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第7巻「黄泉の門の戦い」

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第13章 夢の中・2

50.顔のない女

 狭間の世界で、ゼンはナイトメアの悪夢を自力で追い払ってしまいました。大熊に瀕死の重傷を負わされた思い出も、人間の血が入っているために洞窟のドワーフたちからのけ者にされた記憶も、今はもうゼンの心を乱すことはできません。自信にあふれたたくましい姿で、ポポロの隣に立っています。

 いつの間にか、洞窟の地下の湖も、そこから上がってくる昔のフルートの姿も、薄れて見えなくなっていました。白い霧に閉ざされた世界だけが広がっています。その中に、黒馬に乗った人のようなナイトメアの姿も見えなくなっていました。

 すると、急にまたゼンの体が成長を始めました。背が高くなり、肩幅や背中が広くなり、服装も変わっていきます。背中に大きな弓と白い羽根の矢が入った矢筒が現れます――。

「やった! 元に戻れたぞ!」

 とゼンは歓声を上げ、今の時間に戻った自分の姿を見回しました。その声も、声変わりの始まった、太いしゃがれ声になっています。急に大人びて大きくなってしまったゼンを、ポポロは思わず顔を赤らめて見上げました。

 ゼンが笑って言いました。

「よぉし、それじゃここから抜け出そうぜ! こんな陰気な場所とはさっさとおさらばだ」

 と、今までナイトメアが立ち、過去の場面が映し出されていた空間に背を向けて歩き出します。ポポロがあわててそれについていきます――。

 

 すると、ふいに後ろから声が聞こえてきました。

「恨めしいこと……」

 か細い女の声でした。つぶやくような低い声なのに、はっきりと聞こえてきます。ゼンたちは、思わずぎくりとして振り返りました。

 白い霧の中に、ひとりの女がうずくまっていました。長い黒い髪をして、すすり泣くように両手で顔をおおっています。ゼンたちの知らない人物でした。

「誰だ!?」

 とゼンはどなり、腰からショートソードを抜きました。ポポロをかばうように前に出ます。

 女は顔をおおったまま、泣くような声で答えました。

「私がわからないかい、ゼン……? そうだね、おまえは薄情な子どもだから……」

 ゼンは眉をひそめました。いぶかしそうに女を見つめます。

「どういうことだ――? おまえ、誰だ?」

 けれども、女は何も答えず、ただ背中を震わせてすすり泣きました。波打つ長い黒髪が一緒に揺れています。

 ゼンはじれて、またどなりました。

「おい! おまえは誰だって聞いてんだぞ!?」

 すると、泣き声がぴたりと止まりました。女がうつむいたまま答えます。

「本当に、情けないこと。恨めしいこと……。こっちはおまえのために命を捨てたっていうのに、おまえは私のことなんか、これっぽっちも覚えてやしないんだから……。私はおまえの母親だよ、ゼン」

 なに!? とゼンは愕然としました。ポポロも驚いて女を見つめました。ゼンの母親はこの世にはもういません。ゼンを生んで間もなく、病気で死んでしまったのです。

 女は言い続けました。

「狭間の世界までおまえが来ているのは、死者の国にいてもわかったよ……。だからね、おまえに会いに出てきたのさ。会いたかったよ、ゼン……本当に大きくなったね……」

 おおった両手の中からゆっくりと顔を上げた女を見て、ゼンとポポロはまた驚きました。波打つ黒髪の女は、白い顔の中に、目も鼻も口も、何もなかったのです。のっぺりとした白い仮面のような顔を、どこから流れ出したのかわからない涙が濡らしています。

 ポポロは悲鳴を上げてゼンにしがみつきました。ゼンも青ざめて女を見ました。

「母ちゃん……? 嘘だろう。なんでそんな怪物みたいな格好をしてやがるんだよ……?」

 けれども、その声にいつもの勢いはありません。

 女が泣き笑いの声を立てました。

「しかたがないだろう。おまえは私の顔を覚えていないんだから。私はもう、魂だけの存在さ。おまえが覚えている姿でしか、現れることができないんだよ……」

 言いながら立ち上がってきます。ゼンよりずっと背が高い、人間の女でした。

 

 白い霧が彼らの間を流れていきました。ゼンとポポロは立ちすくんだまま声が出せません。

 すると、顔のない女が歩き出しました。両手を伸ばし、涙を流しながら、まっすぐゼンに向かって近づいてきます。

 ポポロがまた悲鳴を上げました。それを、ゼンが横へ突き飛ばし、抜いていたショートソードを構えました。

「来るな! それ以上近寄るんじゃねえ!」

 母親と名乗る女は、怪物か悪霊のようです。剣を前に突き出しながら、ゼンはどなり続けました。

「俺の母ちゃんが、おまえみたいな不気味なヤツのわけがねえ! おまえはナイトメアだろう!」

「そう思いたいなら、思っておいで」

 と女は答えました。ゼンの目の前に立って、何もない顔でじっとゼンを見下ろします。

「私は、私の命を奪っていった息子に会いに来ただけだからね――」

 ゼンは、何故だかぎくりとした顔になりました。口をつぐんだまま、何も言い返しません。

 ポポロは、はらはらしながらそれを見守っていました。怪物のような女は、どうしたってゼンのお母さんには見えません。それなのに、ゼンはすぐ目の前まで近づかせたまま、追い払おうとしないのです。

 女が言い続けました。

「ねえ、知っているかい、ゼン……? 種族の違う男と女はね、できるだけ結婚しちゃいけないんだよ。何故って、赤ん坊ができるとね、違った種族の血を引く子どもなものだから、胎内にいる間に母親を弱らせてしまうんだよ。私は、それまで病気ひとつしたことがないくらい丈夫だった。だけど、おまえを妊娠して産んだら、起き上がることもできないくらい弱ってしまったのさ。そうさ、私は病気で死んだんだよ。でもね、私を病気にして死なせたのは、ゼン、おまえなんだよ――」

 ゼンはやっぱり何も言いませんでした。顔が青ざめています。

 実は聞いたことがあったのです。異種族間で結婚して子どもができると、母親が弱って、時には死に至ることもあるのだと。そんなまさか、と思いたかったのですが、現に、海の民と森の民という異種族間で結婚したメールの母親も、病気になって死んでいます。まさか、そんな馬鹿な、と思いながらも、心の奥底ではずっと不安がぬぐいきれずにいたのでした……。

 

「悔しいねぇ……本当に悔しいねぇ。そうと知っていたら、私はおまえなんか産まなかったんだよ。私の命を子どもにやらなくちゃいけないだなんて、誰も教えてくれなかったからね。……もっと生きたかったんだよ。死にたいなんて、これっぽっちも思っていなかったのに……。私の命も、残りの人生も、全部おまえに持っていかれてしまったのさ、ゼン」

 そう言って、女は何もない顔にまた、さめざめと涙を流し始めました。

 ゼンは首を振りました。何か言いたいのに、何も言うことができません。胸の中は恐ろしさと悲しさでいっぱいです。私の命も人生も全部おまえに持って行かれてしまった、と言う母親の声が、頭の中でぐるぐる回っています。

 すると、母親がまた手を伸ばしてきました。

「返しておくれ、ゼン……私から取っていったものを、私に返しておくれ……」

 本当に何かを奪い返そうとするように、ゼンに迫ってきます。ゼンはまた首を振り、後ずさりました。何も言えません。本当に、声ひとつ出すことができません――。

 

 その時、ポポロは、はっとしました。

 母親に迫られて下がっていくゼンの後ろで、霧が急に薄れて、姿を現してきたものがあったのです。

 それは黒い大きな門でした。塀も壁も見えないのに、両開きの鉄格子の門が地面からそそり立っています。

 ポポロは真っ青になりました。間違いありません。黄泉の門が、ついに狭間の世界に姿を現したのです――。

 

 ポポロは必死で叫びました。

「だめ、ゼン! それ以上下がっちゃだめ! 黄泉の門に飲み込まれるわ!」

 けれども、その声はゼンには届きませんでした。ゼンはただ、自分の母親を見て、その声だけを聞いていました。女の泣き声は止むことなく言い続けています。

「悔しいこと……恨めしいこと……。おまえなんか、産むんじゃなかった。おまえなんか、生まれてこなければよかったのに……」

 ゼンは頭を振り続けました。ますます後ずさりながら、死にものぐるいで声を上げます。

「やめろ……やめろ、母ちゃん……!」

 大声でどなったつもりだったのに、出てきたのは、やっと聞こえる程度のかすれ声でした。涙があふれて止まりません。容赦なく迫り続ける母親から逃げるのに、後ろへ後ろへと下がり続けます。

 その背後で、黒い門が音もなく開き始めました――。

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