涸れ川を、黄色い濁流が音を立てて走り続けていました。雨上がりの激流です。落ちれば、たちまち押し流されて、這い上がることができません。
けれども、その流れの中で少年たちは生きていました。金の石の勇者の一行は、謎の海の戦いの際に人魚の涙と呼ばれる魔法の真珠を飲んでいます。水中でも魚のように呼吸ができるので、フルートもポチも、溺れることもなく無事でいたのです。
とはいえ、川の流れに逆らうことはできませんでした。謎の海の戦いでは、水中で戦いやすいように、と泉の長老が魔法をかけてくれたのですが、それはとうに切れてしまって、水の力をまともに受けるようになっていました。少年たちは、ただただ川の中を流されていきました。水が濁っているので、互いの姿を確かめることもできません。
フルートの体には、まだ水の怪物が絡みついていました。水中を蛇のように泳ぎながら、フルートを絞め殺そうとしています。ただ、フルートは魔法の鎧を着ていました。外からの力にはまったく負けることがありません。
そこへ、流れの中を別の生き物が近づいてきました。濁った水でよくわかりませんが、大きなカエルか魚のように見えました。フルートに絡みつく水の鞭にいきなりかみついてきます。とたんに川の中に叫び声が響き、フルートの体から鞭が離れました。どっと、急流が襲いかかってきて、フルートの小柄な体を川下へ運びます。
水の中に声が響いていました。
「あれはオレのものだ! オレが食うんだ!」
それに対して何かが激しく言い逆らっています。濁った水の向こうから、二匹の怪物が激しく戦う気配が伝わってきましたが、それもあっという間に遠ざかっていきました。
まただ、とフルートは考えました。襲ってくる怪物は、何故かフルートを狙っています。しかも、必ずフルートを食べようとするのです――。
そこへ、三匹目の怪物が近づいてきました。姿はわかりませんが、黒い影になって迫ってきます。フルートは必死で逃げようとしましたが、急流の中では泳ぐこともできません。ただ流れまかせに運ばれていくだけです。
すると、ふいに水中で何かにぶつかりました。思いがけない方向からしがみついてきます。一瞬、四匹目の怪物かとぎょっとしたフルートですが、よく見れば、それはポチでした。濁った水の中に、乱れる白い髪と泣きそうな笑顔がかすんで見えました。
フルートはポチを強く抱き寄せました。水中で声を張り上げて言います。
「気をつけて、ポチ! 怪物が近づいてるよ!」
この激流では剣を抜いて戦うこともできません。迫ってくる黒い影からかばうように、ポチを反対側に置くことしかできませんでした。
黒い影が、流れに運ばれていく少年たちに追いついてきました。フルートは身構え、襲いかかられたら、即座にまたポチを突き放そうと考えました。ポチは防具を何も身につけていません。怪物に襲われたら、ひとたまりもないのです。
すると、ポチが急に叫びました。
「そうだ! 聖水!」
えっ、とフルートは驚きました。ポチの言っている意味がわかりません。ポチがしがみつく手を放しました。フルートに抱きかかえられた格好で自分の体の横をまさぐり、何かをつかまえました。水筒です。激しい流れの中で、必死に蓋を開けます。
とたんに、黄色く濁った流れの中に、きらりと何かが流れ出しました。水筒の中の水です。まわりの濁流に紛れることもなく、まるでしなやかな銀の糸を流すように、川の中へとあふれ出していきます。
そこへ、黒い影が追いついて襲いかかってきました。巨大な口が牙をむいて食いついてきます。
銀糸の水が流れる向きを変え、影に襲いかかっていきました。よじれるように螺旋(らせん)を描きながら、大きな口の中へどんどん流れ込んでいきます。すると、たちまち影が苦しみ始め、のたうちながら離れていきました。悲鳴のような声が流れを遠ざかっていきます。
驚いているフルートにポチが言いました。
「ほら、オアシスでサトリの怪物と戦ったときもそうだったじゃないですか。水筒の水が聖水に変わってたんです。ぼくたちには何でもないけれど、闇の怪物たちには聖水は毒の水と同じなんですよ」
白い髪の少年は、ほっと笑うような顔をしていました。蓋を開けた水筒からは、後から後から銀糸の聖水があふれて、急流の中へと流れ込んでいきます。それを嫌っているのか、新しい怪物は少年たちに近づいてきません。
すると、その中に、きらきらっと別の輝きが混じりました。青い光です。少年たちは、はっとしました。青い小さな丸いものが、聖水と共に水筒の外に飛び出してきたのでした。
「海の指輪が!」
とポチが叫びました。フルートも、とっさに指輪へ手を伸ばします。けれども、指輪は青い輝きを散らしながら、たちまち流れていってしまいました。ポチが思わず泣き声を上げます――。
すると、突然不思議なことが起き始めました。少年たちを運ぶ川の水が急に緩やかになり、やがて、静かな流れになってしまったのです。濁った黄色い水がみるみるうちに薄れて、澄んだ水に変わっていきます。川底の砂の色や水没した植物の一本一本までくっきり見える透きとおった水です。
見通しがきくようになった川の中で、いきなりすさまじい悲鳴が上がりました。それも一つや二つではありません。いたるところで水しぶきが上がり、何かがもだえ苦しみ始めます。それはたくさんの怪物たちでした。透明になってしまった水の中で跳ね回り、溶けるように消え去って、川の流れに紛れていきます。
フルートとポチは、水面に顔を出してそれを眺めながら、ただただ驚いていました。川の水は、彼らのいるあたりを中心にしながら、どんどん穏やかに透きとおっていきます。美しい川が砂漠の真ん中に姿を現します。
「海の指輪の魔法だ……」
とフルートは言いました。水筒から川の中へ飛び出していった指輪が、川そのものに働きかけて、流れ全体を聖水に変えたのに違いありません。「水の中にあると守りの力を発揮する指輪なんだよ」というメールのことばを、改めて思い出してしまいます――。
やがて、少年たちは川岸に這い上がりました。涸れ川は穏やかに流れる澄んだ水に変わっていました。もう怪物はどこにも見あたりません。
けれども、ポチはしょんぼりと言いました。
「指輪……なくしちゃいましたね……」
流れが川下へ運んでしまったのか、青い海の指輪はいくら探し回っても見つからなかったのです。
「うん……」
とフルートも困惑していました。あれはメールの婚約指輪です。なくしてごめん、ではすみませんでした。
ところが、二人の少年がぼんやり川辺に立ちつくしていると、急にしゃがれ声が話しかけてきました。
「さすがは金の石の勇者だねぇ。あれだけの水魔たちが束になってかかっても、仕留められなかったとはさ。カカカ、カアカア」
川岸の低い木の枝に一羽の大きなカラスが留まっていました。濡れたように艶やかな黒い羽根をしています。と、次の瞬間、鳥は人の姿に変わりました。濡れたような黒髪に、入れ墨のような模様を顔につけた青年です。羽根でできた黒い服を着て、やっぱり木の枝の上に座っています。
フルートはすぐさま炎の剣を抜きました。この青年は整った顔をしていますが、髪や羽根の色に負けないほど、怪しく危険な気配を漂わせていました。闇の美しさです。問答無用で剣を振るおうとします。
すると、カラスだった青年があわてたように手を振りました。
「おっとっと。勇者の坊やはせっかちだなぁ。俺は見ての通り何の攻撃もできないんだから、そんなに殺気立つのはやめてくれないかな」
「何の用だ!?」
とフルートは尋ねました。背後に少年のポチをかばいます。
青年はにやにやと笑いました。
「見物に来たんだよ。闇の奴らに君が食われる様子をね。君、体の中に願い石を持っているんだろう? 連中はみんな、それをほしがっているんだよ。願い石さえあれば、どんな願い事だってかなうっていうのに、今までそれがどこにあるのか、誰も知らなかったからね。君を食べればそれが手に入るってんで、みんな、目の色変えて君のところへ押し寄せているのさ」
フルートは目を見張りました。後ろでポチも驚きます。
その様子を見て、青年はまたにんまりしました。
「正直だなぁ、君たち。その通りですって顔に書いてあるじゃないか。魔王の言っていたとおりだね」
それを聞いて、フルートは、はっとしました。思わず尋ねます。
「願い石のことを言ったのはレィミ・ノワールなのか!?」
「そう。そして、それを闇の国で触れ回ったのは、この俺様、闇がらすだよ」
と黒い青年は声に出して笑いました。何故か、カアカアとカラスの鳴き声に聞こえてきます。
「俺様は噂話が大好きさ。俺が話したことでみんなが大騒ぎするのを見るのが、何より楽しいね。足の速い連中がもう何匹も来ただろう? 雨と一緒に水魔の連中も押し寄せてきたが、闇の連中の本陣はこれからだよ。まもなく、数え切れないほどの闇の奴らが君のところに来る。なにしろ願い石を手に入れられるのは先着一名様だ。きっと、闇のもの同士、血みどろの戦いが始まるに決まってる。いや、近年まれに見るすばらしい見物だね」
そう言って、青年は楽しそうに手を振りました。翼の羽ばたく音が重なって聞こえます。
フルートは顔をしかめて言い返しました。
「ぼくを食べたって願い石は手に入らない! それに、願い石に願って破滅するのは、闇のものだって同じはずだぞ!」
「そんなのはどうだっていいのさ」
とカラスの青年はまた笑いました。美しい顔が、ぞっとするほど残酷な笑みを刻みます。
「利口な連中なら、それくらいのことはわかってる。どんなにそそのかされたって、君を食べて願い石を手に入れようなんて考えないさ。でも、闇の奴らがみんながみんな利口ってわけでもないからねぇ。単純な連中が願い石を目ざして押し寄せてくるのさ。そして、君を奪い合ってみんなで殺し合う。君をついに食べた奴を、他の奴が引き裂いて食べる。それをまた別の奴が殺して食べる。いやぁ、実に素敵なショーだね」
青年の声は本当に楽しげでした。闇のもの同士が引き裂き合い食らい合う地獄絵を思い描いているのです。フルートはこれ以上できないというほど思い切り顔をしかめました。
「ロキが言ってたとおりだ――。闇のものは、残酷で意地悪で、他人を不幸にすることしか考えていないんだな。仲間同士であってもそうなんだ」
「なにしろ闇のものだからな」
と青年は木の枝の上から答えました。どう見ても枝の方が重さ負けしそうなのに、枝は鳥が留まっているほどにしか、たわんでいません。
「闇のものは、自分さえ楽しければそれでいいんだよ。物事の基準はいつだって自分だ。自分のためにならどんなことだってする、ってのが闇のものなのさ。――とはいえ」
カラスの青年がふいに冷笑しました。
「それこそ、自分のためになら、仲間を手助けするなんてこともあるんだけどな。そら、こんなふうに!」
青年が声を上げるのと、大きな黄色い怪物が地中から現れるのが同時でした。青年の話に気をとられていたフルートを、あっという間に二本の鎌がつかまえます。それは巨大なカマキリでした。黄色い体の表面を、白い光が走ります。
青年が羽ばたきの音を立てながら両手をこすり合わせました。楽しそうに言い続けます。
「そいつは電気カマキリだよ。獲物を稲妻でショック死させてから食べるのさ。よかったじゃないか、勇者くん。君、食われる痛みは感じないですみそうだよ」
「フルート!」
ポチは怪物の足に飛びつきましたが、怪物に蹴り飛ばされて川の中に落ちました。
フルートは手にまだ抜き身の炎の剣を握っていました。それを握り直し、カマキリの体に突き立てようとします。
そのとたん、一本の鎌の上にパリッと音を立てて電流が走りました。みるみるうちに鎌全体が白く光り出します。と、次の瞬間、激しい光を放ちながら、電流が鎌からもう一方の鎌へと流れていきました。間に捉えられたフルートの全身を走り抜けていきます。少年の悲鳴が上がりました。
「フルート――!!」
ポチは川の中から頭を出して叫びました。金の鎧兜は衝撃や炎や暑さ寒さからフルートを守りますが、電撃を防ぐことはできないのです。
カマキリの鎌の間で、フルートの体がぐったりと力を失いました。右手から炎の剣が地面に落ちます。
ポチは無我夢中で岸に上がると、まっしぐらにカマキリへ駆け寄りました。カラスの青年の声が聞こえてきます。
「何をしたって無駄だよ。勇者の坊やはもう死んでるんだから」
カアカアと耳障りな笑い声が響いています。
カマキリが三角の頭でフルートにかみついていました。ところが鎧にはじかれたので、今度は兜からむき出しになっている顔に狙いを定めます。そこは魔法の防具の唯一の弱点です。
ポチはカマキリの足下から炎の剣を拾い上げました。細い腕にずっしりと剣の重みが伝わってきて、思わずよろめきそうになります。カマキリの足はすぐ目の前にありました。そこへ思い切り剣を振り下ろし、そのまま勢い余って倒れていきます。剣の先が虫の足をかする、かすかな手応えを感じます。
とたんに、ぼうっと音を立てて大カマキリが燃え上がりました。炎の中にフルートと一緒に消えていきます。
カラスの青年が目を丸くしました。
「あれあれ、いいのかい? 勇者くんまで燃えちゃったじゃないか」
けれども、ポチは地面に倒れたまま、あえぎながら待ちました。間もなく炎は消え、黒こげになったカマキリの残骸の中に、フルートが現れます。魔法の鎧を着たフルートは、火傷ひとつ負っていません。
ポチは駆け寄ってそれを揺すぶりました。フルート、しっかり、と声をかけます。
ところが、フルートは目を覚ましませんでした。ぐったりと横たわったままです。それにかがみ込んで、ポチは、はっとしました。フルートは息をしていなかったのです。
「フルート! フルート――!?」
ポチはすがりつき、死にものぐるいで揺すぶり続けました。フルートは息を吹き返しません。
「ほら、やっぱりね。カカカァァ」
青年の冷たい笑い声が川辺に響き渡りました。