ナイトメアは狭間の世界から立ち去りました。
ゼンは急に体中の力が抜けて、乾いた地面に座りこんでしまいました。かたわらにはポポロが倒れています。それを眺めて、ぐったりと自分の膝にもたれかかってしまいます。
空から雪のように降ってきた守りの花は、もうどこにも見えませんでした。岩だらけの荒れ地が広がっています。ただ、ゼンの手の中に小さな花だけが残っていました。狭間の世界に淡い白い光を揺らしています。
すると、急にわき起こった金の光がそれに重なりました。ゼンの胸の上に、魔法の金の石のペンダントが現れます。ナイトメアがいる間ペンダントが消えていたことに、ゼンはようやく気がつきました。
それと同時に、ゼンの目の前に人が立ちました。鮮やかな金の髪と瞳の、幼い少年です。ゼンは驚いて跳ね起きました。
「金の石の精霊!」
精霊の少年は首をかしげるようにしてゼンを見上げました。
「まあ、どうにか敵を追っ払えたみたいだね。相当危なっかしい奴だなぁ、君も」
唐突にそんなことを言ってきます。ゼンはたちまちむっとしました。
「るせぇな。いたんなら、さっさと助けに出てこいよ。もう少しで黄泉の門をくぐらされるところだっただろうが」
と八つ当たりぎみに文句を言うと、金の石の精霊は肩をすくめました。
「あれは君の夢だ。いくらぼくでも、人の夢までは変えられないよ。悪夢は自分で追い払うしかないんだからね。どうやら君は本当にフルートを裏切らないことにしたみたいだから、こうして、君の前にも出てきてあげたのさ」
ゼンはますますむっとすると、うなるように答えました。
「誰が裏切るか。失敗は一度で充分だ。俺だって馬鹿じゃねえ」
すると、金の少年は皮肉な笑い顔になりました。見た目はほんの小さな子どもなのに、まるで大人のような表情を浮かべます。
「そう言う割には本当に危なそうに見えたけど? メールが花をよこしてくれなかったら、きっと二人とも黄泉の門をくぐっていたよ」
「るせぇ! 実際にはくぐらなかったんだからいいだろうが! それに、花が来なくても俺は絶対に行かなかったぞ!」
とゼンはどなり返しました。が、急にとまどう顔になると、目を伏せてつぶやきました。
「……でも、あれが、ポポロじゃなくてあいつだったら、わかんねぇけどよ……」
幻の自分が抱いていた少女が、最後の瞬間に緑の髪の少女に変わったことを思い出したのでした。なんだか、ひどく切ないものが胸にあふれてきます――。
金の石の精霊はちょっと目を丸くしました。少しの間考えてから、急にこんなことを言い出します。
「ポポロは、君にお母さんの思い出を見せるために、君の体が持っていた記憶に呼びかけた。あれはなかなかいい方法だったと思うよ。だから、ぼくも君にもうひとつ、君の体の記憶を見せてあげよう」
そう言いながら、小さな手でゼンの腕に触れました。ゼンが思わず身を引く暇もありませんでした。
とたんに、彼らの目の前に、ひとつの光景が広がりました。
そこは薄暗い建物の中でした。木の壁に小さなランプが掲げられていて、弱い黄色い光を投げかけています。
部屋の真ん中にはベッドがあって、そこでゼンが寝ていました。血の気のない白い顔をして、まるで死んだように横たわっています。毛布が体の下半分にだけかけられていて、胸の上には、ポポロが寄りかかって深く眠っていました。
ゼンは、思わずぎょっとしました。
「おい、これ……」
「そう。今、君は現実の世界ではこんなふうにして眠ってる」
と精霊の少年は言いました。
「ただ、まったく今の状態じゃない。ほんの少し前の様子だよ。ほら――」
人の気配がベッドに近づいていました。薄暗い灯りの中に、背の高い少女の姿が現れます。メールでした。ゼンをのぞき込んで、ほほえみます。
その青い瞳が涙ぐんでいるのを見て、ゼンはどきりとしました。ひどく淋しそうな微笑です。ゼンは急に心配になってきました。おまえ、何をそんなに悲しんでるんだよ、と考えます……。
メールが寝ているゼンに何か話しかけました。ところが、声は少しもこちらに聞こえてきません。口の動きだけでは何と言っているのかわからなくて、ゼンは精霊にまた文句を言いました。
「あいつは何をしゃべってるんだ!? どうして声が聞こえねえんだよ!?」
「さあ」
と精霊は答えました。冷静に同じ光景を眺めています。
すると、メールの顔から完全に微笑が消えました。今にも泣き出しそうな顔になって、また何かを言います。やっぱり声は聞こえません。
「おい!!」
とゼンはまたどなりました。心がどうしようもなく焦ります。今すぐメールの隣に駆けつけて、「泣くんじゃねえ! この馬鹿!」と言ってやりたくなります。
その時、メールが動きました。上背のある体をかがめると、一瞬ためらってから、眠っているゼンの頬にそっと唇を押し当てます――。
ゼンは真っ赤になりました。
目をぱちくりさせながら、薄暗い部屋の中の自分とメールを見つめてしまいます。
メールは目を閉じてキスをしていました。いつも負けず嫌いで気の強い横顔が、驚くほど優しい表情を刻んでいます。なんだか、本当に頬の上にその唇の柔らかさを感じるような気がして、ゼンはますます赤くなっていきました。声が出せません。
すると、メールが身を起こして、ゼンとその胸で眠るポポロを見つめました。二人に向かって、にっこり笑いかけます。
「さあ、じゃ、あたいも行くよ。安心しな。闇の敵なんかには、指一本あんたたちをさわらせたりしないから」
ようやく声が聞こえてきました。
メールはそのまま離れていきました。扉を開けて部屋を出て行く気配がします。入口から差し込んだ外の光が、一瞬部屋の中を明るく照らします。それは、燃えるような夕日の赤い輝きでした。
ベッドに眠るゼンたちの姿が消えていきます……。
ゼンは真っ赤な顔のまま、片手で口元をおおいました。うろたえてしまって、本当に、すぐには声が出せません。いやに落ちついた顔をしている金の石の精霊へ、やっと、こう尋ねます。
「おい……今のは何なんだよ……?」
「だから、少し前の出来事だってば。別に夢なんかじゃないよ」
「夢じゃない、って……だけど……それじゃ……」
そう言いかけたまま、また何も言えなくなってしまいます。
そんなゼンを、精霊はあきれたように眺めました。本当に小さな少年ですが、腰に手を当ててゼンを見上げる目は、まるでずっと年上の大人のようです。
「メールが全然素直じゃないのは、君もよく知っているだろう? あれが彼女の本当の気持ちさ。みんな知っていたことだよ。気がついてなかったのは君だけさ、ゼン」
それから、石の精霊は冷めた口調で続けました。
「まあ、君たちは全員がそうなんだけどね。人は自分で自分を見ることができないから、しょうがないのかもしれないけど」
ゼンは何も返事ができません。
それを尻目に、精霊は倒れている少女を揺り起こしました。
「ポポロ、ポポロ、目を覚ますんだ」
ナイトメアが去ったからか、起こしたのが癒しの石の精霊だったからか、少女はすぐに目を覚ましました。自分をのぞき込む少年を見て驚きます。
「金の石の精霊――!?」
「ポポロ、早くここから脱出しなくちゃいけないよ」
と精霊が話しかけました。
「間もなく夜が明ける。そうしたら、ここに来るために使った君の魔法が切れる。その前に現実の世界に戻るんだ。帰り道を教えてあげるから」
「で、でも、ゼン――とあなたは?」
とポポロは二人の少年を見比べながら聞き返しました。一緒に戻らないの? と目で尋ねてきます。
精霊は優しくほほえんで見せました。
「ゼンはまだ戻れない。ナイトメアは去ったけど、魔王がいる限り闇の毒は消えないからね。でも、大丈夫さ。フルートが今、レィミ・ノワールを倒しに向かっている……。それまでは、ぼくがゼンを闇の毒から守り続けるから」
けれども、ポポロは心配そうな顔のままでした。金の石の精霊の力を疑ったわけではありません。彼らがいるこの狭間の世界が、想像していた以上に厳しく危険な場所だということがわかったからです。ほんの少しでも生きることに迷ったり、生きることに絶望したりすると、たちまち黒い黄泉の門が姿を現します。そして、ゼンを死者の国へ連れ去ろうとするのです――。
すると、ゼンが口を開きました。何故だか赤い顔をしてこう言います。
「俺は大丈夫だ。金の石の精霊が一緒にいるし――こいつもあるからな」
そう言って掲げてみせたのは、白いユリに似た小さな守りの花でした。あいまいに笑うその表情は、なんだか照れ隠しをしているようにも見えました。
「さあ、道を示すよ」
と精霊が言いました。片手を空にかざすと、そこに金の光が走ります。空の彼方まで金色の虹をかけます。
「ゼン――!!」
とポポロは叫びました。思わずすがるような声になっていました。
ゼンはそれに笑い返しました。
「俺たちを信用しろよ。……で、帰ったら、あいつに言ってくれ。必ず俺は生きて戻る。だから泣くな、ってな」
ポポロは思わず目を見張りました。メールへの伝言なのだとわかったのです。
かたわらで精霊がちょっと肩をすくめます。
ゼンはポポロを抱き起こしました。もう、狭間の世界に北の峰の森は見えません。精霊がかけた金の虹へ、力をこめて少女を送り出します。
「そら行け、ポポロ! 気をつけて帰れよ!」
まるで本物の橋を渡っていくように、空にかかった虹をポポロの体が駆け上がりました。驚いたように足下を見つめ、それからまた、地上の少年たちを振り返ります。
ゼンが手を振り返しました。ポポロは涙ぐみました。ゼンに向かって叫びます。
「必ずよ、ゼン……! 必ず無事に戻ってきてね!」
おう、とゼンは答え、さらに大きく手を振りました。ポポロは何度も振り返りながら、虹の橋を遠ざかって行きました。やがて、空の中に溶けるように姿が見えなくなります――。
ゼンは手を下ろすと、かたわらの精霊をじろりと見ました。
「これでいいんだろう? ったく、大急ぎでポポロを送り返しやがって。現実の世界で夜明けが近づいてるってのも、ポポロを急いで帰らせるために適当に言ったんじゃねえのか? そんなに俺が信用できねえのかよ?」
精霊の少年は、大きく肩をすくめ返しました。
「そんなの当然じゃないか。君はいつまた変な気を起こすかわからないし、だいたい、フルートが大切にしてる彼女を、これ以上こんな危険な場所にはいさせられないよ。ここは死者の国に近すぎるからね」
「あ、なんだその言い方――!? だからポポロにはやけに優しかったんだな!? 露骨にえこひいきしやがって!」
「それも当然。ぼくはフルートの金の石だ」
精霊はすました顔のままです。
「この――精霊野郎! ガキのくせに生意気だぞ!」
「ぼくが小さく見えるのは見た目だけだよ。ぼくは本当は三千歳を越えてる。どうしようもないガキなのは君の方さ、ゼン」
「な、なんだとぉ――!!?」
荒れ果て乾いた狭間の世界。そこをさまようゼンに、どうやら賑やかな道連れができたようでした