最初に異変に気づいたのはルルでした。犬の鋭い聴覚が息づかいの変化を聞きつけたのです。
そこはゴーリスの別荘の中庭に建つ東屋の中でした。ランプを掲げた薄暗い部屋の中で、メールとポポロが並んでベンチに座り、互いにもたれかかって眠っています。中庭に現れた牛男をポポロが炎の魔法で撃退した後は、新たな敵が襲ってくることもなく、子どもたちは東屋の中で休息を取っていたのです。
ルルはベンチの下から這い出すと、部屋の真ん中に据えられたベッドを見上げました。ゼンが、片腕の中に愛用の武器と防具を抱え、体の下半分に毛布をかけた格好で横たわっています。血の気のない白い顔は、本当に死人のようです。ルルはベッドの縁に前脚をかけて伸び上がりました。眠るゼンの顔をのぞき込みます。
――確かに、息づかいが変わっていました。もともと弱くなっていた呼吸が、いっそう弱くとぎれがちになっています。
ルルは、ざわっと全身の毛を逆立てました。冷たいものが背筋を走り抜けていきます。ルルはいきなりウォンオンオン! と激しく吠え立て、人のことばで叫びました。
「ゼン! ゼン――!?」
すると、部屋の扉が勢いよく開いて、外からユギルが飛び込んできました。オリバンとゴーリスも一緒です。
「ゼン殿!」
と銀髪の占者が呼びかけました。浅黒い顔が青ざめています。その騒ぎでメールとポポロも目を覚ましました。
「な、なに……どうしたのさ……?」
寝ぼけまなこで尋ねるメールに、ルルが叫びました。
「ゼンの呼吸が停まりそうになっているのよ! ゼンが死にかけてるの――!!」
メールとポポロは真っ青になりました。他の人々と一緒にベッドに駆け寄り、横たわるゼンをのぞき込みます。ゼンはぴくりとも動きません。ただ呼吸に合わせてわずかに胸が動いているのですが、それが不規則になっていました。一度上下に動いたと思うと、信じられないほど長い間停まり、浅く一、二度動いた後、またしばらく動かなくなってしまいます。
「ゼン――!」
ポポロが泣き声を上げました。何故ゼンが急にこんなふうに弱ってしまったのか、理解ができません。
すると、ユギルが言いました。
「今、わたくしはずっと、赤の魔法使い殿と一緒に狭間の世界を占っておりました。ゼン殿はここに現れたあの牛の怪物と戦っておられたようです。その後、場に強い風が吹いて象徴を乱したので、それ以上見続けることができなくなりましたが、おそらくその戦いでゼン殿は体力の大半を使い果たしてしまわれたのだと思います。突然、ゼン殿の象徴が薄れ始めましたので……。わたくしは、ゼン殿の体力の限界は明日の夜中だと申し上げました。ですが、このような事態になれば、それも変わってまいります。ゼン殿は……」
「ゼンは!? ゼンはいつまで持つのさ!?」
メールがユギルの細い体につかみかかるようにして尋ねました。青い瞳が興奮と驚きで燃えるように輝いています。
ユギルは自分の色違いの目をそらしました。
「……おそらく、あと三十分と持たないことでしょう……」
占者のことばに人々はいっせいに息を飲みました。少女たちが、これ以上なれないほど青い顔になります。
ポポロが目を涙でいっぱいにしながら頭を振りました。
「いや……いやよ、ゼン! そんなの……いやぁ――!!」
ポポロは両手で顔をおおうと、わっと声を上げて泣き出しました。
「ゼン!?」
金の石の精霊が驚いて振り向きました。こちらは狭間の世界です。糸を伝って空を昇っていく大蜘蛛の上で、ゼンが突然前のめりに倒れたのでした。すぐ前に座っていた精霊の少年におおいかぶさるようにもたれ、激しく震え始めます。その息づかいは浅く速くなっていました。
「ゼン! ゼン――!」
精霊はゼンを支え、その体の中に癒しの光を流し込みました。けれども容態は変わりません。ゼンはますます苦しそうな様子になっていきます。
「どうしたちゃったのさぁ、急に?」
とランジュールも驚いていました。
「体力を使いすぎたんだよ! タウルと戦った後、狭間の世界の番人ともあれだけ戦ったりしたから――死にかけているんだ!」
気力で一度は元気を取り戻したように見えたゼンでしたが、絶対的な体力の不足はどうしようもなかったのです。
ランジュールが口をとがらせました。
「そぉんなこと言ったってぇ……番人をやっつけなかったら脱出できなかったんだよぉ? どうすれば良かったって言うのさぁ」
ゼンがいっそう大きく震え出していました。青ざめた顔は次第に血の気を失って、ハルマスに眠る本体と同じ死者のような顔色になっていきます。金の石の精霊は必死になって癒しの力をゼンに送り続けましたが、弱っていくゼンを止めることはできません。精霊は、怪我や病気をした体を元の状態に戻すことはできるのですが、失われた体力を回復させることはできなかったのです。
「ゼン! しっかりしろ――!」
精霊の少年がゼンの体をつかんで呼びかけた時、いきなり空に猛烈な風が吹き出しました。上空から地上へ吹き下ろす風です。糸をたぐって昇っていた大蜘蛛があおられ、その上に乗っていた人々と一緒に空中できりきり舞いしました。
「うわぁぁ……!」
ランジュールも精霊も蜘蛛の背中にしがみつきました。精霊は腕の中にゼンの体も抱き支えています。
「ま、まずい! これは死者の国のお迎えの風だ! 黄泉の門に吸い込まれちゃうよぉ!」
ランジュールが言いました。さすがに青い顔になって大蜘蛛に呼びかけます。
「アーラちゃん、アーラちゃん! がんばれ――!」
けれども、吹きつける風はますます強さを増し、ついに大蜘蛛は糸をたぐる足を離してしまいました。まっさかさまに狭間の世界の地上めがけて落ちていきます。ランジュールと精霊はまた悲鳴を上げました。必死で蜘蛛にしがみつき続けます。
蜘蛛は地上に激突する寸前で停まりました。糸にぶら下がる形でゆらゆらと大きく揺れます。それを死者の国へ向かう風がいっそう強くあおりました。地上では黒い黄泉の門が大きく扉を開いて、彼らをその中に飲み込もうとしていました。
「な、なんとかできないのぉ? キミ、勇者くんたちを助ける石なんだろう!?」
とランジュールが精霊に言いました。
「無理だよ……! ぼくにだって止められない……!」
精霊は唇をかみました。
糸にぶら下がった蜘蛛を、風が次第に地上に引き寄せていきました。黄泉の門が近づいてきます。ランジュールがまたわめきました。
「せっかくここまで死者の国にも行かないで頑張ってきたのにぃ! アーラちゃん、ふんばれ! 吸い込まれたら、もう絶対に現実の世界に戻れなくなるよぉ――!」
けれども、風はさらに激しさを増します。ごうごうと音を立てながら門の中へと吹き続けます。空に伸びる蜘蛛の糸は、今にも切れそうに細く頼りなく光っていました。
精霊の腕の中でゼンの体が、ずるりとすべりました。ゼンはもう、完全に意識を失っています。吸い寄せるような風の力に、まったく抵抗できません。
「ゼン! ゼン、目を覚ませ――!!」
精霊はゼンを抱きしめながら、必死で呼びかけ続けました。
灼熱の砂漠はどこまでも果てしなく続いていました。その中を二人の少年が歩き続けています。金の鎧兜を着込み、黒いマントをはおったフルートと、雪のように白い髪と肌のポチです。頭上で輝く太陽にじりじりと照らされながら、ひたすら東を目ざして歩き続けています。
フルートは暑さ寒さを防ぐ鎧を着ているからよほど良いのですが、まともに暑さにさらされているポチは、大量の汗をかいていました。その汗も熱気で瞬時に乾いていきます。ポチは必死で歩き続けていましたが、とうとう足を進められなくなって立ち止まってしまいました。
「す――すみません、フルート……水を、飲んでもいいですか……?」
泣きそうな顔と声になりながら言います。
彼らが持っている水は、ポチが肩から下げている小さな水筒に一つ分しかありません。それも、暑さに耐えかねて何度も飲んでしまって、ずいぶん減っていたのです。
けれども、フルートは黙ったままうなずき返しました。フルートの唇も砂漠の熱い空気に乾ききっていましたが、自分は我慢をして、ポチが水を飲む様子を見守ります。
晴れ渡った空はどこまでも続いていました。乾いた砂の大地が、丘と谷を作りながら延々と行く手に広がっています。彼らが目ざすシェンラン山脈は、まだはるか彼方です。どんなに急いで歩いても、とても到達できないほど、遠い遠い彼方なのです――。
ポチが水を飲み終えて蓋を閉めた時、突然水筒が地面に落ちました。革紐が急にぷつりと切れたのです。
「どうしたんだろう?」
とポチはびっくりして拾い上げました。革紐にそれほど傷んだ様子はありません。
フルートも驚いてそれを眺めていましたが、ふいにその顔つきを変えました。不吉な予感が走っていきます。不安にかられた目を空に向けてしまいます。
「ゼン……?」
そして、フルートはそのまましばらく黙り込み、やがて、かたわらのポチをそっと抱き寄せました。話しかけてきた声はとても静かでした。
「ぼくの後ろにいるんだ……。できるだけ離れないでね」
え、とポチはまた驚き、フルートが目を向けている空を見て息を飲みました。
空の彼方から黒い雲のようなものが近づいていました。空飛ぶ虫か鳥の群れのようにも見えます。けれども、それは虫でも鳥でもありませんでした。フルートの中の願い石を狙って押し寄せてくる、闇の生き物たちの大群だったのです。
水色一色の空の中で、姿の見えない闇がらすが遠く叫び続けていました。
「カーアカーア! 勇者はここだぞ! 勇者はここにいるぞ――!」
迫ってくる闇の敵は何百という数に見えました。
「フルート……!」
泣き出しそうになっているポチを、フルートは背後にかばいました。みるみる近づいてくる大群を見据えながら、背中から炎の剣を引き抜きます。両手で剣を構えます。
その時、ふいにフルートの脳裏に明るい茶色の瞳の少年の面影が浮かびました。親友は、何故だか少し淋しそうな顔でフルートを見つめていました。まるで――まるで、名残を惜しんでいるように――。
「ゼン!」
とフルートは叫びました。嫌な予感がします。身の毛がよだつような恐怖がフルートを襲います。
迫り来る敵の大群に剣を構えながら、フルートは必死で空に叫びました。
「ゼン!! いくな、ゼン!! 逝くな――!!!」