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第7巻「黄泉の門の戦い」

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54.森

 ゼンは、ぽかんと目の前の景色を眺めてしまいました。濃い緑の森が広がっています。梢の葉が風にざわめき、波のような音を立てています。木漏れ日が草におおわれた斜面の上や木立の中に差し込んで、風が吹き抜けるたびに陰影を揺らします。遠くからは、カッコウの声も聞こえてきます。――見間違いようがありません。ゼンの故郷の、北の峰の風景でした。

 ゼンは、とっさに後ろを振り返りました。乾いてひび割れ、大小の岩が転がる荒れ地が広がっています。やっぱりここは狭間の世界なのです。その中に、幻のように北の峰の夏の景色が映し出されていました。

「ち……まだ続くのかよ」

 とゼンは低い声でつぶやきました。用心する顔になっています。もちろん、本物の北の峰のはずはありません。おそらくこれもナイトメアの見せる夢なのです。

 ゼンの目の前にはポポロが倒れていました。本当に、いっこうに目を覚ましません。ゼンはそれをかばうようにしながら、森を見つめ続けました。何か怪しいものが現れたら、即座にポポロを抱いて逃げられるように身構えます。

 けれども、いくら待っても何も現れませんでした。過去の悪夢も映りません。ただ目の前で森は風に揺れ、木漏れ日がちらちらと踊り続けるだけです。森の奥からはカッコウの声が繰り返し響いてきます。かすかに聞こえてくる音は、谷川のせせらぎでしょうか……。

 ゼンの額に玉のような汗が噴き出しました。目の前の光景はのどかです。平和で美しいゼンの故郷そのものです。なのに、ひどく異質な気配がしていました。故郷に瓜二つの景色の陰に危険なものを感じ取って、全身鳥肌が立つ思いがします。

「やべぇぞ、ここは……」

 とゼンはつぶやきました。どうやら、急いでこの場所から離れた方が良さそうです。気を失っているポポロをつれて逃げようと、ポポロに手を伸ばします。

 

 すると、ポポロが言いました。

「北の峰って、本当に綺麗なところよね、ゼン」

 ゼンは驚きました。目の前のポポロは意識を取り戻していません。今話したのは、彼女ではありませんでした。

 倒れているポポロと、それにかがみ込むゼンのすぐ隣に、もう一組のポポロとゼンがいました。幻のように体が半分透けています。そちらのポポロが目を開けて、森を見ながらゼンに話しかけていました。

「涼しくて、とても気持ちよさそうよね……。川の音も聞こえるみたい」

「近くを流れてるぜ、谷川が」

 と幻のようなゼンが答えていました。

「ここからそう遠くない場所だ。行ってみるか?」

 とたんに、倒れていたポポロが跳ね起きました。透き通った手を打ち合わせて、歓声を上げます。

「行きたい! ねえ、ゼン。去年行った谷川みたいに、そこにもホタルはいるかしら?」

「いるぜ。夜になればいっぱい飛び回ってる。それも見せてやろうか」

「ええ! ええ、見たいわ、ゼン! お願い、見せて! 連れて行って!」

 そう言いながら、少女がじっと見たのは、幻のゼンではありませんでした。いつの間にか、そちらのゼンは消えてしまっています。幻の少女は、本物のゼンの方を見上げて、にっこりとほほえんでいました。

「ねえ、ゼン。連れて行って。あたしを森へ――北の峰へ、連れて行って――」

 

 ざわり、とゼンの全身でまた鳥肌が立ちました。

 幻の少女の声が、まるで本物のポポロの声のように聞こえたのです。あわてて目の前に倒れ続けている少女を見ます。本物は、やっぱり気を失ったままです。

 幻のポポロが頬を染めながら立ち上がりました。森へ向かって歩き出そうとします。ところが、その足下が乱れました。よろめいて転びそうになります。

「おっと」

 と抱きとめたのは、またいつの間にか姿を現した、幻のゼンでした。二人は顔を見合わせ、どちらからともなく、声を上げて笑いました。

「危なっかしいな。そら」

 とゼンが両腕でポポロを抱き上げてしまいます。ポポロは、きゃっ、と声を上げ、真っ赤になって言いました。

「だめよ、ゼン。こんな格好、誰かに見られたら恥ずかしいわ」

「誰が見てるんだよ、こんな森の奥で。俺たちだけしかいないだろうが」

 とゼンが笑いながら答えます。

 あたしたちだけ、とポポロが繰り返しました。やっぱり赤い顔をしていますが、やがて、にっこりと明るい笑顔になると、ゼンの首に腕を回して抱きつきました。ゼンの広い肩に頭をもたせかけ、幸せそうな顔でこう言います。

「連れて行って、ゼン。北の峰へ。あなたの森へ、あたしを連れて行って――」

 

 しまった、と本物のゼンは歯ぎしりをしました。

 背筋を悪寒が駆け下りていきます。全身から、どっと冷や汗が噴き出してきます。

 いつの間にか、幻のポポロのささやきが、自分の心の奥深くまで届いてしまっていました。本物が言っているわけではないとわかっているのに、何故だか、本物からねだられているように聞こえているのです。目の前に倒れているポポロを、幻と同じように抱き上げて、まっすぐ森へ運んでやりたい気持ちになっています。ナイトメアの罠にはまってしまったのでした。

 それはゼンの心の奥底にずっとあった想いでした。ポポロと二人だけになりたい。自分が愛する北の峰にポポロを連れて行って、そこで一緒に過ごしたい。そんな、単純で深い願いです。

 北の峰では、大きな事件も面白い出来事もまず起きません。自然だけが豊かな静かな山です。そこで、可愛いポポロを見つめながら平和に暮らしたい。美しい自然に囲まれながら、ただ互いに見つめ合い、幸せに笑いながら生きていきたい――とゼンは心のどこかでそんなふうに考え続けていたのでした。

 ナイトメアは残酷です。本人自身も気がつかないほど、深い心の奥底にしまってあった願いであっても、掘り起こし、鮮やかに再現して見せるのです。夢を悪夢に編み直すために。

 これは夢でした。それも、甘く切ない夢です。目の前に、本物のポポロが倒れています。小さくて華奢なその体を抱き上げ、森の中へ運んでいくのは簡単なことです。危険な誘惑が、ゼンの心を揺すぶり続けます。

 ゼンは歯ぎしりを続けました。全身汗だくになりながら、自分の膝を強く握り、倒れているポポロを抱いてしまいたい衝動に耐えます。咽の奥で、うなるように言います。

「こンの……馬野郎……。どいつもこいつも、デビルドラゴンみたいな真似しやがって……。だれが――だれが、その手に乗るかよ! 俺はもう、二度とあいつを――裏切ったりしねえんだぞ!」

 それだけを言って、まるで全力疾走してきた後のように、激しく息をつきます。悪夢に向かって、とっとと消えろ! と念じます。ゼンの前の悪夢は、美しい森の姿をしています――。

 

 すると、ふうっとフルートが現れました。やっぱり、半ば透き通った幻のような姿です。金の鎧兜を身につけて、森の手前の岩の上に、片膝を抱えて座りこんでいます。

 フルートが、ゼンを見て言いました。

「いいんだよ、ゼン。ぼくにそんなに気を遣わなくたって……。ポポロは本当に君が好きなんだよ。それは見ていてわかるんだ……。ぼくは、君たちが幸せになってくれれば、それでいいんだよ。ぼくは君たちの笑ってる顔が見たいんだから」

 そう言って、フルートはにっこり笑いました。あの優しい笑顔が広がります。

 ゼンは首を振りました。いっそう強く自分の膝をつかみます。そうしていなければ、次の瞬間には、足下の小さな少女を抱き上げて、森へ逃げ込んでいきそうな自分を感じています。

 ちきしょう! とゼンは心で叫びました。もう声が出せません。ちきしょう、ちきしょう! と叫び続けます。二度も同じ敵の手にはまっている自分が悔しくて、涙さえこみあげてきます。

 また、目の前に自分とポポロの幻が現れていました。自分は腕の中に小さな少女を抱き上げています。二人で楽しそうに声を上げて笑いながら、森の奥へと入っていきます。

 それをフルートがほほえんで見送っていました。友人たちの幸せを喜んで目を細めながら、何も言わずに、ただ穏やかに――。

 森の奥に、少年と少女の姿が消えていきました。緑の中に見えなくなっていきます。幸せそうな笑い声だけが、こだまのように響きます。

 

 その時、ゼンは、はっとしました。

 消えていく瞬間、幻の自分が抱く少女が、姿を変えたように見えたのです。もっと長身で、もっと細身の――緑色の髪の少女の姿に。

 そして、同じ瞬間、ゼンの左の胸に、まるで熱い小さな火を押し当てられたように、ちりっと痛みが走りました。つっ! と思わず声を上げて目をやると、胸ポケットで百合に似た白い小さな花が震えていました。メールがポポロに託してよこした、守りの花です。

 そのとたん、ゼンの心を縛っている見えない力が緩みました。涼しい風が吹き込むように、正気がゼンの中に流れ込んできます。

 

 ゼンはポケットの花をつかみました。もう一方の手は膝を強く握りしめたまま、咽から声を振り絞ります。

「俺は、裏切らないって言ってんだろうが――! 俺はポポロを森には連れていかねえぞ! どんなにあいつが――フルートがそれを許すって言ったって――絶対に、するもんか! だって――俺は、あいつの笑顔が見たいんだからな! 大人みたいに淋しくあきらめた笑い顔じゃねえ。心から嬉しくて楽しくて笑ってる――そんな、あいつの笑い顔が見たいんだからな!!」

 そして、ゼンは白い花を両手で握りしめました。祈るような形になった手に向かって、死にものぐるいで呼びかけます。

「メール! おい、メール! 今すぐ助けに来やがれ! 一大事なんだぞ、今すぐ助けに来い! メール――!!」

 少年が少女を呼ぶ声が、緑の森に響き渡りました。

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