狭間の世界の中で、ゼンはメールを呼び続けました。
目の前に北の峰の森が揺れています。足下にはポポロが倒れています。まるで眠ってしまっているようです。あまりにも無防備な姿に、心がどうしようもなく乱れます。
ゼンは手の中の小さな守りの花を握りしめ、自分自身の心の声をかき消すように、必死で叫び続けました。
「メール!! メール、聞こえねえのかよ!! メール――!!」
ふいに、ゴーリスの別荘で話していた彼女の姿が心に浮かびました。外した手袋の下には、青い婚約指輪がありました。それを見せながら、メールは言ったのです。
「あたい、婚約したんだよ。結婚するんだ」
馬鹿野郎!! とゼンは心で叫びました。結婚なんかしてる場合かよ! おまえは金の石の勇者の仲間じゃねえか! 世界の危機を放っておいて、自分だけ幸せになるってぇのかよ……!
違います。
ゼンが本当に彼女に言いたかったことは、それではありません。
ゼンは唇をかみました。
心の中のメールがあきれたように言っていました。
「なにそんなに悲愴な顔してんのさ、ゼン。ちょうどいいじゃないか。あたいは結婚する。あんたはポポロと北の峰の森で暮らす。あたいもあんたも、どっちも幸せ。ちょうどいいじゃないのさ」
馬鹿野郎……! とゼンはまた心で言いました。おまえ、それでいいのかよ? 本当に、それでいいのかよ!? 何故だか涙がこみ上げてきそうになります。
ゼンは小さな花を握りしめ続けました。すがるように、祈るように、かすれ声でまた呼びます。
「メール……来い……。頼む。来てくれ……」
森のざわめきがひときわ大きく聞こえてきました。遠くでカッコウが鳴いています。谷川のせせらぎが響きます。ゼンの意識を緑の中に飲み込んでいこうとします――。
すると、夏の森に急に雪が降り出しました。木立の間からのぞく青空から森の中へ、白いものが舞い下りてきます。季節はずれの雪です。
と、雪が森の中で燃えるように輝きました。そのまま光を放って消えていきます。ゼンは目を見張りました。光は、雪が降りかかった梢や地面の上で次々に燃え上がります。光が消えた後はその場所の森が見えなくなります。まるで、本物そっくりに描かれた絵のあちこちを、見えない虫が食い破っていくようです。景色の中に無数に空く穴の向こうに、岩だらけの大地がのぞき始めます。
ゼンはその様子を目を丸くして見つめ続けました。降ってくる白いものは雪ではありません。白く輝く百合によく似た、守りの花の大群です。
ゼンは歓声を上げました。
「メール!!!」
降りしきる花の中、両手を広げて思わず笑い出します。
守りの花が森を消していきました。優しいあきらめの笑顔を浮かべた幻のフルートも、ゼンの心の中であきれ顔をしているメールも、何もかも消し去っていきます――。
やがて、森はどこにも見えなくなりました。
代わりに広がっているのは、岩が転がる荒れた大地です。ひび割れた地面に枯れ草が揺れています。
ほっとしながらそれを眺めたゼンは、次の瞬間、ぎくりと身を引きました。
すぐ目の前に、黒馬と人のようなナイトメアが立っていました。その後ろに黒々とそびえて扉を大きく開けているのは、黄泉の国へ続く門です。もしもゼンがポポロを抱いて森へ進んでいれば、まっすぐその門の中へ入ってしまっていたのです……。
すると、ナイトメアの黒い姿が揺らめきました。音もなく薄れて消えていきます。
それと同時に、黄泉の門も消えました。
ゼンと気を失ったポポロだけが、荒れた大地に残されました――。
「見て!」
とルルが声を上げました。中庭の建物の中です。ベッドで眠るゼンからわき上がるように、黒い巨大な影が立ち上がっていました。
それは目のない黒馬の怪物でした。鞍の上に、おぞましい姿をした人のようなものを乗せています。ナイトメアです。
メールは即座にまた呼びかけました。
「花たち!」
守りの花が渦を巻き、黒い怪物へ飛びかかっていきました。闇の怪物に触れたとたんに燃え上がり、光になって消えていきます。ルルが、ジュリアや仲間たちを守るために、また風の犬に変身します。
黒馬がいななきを上げました。苦しがるように頭を振り、ふいに駆け出して建物の壁に飛び込みます。そのまま姿が見えなくなります。
そこへ、入口からユギルが血相を変えて飛び込んできました。建物の中の異変に気がついて駆けつけてきたのです。
銀髪の占者は、建物の壁に飛び込んで駆け去っていくナイトメアを見つめ、やがて、蹄の音が遠ざかって聞こえなくなると、ほっと肩の力を抜きました。
「悪夢の怪物は去りました……ゼン殿はもう大丈夫です」
それを聞いたとたん、花使いの姫は、へたへたとその場に座りこみました。そのまわりにも、ベッドの上にも、数え切れないほどの守りの花が散っています。ゼンの上に舞い落ちた花は、黒く燃えつきていました。
と、メールがしゃくりあげ始めました。両手で顔をおおうと、大きな声を上げて泣き出してしまいます。
ユギルは目を細めてそれを眺めました。花使いの姫が流しているのは、安堵の涙です。ジュリアが優しくその肩を抱き、犬に戻ったルルが伸び上がって頬をなめます。
建物の外からは、まだ戦いの音が続いていました。ゴーリスとオリバンと四人の魔法使いたちが、執拗に襲ってくる闇の怪物たちを撃退しているのです。
ユギルはそちらを向くと、女性たちを建物の中に残して、また戦場へと戻っていきました――。