気のある者からゼン殿へ体力を受け渡す術なのです。死にゆくものへ体力を分け与えようというのですから、下手をすれば、与えた者まで死ぬことになるかもしれません」
「ニ、ギル、シニエ、ト」
「それも、普通の相手では体力を与えることはできないと――。よほどゼン殿につながり深い相手でなければ無理なのだそうです」
つながりの深い相手、と聞いて、一同は思わず顔を見合わせました。誰もが真っ先に思い浮かべたのはフルートです。ですが、フルートはここにはいません。
「私では駄目か? 私ならば少々のことでは参らないぞ」
とオリバンが言いました。確かに、大柄な皇太子ならば、体力も充分あるように見えます。
けれども、ユギルは首を振りました。長い銀髪が揺れて光ります。
「いいえ、殿下には無理です。もっとつながりの深い者が必要なのです――」
言いながら、ユギルは、自分をまっすぐな目で見つめていた少女を振り向きました。
「おやりになりますね、メール様?」
そう聞かれて、緑の髪の少女はにっこりしました。泣き笑いの顔が広がります。
「もちろんさ! あいつを死者の国から引きずり出してやるよ!」
青い瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちました――。
「メール様は狭間の世界へ行ったポポロ様に守りの花を託されました」
とユギルは話し続けました。目の前にはゼンが横たわっています。その胸のポケットには、小さな白い守りの花が差してありました。
「ちょうどこれと同じように、狭間の世界でも、ゼン殿は守りの花を身につけているはずです。花がメール様とゼン殿をつないでおります。聖なる魔法の花です。きっと、ゼン殿に力を伝えてくれることでしょう」
「あたいはいつでもいいよ」
とメールがベッドのかたわらに立ち、細い腕を赤の魔法使いに差し出しました。恐れもためらいもありません。
「ユウ、メ」
異大陸の魔法使いはそう言って、メールの手を取りました。うやうやしい手つきでした。
「勇敢な姫君に神の守護あれ」
と白い女神官が厳かに祈ります。
全員が見守る中、赤の魔法使いがもう一方の手でゼンの手を握りました。短く異国の呪文を唱えます。
「エヨ!」
とたんに、メールの内側で心臓がどくんと大きく鳴りました。突然、全身の血液がどこかへ吸い出され、飲み込まれていくような感覚に襲われます。目眩がして、その場に膝をついてしまいます。
「メール!」
仲間たちの叫ぶ声が聞こえました。
「さわってはなりません――!」
とユギルが制止する声も聞こえてきます。けれども、メールは目を開けて人々を見ることができませんでした。全身からものすごい勢いで力が吸い出されていきます。貧血を起こしたときのように手足がしびれ、吐き気にさえ襲われて、ベッドにもたれかかってしまいます。
耳の奥で自分の心臓の脈打つ音だけが聞こえていました。ザアッと水が流れるような音も聞こえてきます。それは、自分自身の中を流れる血液の音のようにも、故郷の西の大海の潮騒の音のようにも、いつか訪ねた北の峰の、森の木々が風にざわめく音のようにも聞こえます――。
森の緑の中にゼンが見えました。あきれたように言っています。
「ったく、こんな藪の中をよくすいすいと歩けるな。俺と同じくらい山歩きが達者じゃねえか」
「当然。あたいは森の民の血を引いてるんだからね」
とメールは胸を張って見せました。
「ゼンと同じぐらいだなんて、とんでもないね。あたいの方が山歩きは得意だよ」
「馬鹿言え、そんなわけあるか! 体力が違うぞ、体力が!」
ゼンがむきになって言い返してきます。メールは笑いました。――これが夢なのはわかっています。死にかけているゼンに力を分け与えながら、メールは夢を見ているのです。夢でも、ゼンの声が懐かしくて、変わらない元気な様子が嬉しくて、笑いながら、なんだか涙が出てきてしまいます。
すると、ゼンが顔色を変えました。あせったように言ってきます。
「な、なんで泣くんだよ? 訳わかんねえヤツだな。泣くな!」
夢の中でもゼンはやっぱり涙嫌いです。メールは泣き笑いをしました。
「馬鹿にするんじゃないよ、ゼン――。こう見えたって、体力なら、あたいだって自信があるんだ。ちょっとやそっとじゃ、へこたれないんだからね」
「よっく言うぜ。俺の体力に対抗できるってのか? 俺は底なしだぞ」
「それでもだよ。あんたを黄泉の門から引っ張り出すくらいの力なら、あたいにだって、あんたにあげることができるんだから」
そう言って、メールはゼンを見つめました。ゼンも真顔になります。
二人はいつの間にか、一本の守りの花を握っていました。その手の中で花は光りながら消えていき、二人の手が重なり合います。
二人は指と指を絡め合って手をつなぎました。見つめ合い、少しためらってから、ほほえみ合います。
「戻っといでよ、ゼン」
とメールは言いました。
「みんな、心配して待ってるんだからさ」
ゼンはまばたきをすると、確かめるように言いました。
「みんな――? おまえも、待ってくれてるのか?」
メールはにっこりしました。ゼンが嫌いな涙を懸命にこらえながら、そっと、優しく答えます。
「そんなの……あたりまえだろ?」
その時、二人の手の間で、まばゆいほどの白い光が輝きました――。