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第7巻「黄泉の門の戦い」

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51.記憶

 ポポロは悲鳴を上げました。

 黒い門が音もなく開いていきます。死者の国へ続く黄泉の門です。ゼンはそれに気がつきません。命を返しておくれ、と泣いて迫る母親から後ずさるばかりです。自分から門に近づいていきます。

 すると、いきなりどっと風が吹き出しました。門が周囲の空気を霧ごと吸い込み始めたのです。みるみる霧が薄れて見晴らしがきくようになっていきます。

 そこは荒れ果てた大地でした。大小の岩がごろごろと転がり、乾いてひび割れた地面に、枯れた草が揺れています。遠くに細い木が何本か見えましたが、それもすっかり枯れてしまっているようでした。

 そして、ゼンと母親、そしてポポロの三人は、いつの間にか川の中に立っていました。黒い門の前に横たわる浅い川です。足下をしぶきを立てながら流れていくのに、何故か水面は水銀のようにとろりとしていて、少しも流れが見えません。

 ポポロはまた真っ青になりました。これはこの世とあの世を隔てる川です。この川を渡りきり、黄泉の門をくぐってしまったら、その人は死んでしまって、もう二度と生者の世界に戻ることができなくなるのです――。

 門はますます大きく開き、それにつれて風がどんどん強くなっていきました。乾いた地面で砂埃が起こり、ざあっと音を立てて門の中に吸い込まれていきます。ポポロやゼンが着ている服も、風に激しくはためきます。門が吸い込む力があまりに強くて、思わずよろめきそうになります――。

 

「ゼン!」

 とポポロは声を上げました。無我夢中で川の中を走ると、少年に飛びつき、腕を強く抱いて叫びます。

「だめよ、ゼン! よく見て! 黄泉の門に入っていっちゃうわ――!!」

 けれども、ゼンはポポロを見ませんでした。その目は近づいてくる顔のない女に釘付けになっています。悔しい、悲しい、と恨み言を繰り返す女です。ゼンに、私はおまえの母親だよ、おまえのせいで死んだのだよ、と言い続けています。

 ゼンは泣いていました。否定するように、何度も何度も頭を振っています。それでも、女を振り払えなくて、真っ青な顔のまま後ずさり続けています。

 と、その体がよろめきました。門の中に向かってひときわ強く吹いた風に、足下をすくわれそうになったのです。

 ゼン――! とポポロは強くしがみつきました。

 目の前にいるのは、絶対に本物のゼンの母親なんかではありません。ゼンのお母さんが、こんな恐ろしいことを言うはずがありません。これはゼンを黄泉の門の中に追い込もうとして、ナイトメアが見せている悪夢なのです。ポポロにはそれがわかるのに、ゼンは女の正体に気がつきません。本当に母親から責められているように感じて、泣きながら逃げ続けています。

 ナイトメアは巧妙で残酷です。その人が持つ記憶に、心の中の疑いや恐怖、悲しみや後悔といった負の感情を絡みつけて、その人が一番痛手を受ける悪夢を紡ぎ上げて見せます。自分の中にあるものだけに、その人自身には、振り払うことがとても難しいのです。

 ゼン……ゼン! とポポロは叫び続けました。しっかりして、目を覚まして! これは本物のお母さんじゃないわ! 偽物なのよ!

 けれども、やっぱりゼンは耳を貸しません。

 足下の川がどんどん浅くなってきました。川の岸が近づいてきたのです。川辺に立つ黄泉の門はもうすぐそこまで近づいています。

 

 ポポロは必死で考えました。どうしたらいいの? どうしたらゼンを助けられるの――? あまり一生懸命考えていて、泣くことさえ忘れてしまっていました。

 風の犬の戦いでポポロ自身がナイトメアの悪夢につかまったとき、ポポロを助けてくれたのは、父親がくれた魔法の杖のかけらでした。敵と戦って、三度の魔法を使い切ったとき、杖は砕けて粉々になりましたが、砂粒のようになったそのかけらがポポロの服にひっかかって、一緒に悪夢の世界の中までついてきたのです。

 杖は長い間ポポロの家の居間に隠されてきたもので、居間であった出来事は、何もかも全部見て覚えていました。杖が見せてくれたのは、ポポロを心配する家族たちの姿でした。魔力が強すぎて、コントロールが効かなくて暴走ばかりする小さな娘を、ポポロの両親はそれは心配していました。いつも厳しかった父親も、本当は、誰より娘のことを想って、心を鬼にして叱ってくれていたのです。泣き寝入りしたポポロを愛おしく見つめるお父さんと、それを涙ぐんで見守るお母さん、そして、いつでも姉のようにポポロを励ましてくれたルル――。そんなものを見たとき、ポポロは家族の愛情に気がつき、悪夢を振り払うことができたのでした。

 あの杖の砂のように、ゼンに本当のことを見せてくれるものはないのかしら、とポポロは考えました。本当のことを見ていたもの。本当のことを聞いていたもの。本当のことを覚えているものが何か――。

 けれども、ここは狭間の世界です。思い出の品など、何一つ手元にはありませんでした。

 彼らに向かって吹きつけてくる風がますます強くなってきました。ゼンは後ずさるのをやめません。黄泉の門にいっそう近づいてしまっているのです。ポポロは思わず泣き出しそうになりました。本当に、どうしたらいいのかわかりません。

 

 その時、突然ポポロはゴーリスの別荘に来た日のことを思い出しました。

 みんなで赤ちゃんのミーナに会った時のことです。泣き出してしまったミーナを、ジュリアは優しく腕に抱き、揺すぶってあやしながらゼンに言ったのです。

「あなたもこんなふうにお母さんに抱かれていたのよ。みんなそうなの」

 どうかな、とその時ゼンは答えました。母ちゃんは俺が生まれてすぐに死んじまったから、俺はなんにも覚えてないんだ、と。

 でも――ゼンは覚えていなくても、ゼンの体は覚えているかもしれない、とポポロは唐突に気がつきました。そうです、ジュリアも言っていました。お母さんは、赤ちゃんにとって、世界で一番最初に出会う人なのよね、と。

 ポポロは夢中でゼンの前に飛び出しました。すぐ後ろに、顔のない悪霊のような女が迫っていましたが、それを不気味に感じている余裕もありません。必死でゼンの体に抱きつくと、そのまま目を閉じて強く呼びかけました。

「お願い! ゼンの体が覚えている本当のゼンのお母さん! ゼンを助けるために出てきてください――!」

 

 すると、淡い光がゼンの全身からわきたちました。二人の子どもたちを守るように優しく包み込み、あたりに広がっていきます。

 光に打ち消されるように、顔のない女が消えていきます。

 そして、代わりに現れたのは、暖かい光があふれる部屋の風景でした――。

 

 そこは丸木作りの山小屋の中でした。暖炉が赤々と燃えていて、部屋中に暖かい光の輪を広げています。

 ばたん、と外の扉が閉まる音がして、部屋にひとりの男が入ってきました。茶色の髪とひげのドワーフ――ゼンの父親でした。全身雪まみれになっています。

 部屋のベッドに起き上がっていた女が、それを見て言いました。

「外は吹雪なの、ビョール? まるで雪だるまみたいだわねぇ。玄関で雪くらい落としておいでよ」

 黒い髪に黒い瞳の、背の高い女の人です。ドワーフではなく人間なのです。美人ではありませんが、屈託のない明るい顔をしています。ゼンの父親に雪だらけだと文句をつけながらも、楽しそうに笑っています。

 

 ポポロに抱きつかれていたゼンが、大きく目を見張りました。淡い光の中の部屋と、ベッドの上の女の人を見つめ続けます。まさか……とつぶやいたのを、ポポロは聞きました。

 

 ゼンの父親があわてて雪を払い落としながら答えました。

「おまえと赤ん坊が心配で、ぐずぐずなぞしていられなかった。気分はどうだ?」

 ぶっきらぼうな言い方ですが、その中に心配するような暖かい響きがあります。女の人はにっこり笑いました。

「今日は気分がいいよ。赤ん坊も元気いっぱいさ。この子、ものすごく食いしん坊だよ。あんまり一生懸命お乳を飲むもんだから、あたしのおっぱいがしぼんじゃいそうさ」

 そう言いながら、自分の隣へ手を伸ばします。とたんに、ふにゃあ、とネコの子のような泣き声が上がりました。抱き上げられたのは、まだ生まれて間もない赤ん坊でした。それを、待ちかねる男の腕に渡します。

 ゼンの父親は赤ん坊の顔をのぞき込みました。ふさふさした焦茶色の髪に明るい茶色の瞳をしています。丸々とした頬はバラ色です。太い腕で慎重にそれを抱えながら、父親は目を細めました。

「よしよし、いい子だ。元気でいたな、ゼン――」

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