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第7巻「黄泉の門の戦い」

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第14章 夢の中・3

53.ポポロ

 ゼンは狭間の世界で立ちつくしました。自分が霧の中で行く先を見失っていたときよりも、はるかに困惑していました。ナイトメアがいきなりポポロをさらっていったのです。どこへ行ったのかわかりません。

 ちきしょう! とゼンはわめきました。

 油断をしました。ナイトメアは人に悪夢を見せる怪物です。人の心を探って、そこから苦しい夢を紡ぎ出してきますが、これまで直接攻撃をしかけてくることは一度もありませんでした。ナイトメアは夢なので実際の力を持っていないのだろう、とゼンたちはたかをくくっていたのです。

「ポポローッ!」

 とゼンはまた呼びました。返事はありません。霧が晴れた世界には、荒れ果てた大地がどこまでも続いているだけです。

 

 すると、突然その中に少女の声が響き渡りました。

「セドモオレーワ!」

 とたんに、何もなかった空間に火花のような光が散り、その中から黒馬がまた姿を現しました。人のような怪物が乗っています。その腕の中で、黒衣の少女が緑の目を燃え上がらせ、片手を悪夢の怪物に向けて突きつけていました。魔法の力でナイトメアと共に戻ってきたのです。

「ポポロ!」

 とゼンが歓声を上げたのと、ポポロが二つめの呪文を唱えるのが同時でした。

「ロケダクロエキマウノムクーア!」

 再び火花のような光が散り、一瞬でナイトメアが灰色の石に変わりました。音を立てて砕け、砂になって崩れていきます。それと一緒にポポロも落ち、砂の山の上に投げ出されました。きゃっ、と少女が悲鳴を上げます。

「ポポロ!」

 とゼンは駆け寄りました。灰色の砂の山の上、少女は怪我ひとつしていません。

「良かった。心配したぞ」

 と目の前に膝をついてかがみ込んだとたん、ポポロの表情が変わりました。きっぱりとした魔法使いの顔から、またいつもの泣き虫の少女の顔に戻り、緑の瞳に大粒の涙を浮かべ始めます。

 う、とゼンは思わず身をひきました。何より苦手な涙を見て、思わず逃げ腰になってしまいます。

 けれども、ゼンが逃げ出す前に、ポポロはゼンの首に抱きつきました。そのまま、わぁっと声を上げて泣き出します。

「お、ちょ……ちょっと待てったら、ポポロ。そ、そんなに強くしがみついたら……」

 ゼンはしどろもどろでした。泣きじゃくる少女の体が強く強く押しつけられてきます。小柄でも、女性らしい丸みやふくらみを帯び始めた、柔らかい体です。その頬も、ゼンの頬にぴったりと押し当てられています。赤いお下げ髪からは、天空の花の香りが漂ってきます。ゼンは、別の意味でどぎまぎし始めました。

 すると、ポポロが泣きながら言いました。

「ナイトメアに悪夢を見せられたの……すごく嫌な夢……」

 ど、どんな夢だよ、とゼンは聞き返しました。なんだか本当に胸がどきどきしていて、まともにことばが出てこない感じでした。少女がすすり泣きながら答えます。

「ゼンが……メールを選んでしまう夢……。あたしじゃなくて、メールを……そして、メールと行ってしまう夢なの……」

 ゼンは、思わずぎょっとしました。それを言うポポロの表情を見ようとしましたが、あまり強くしがみついているので、少女の顔を見ることはできませんでした。

 少女の抱きつく力が、いっそう強くなりました。泣きじゃくりながら言い続けます。

「あたし……あたし、はっきりわかった……。あたしが本当に好きなのはゼンよ。あたしはゼンが好き。メールと行ってしまっては……嫌よ!」

 また、わあっと声を上げて泣き出します。

 

 ゼンは自分の耳を疑っていました。自分にしがみついて泣いている少女を見つめてしまいます。とても現実のこととは思えません。なんだか茫然としてしまって、思わずこう聞き返してしまいます。

「でも、ポポロ、おまえ……フルートはどうする気だよ?」

 自分でも無意識で言ったことばでした。考える前に口に出ていたのです。

 少女が激しく首を振りました。

「その名前は言わないで! あ、あたしが好きなのはゼンなのよ! フルートじゃないわ!」

 ゼンはまた目を見張りました。おい、と思わずまたつぶやきます。

 そんなゼンに、いっそう強く、いっそう堅く抱きつきながら、ポポロは言い続けました。

「フルートは……フルートには、憧れていただけなのよ……。フルートは、とても優しくて強いから……とても素敵に見えたけど……。でも、違うの。好きとは違うの。あたしが本当に好きだったのは、ゼンなのよ……!」

 ポポロはゼンの腕の中で震え続けていました。頼りないくらいに華奢で小さな体です。甘い花の香りが漂ってきます。

 ゼンは思わず目をつぶると、その細い肩に両手をかけ――

 

 力一杯、自分からポポロを引き離しました。

 

 ポポロが目を見張りました。大きな瞳をいっぱいに見開き、信じられないようにゼンを見つめます。

「ど……どうしてなの、ゼン……? あたしのことが嫌いなの……?」

 泣き濡れていた目に、また新しい涙が大量に湧き上がってきます。

 ゼンは目を開けると、口元を歪めるようにして笑って見せました。

「ポポロのことは嫌いじゃないぜ。こんなふうに言われるのだって、嬉しくないわけじゃねえ――本物から言われるんならな」

 ポポロはさらに目を大きくしました。驚いたように言います。

「あたし……あたし、本物よ!」

「おまえは夢だよ、ポポロ」

 とゼンは皮肉に笑いながら答えました。

「すごくよくできてるけどな。でも、おまえは本物のポポロじゃない。ナイトメアが作り出してる悪夢なんだよ」

 ポポロは真っ青になりました。泣きながら必死で首を振ります。ゼンに駆け寄り、もう一度しがみつこうとするのに、ゼンは絶対に近寄らせようとしません。

 ゼンは続けました。

「本物のポポロが、フルートを好きじゃなかった、なんて言うわけがあるか。憧れていただけだった、なんて――。ポポロがそんな薄っぺらい気持ちじゃなかったことくらい、俺にだって見てりゃわからぁ。本物のあいつは素直だからな。本当は好きじゃなかった、なんて嘘は絶対につけねえんだよ!」

 言いながら、目の前の少女を思い切り突き飛ばします。黒衣を着た小さな体が地面に倒れます。

 

 と、その姿の輪郭が急にぼやけました。みるみるうちに大きくなって、もっと背の高い、大人の女性の姿に変わっていきます。長い黒髪をたらし、裾を引く長い黒いドレスを着た、美しい女です。

 驚いているゼンの目の前で、女は立ち上がりました。ドレスについた砂埃を優美な手つきで払い落とします。――レィミ・ノワールでした。

「久しぶりね、ドワーフの坊や。よく偽物だと見破ったこと。我ながら、なかなか上手だったと思うんだけど」

 と笑います。その瞳は血のような赤、笑った唇の両端から、とがった牙の先がのぞきます。黒いドレスの襟ぐりからは豊かな胸の谷間がくっきりと見えています。

 ゼンは身構えながらどなり返しました。

「俺をなめるな、魔女! こっちは前にもデビルドラゴンから痛い勉強させられてんだ! 同じ手に二度もひっかかるもんかよ!」

 即座にショートソードを抜き、ためらうことなく女に切りつけていきます。けれども、剣は女の体を通り抜けていっただけでした。何の手応えもありません。

 ほほほ、とレィミ・ノワールは笑いました。

「あんたの夢の中に生身で来たりするものですか。それこそ、これは夢よ。とびっきり素敵な夢を見せてあげるつもりだったのにねぇ、ドワーフの坊や。二年前にはまだ子どもだったから、どうしようもなかったけど、そろそろあなたも大人の仲間入りでしょう? あたくしと来れば、今まで経験したこともない大人の夢を見られるのよ。気持ちがよくて、この世のことなんか何もかもどうでもよくなるくらい素敵な夢をね。……どう?」

 レィミの声はねっとりと絡みつくように甘く響きます。男を誘惑する魔女の声です。赤い瞳が誘いかけるようにゼンを見ます。

 

 けれども、ゼンは、へっと鼻で笑いました。

「ごめんだぜ。甘いことを言ってくる女には絶対ひっかかるな、って親父から言われてるからな。それに――俺は年上は好みじゃねえんだ。年増のおばさんなんざ、まっぴらだよ!」

 とたんに魔女から艶やかな笑いが消えました。顔色を変え、美しい顔を引きつらせながら答えます。

「あらまぁ、それは残念ね、坊や。だからガキは嫌なのよ。あたくしの魅力を理解できないんですもの」

 負け惜しみに笑う顔の奥から、歯ぎしりする音が聞こえてくるようでした。

「魅力? どこが! 毒虫がいくら派手な色をしていたって、全然綺麗にゃ見えねえぜ。近づく気にもならねえや!」

 と少年が言い返します。口では全然言い負けないゼンです。魔女はますます顔を引きつらせました。にらみつけるような目をします。

「ああそう、よくわかったわ。ガキを相手にいくら話をしたって無駄ってことね。あと五年くらいしたら出直してらっしゃい、坊や。その時に、改めてあたくしの魅力をじっくり教えてあげるから」

 くるりと黒いドレスの背中を向けると、憤然と歩き出そうとします。ゼンはまたどなりました。

「待て、魔女! ポポロを返しやがれ!!」

 ふん、とレィミは高く鼻を鳴らしました。

「返すわよ。どうせ、あんたも、あの貧弱な小娘も、このまま狭間の世界でのたれ死によ! あんたみたいなガキには、あのしょんべん臭い小娘がちょうどお似合いだわ! せいぜい死ぬまで仲良くなさい!」

 美しい顔からは想像もつかない悪態を吐きながら、魔女が消えていきます。

 

 すると、その後にポポロが現れました。地面にぐったりと倒れて気を失っています。ゼンは駆け寄ると、用心しながら揺すぶりました。このポポロもまた、レィミが化けた偽物かもしれません。

 けれども、ポポロはなかなか目を覚ましませんでした。どうやら本物のようです。ゼンは次第に焦ってきました。このままずっと正気に返らなかったらどうしよう、と不安になって、ポポロの体を強く揺すぶり続けます。

「ポポロ! おい、ポポロ! しっかりしろったら――!」

 それでも、ポポロは気がつきません。

 その時、風が吹いてきて、ざぁっという音がすぐ近くでわき起こりました。木と草と土の香りが強く漂ってきます。驚いて顔を上げたゼンの目に入ったのは、うっそうと広がる緑の森の風景でした――。

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