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第7巻「黄泉の門の戦い」

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52.丸木小屋の部屋

 ゼンは目を見張ったまま、淡い光の中の光景を見つめ続けていました。丸木小屋の部屋の中、ベッドの上に人間の女の人が起き上がっています。赤ん坊を抱く夫を、笑って見ています。

 ゼンは父親の腕にいる赤ん坊を眺めました。

「俺?」

 と信じられないようにつぶやき、また女の人に目を戻します。

「……母ちゃん?」

 ポポロも目の前に現れた過去の場面を眺めました。女の人は波打つ黒髪に黒い瞳をしています。とても痩せていますが、その表情もまなざしも明るくて、なんだかゼンにそっくりです。面差しもゼンによく似ています。

 

 すると、父親に抱かれた赤ん坊のゼンが泣き出しました。小さな体なのに、部屋中に泣き声を響かせます。とても元気です。若い父親は泣きやませようとしましたが、逆にいっそう大声で泣かれてしまって、あわてて妻に助けを求めました。

「頼む、サラ」

「しょうがないねぇ」

 黒髪の女の人は笑いながらゼンを受け取ると、細い腕と胸の中に抱きかかえました。とたんに、ゼンがぴたりと泣きやみました。ちゅっちゅと唇を鳴らすような音を立てて、あっという間に眠ってしまいます。

「さすがだな」

 と父親が感心すると、母親は笑い返しました。

「あたりまえだろう。あたしはこの子の母親だもの」

 誇らしそうな、楽しそうな、屈託のない笑顔でした。

 

 父親がそっとゼンの寝顔をのぞき込みました。起こさないように息さえ詰めて見つめているので、母親はまた笑いました。

「そんなに気を遣わなくたって大丈夫だよ。寝るときにはよく寝るし、起きてるときには元気に動いてる。泣くときには力一杯泣く子だよ。――かなりのやんちゃ坊主になりそうだね」

「手を焼かされるかな?」

 と父親が苦笑いします。それでも、愛おしむ目で赤ん坊を見つめ続けています。

 そんな夫を見て、妻はほほえみました。少し考えてから、こんなことを話し出します。

「ねえ、ビョール。あたしがこの子につけたゼンって名前だけどね……遠い東にあるユラサイの国のことばで、良い子とか、善人とかいう意味があるんだよ。あたしのひいばあちゃんはユラサイの出身でね、あたしが小さかった頃に、そう教えてくれたのさ。意味もいいし、響きもいいことばだろう? だからね、あたしは自分の子どもが生まれて、それが男の子だったら、絶対にゼンって名前にしようと、ずっと決めていたんだ」

「善人か」

 と夫はまた苦笑しました。

「はたしてそんな奴に育つかな? 俺の子だから、あてにならないぞ」

「絶対なるさ。だって、それこそ、あたしとあんたの子なんだもの」

 と妻は自信を込めてきっぱり答えると、いっそう柔らかにほほえみながら、眠る赤ん坊を見つめました。静かな声でこう続けます。

「あたしは、あともう少ししかこの子のそばにいてあげられない……。あとは、あんたや他の人たちに、この子を任せていくしかないんだよ」

「サラ」

 と夫がとがめるような声を上げました。急に真顔になります。

 けれども、妻はかまわず話し続けていました。

「でもね、あたしは心配していないんだ。ひとりでこの子を育てなくちゃいけないあんたは大変だろうけど……でも、この子は名前の通りにいい子に育っていくから、きっと、たくさんの人がこの子を助けてくれるようになると思うんだよね。あたしはもうすぐいなくなる。でも、この子はきっと、みんなに守られながら、あたしの分まで元気に生きていってくれるのさ」

「サラ!」

 とまた夫は言いました。思わず妻の細い腕をつかみます。

 妻は、そんな夫ににっこり笑って見せました。屈託のない明るい笑顔です。けれども、その顔色は抜けるように白く、目の下には病を知らせる隈(くま)が暗く浮き上がっていました。

 

「そんな顔、しなさんなって」

 と妻は言いました。病気でやせ細ったはかない姿なのに、表情も口調も本当に明るくて陽気です。腕の中の赤ん坊をまた愛おしく見つめます。

 夫がうなるように言いました。

「やっぱり子どもを産むのはやめておけばよかったんだ。種族を越えて結婚したら子どもは作るな、とあれほど年寄りたちからも言われていたのに……」

 とたんに、妻は眉をつり上げました。鋭い声で言います。

「そんなのは迷信だよ! 関係あるもんかい!」

 とたんに、赤ん坊のゼンがまた目を覚まして、ふにゃぁぁ……と泣き声を立て始めました。それをなだめながら、妻は言い続けます。

「たとえ、百歩譲ってそれが本当だったとしてもね、あたしは絶対にこの子を産んだよ。だって、あたしは、あんたとの子どもがほしかったんだもの。どうしてもね」

 夫は困惑した顔になりました。もじゃもじゃの茶色いひげをかきむしって言います。

「まったくおまえは……本当に変な女だな。人間なのに人間の町を捨てて、俺の女房になりに押しかけてくるし……。俺はドワーフなんだぞ? なんでそんなにまでして――」

「あたしはあんたに惚れたんだよ、ビョール」

 と妻は夫が言い終わるより早く言い返しました。あんたに、という部分を強調しています。

「山の中に迷い込んで熊に襲われてたあたしを、あんたは助けてくれた。あんたはろくに口もきかなかったけど、でも、二日もかけて山の向こうのあたしの町まで送ってくれた。あんたの背中について行きながらね、あたしは、絶対にこの男と結婚しよう、って決めてたのさ。あんたはまだ独り身だって言っていたしね――。あんたがドワーフだって、あたしが人間だって、そんなのは全然関係ないよ。あたしは、あんたに惚れたんだ。惚れた男の子どもはさ、どうしたって、ほしいじゃないのさ」

 一気にそれだけを話しきると、妻はまた腕の中の赤ん坊をのぞき込みました。ねぇ、ゼン? と眠ってしまった赤ん坊にほほえみかけます。

 夫はベッドの上に身を乗り出すと、赤ん坊ごと妻の細い体を抱きました。何も言わずに、ただ抱きしめます。

 その強くたくましい腕の中で、妻はまた笑いました。

「ごめんね、ビョール。長く一緒にいてあげられなくて……。だけど、あたしは幸せだよ。こんないい子も生まれたしさ。あたしは、世界一幸せな女なんだよ」

 あんた、ゼンをよろしくね、と女は静かに言いました。男は妻と子どもを抱きしめながら、黙ってうなずき返しました。

 丸木小屋の部屋の中は静かになりました。暖かい光の中、ただ、暖炉の炎だけがパチパチと音を立てています……。

 

 「もういい、ポポロ」

 とゼンが静かに言いました。背が伸び、肩幅も背中も広くなった、もうすぐ十五歳の今のゼンです。目の前に映る昔の光景を眺めながら、かたわらの少女に言い続けます。

「もう充分だぜ……ありがとうな」

 ポポロはゼンを見上げました。少年は笑顔でした。その明るい瞳に涙が光っています。

 過去の場面が薄れて始めました。若い父親も母親も赤ん坊も、淡い光の中に見えなくなっていきます。その母親の顔を最後まで見つめながら、ゼンが、へっ、と照れたように笑いました。

「親父が言ってたとおりだ……母ちゃんは、あんまり美人じゃなかったな」

 少女から隠れるようにして、こっそり涙をこすります――。

 

 過去の場面が完全に消えました。目の前に大小の岩がごろごろと転がる荒野が現れます。足下を流れていた水銀のような川は、いつの間にかなくなっていました。

 ポポロが振り返ると、黒くそびえる黄泉の門も消えていました。ただ、乾ききった荒野が地平線まで広がっています。ゼンの母親を名乗った顔のない女も、黒い馬の怪物も、もうどこにも見えません。

「ナイトメアがいねえな」

 とゼンがあたりを見回しました。

「今度こそいなくなったか……?」

 ポポロは首をかしげました。いなくなったような気はします。けれども、今、ポポロは魔法使いの目が使えません。本当に悪夢の怪物が消えたのかどうか、確かめることはできませんでした。

 二人はしばらく待ちました。またどこからか悪夢がわき起こって広がるのでは、と用心していましたが、そんな気配もありませんでした。

 とうとうゼンは肩の力を抜きました。

「どうやら、今度こそ本当におっぱらったらしいな。……ポポロのおかげだぜ」

 と笑って見せます。ポポロは真っ赤になって首を振りました。

「う、ううん、あたしは何も……。ゼンのお母さんを覚えていたのは、ゼン自身なんだもの」

「それでもだ。助かったぜ」

 とゼンはもう一度ポポロに笑いかけ、今はもう岩と地面しか見えなくなった荒野へ目を向けました。そこに映っていた暖かい光景を思い出します。物心ついた頃からずっと、見たい見たいと願い続けてきた母親の顔です。絶対に忘れてしまわないようにと記憶に深く刻み込みます――。

 

 

 その時、真後ろで出しぬけに馬のいななきが上がりました。

 ブルルルル……ッと激しく鼻を鳴らす音が続きます。

 ぎょっと振り向いたゼンとポポロの目に飛び込んできたのは、すぐ後ろに立つ巨大な馬でした。漆黒のたてがみを振り立てる頭に目はありません。その鞍の上には、何十人もの人間の体をちぎってもう一度人の形により合わせたような怪物が乗っています。無数の目がぎょろぎょろと動いてにらみつけてきます。

「ナイトメア――!」

 とポポロは声を上げました。予想外の至近距離です。

 

 ゼンはとっさにショートソードを抜いて、背後にポポロをかばおうとしました。ところが、腰に剣がありません。さっき、顔のない女に剣を抜いた後、いつの間にかそれを取り落としていたのです。剣は地面に転がっていました。

「くそっ」

 ゼンがショートソードに飛びついたとたん、怪物が動きました。人のようなものがいきなり腕を伸ばしてポポロの小さな体をつかまえたのです。馬が駆け出します。

「ゼン――!!」

 悲鳴を上げながら連れ去られていくポポロを、ゼンは真っ青になって追いかけました。

「ポポロ!!」

 馬は蹄の音を響かせながら荒野を駆けていきます。と、その姿が忽然と消えました。ポポロもろとも姿が見えなくなってしまいます――。

 

 ゼンは息を切らしながら荒野の真ん中で立ち止まりました。乾いた土の上に続く蹄の跡は、そこで終わりを告げています。まるで、その場所で地中に潜ったか、空に飛び上がってしまったようです。

 ゼンは必死であたりを見回しました。ナイトメアもポポロも、本当に、どこにも見あたりません。ただ、岩だらけの荒野がどこまでも続いています。

「ポポロ! ポポローッ……!!」

 ゼンが必死に呼ぶ声が、乾いた大地に空しく響き渡りました。

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