白い霧に閉ざされた世界の中を、十か十一くらいの姿になったゼンが、ナイトメアに向かって進んでいきます。
ゼンは毛皮の上着を着て、後ろに弓を入れた矢筒を背負っていました。エルフの弓よりもっと小さな木の弓です。腰には山刀を下げています。子どもでも、もう立派な猟師の格好でした。
その行く手でナイトメアの姿が溶けるように消え、また新しい場面が広がり始めました。
そこはまた、北の峰の洞窟の中でした。岩を削って作った通路を、ゼンは一人で下っていきます。長い階段を下りた先に、岩で作られた回廊があり、そのはるか下の方にドワーフの町が広がっていました。
ドワーフの町は山の地下にあります。固い岩盤のなかにできた大空洞を利用して、岩を削って家を建て、広場を作り、周囲には牧場や畑まで作っています。
大空洞の中央には、岩の天井を支えるように巨大な岩の柱がそそり立ち、そのてっぺんに近い場所で明るい光が輝いていました。まるで太陽のように見えますが、もちろん本物ではありません。力のルビーと太陽の石という二つの魔石を組み合わせて作った、人工の太陽なのです。そこから降りそそぐ日差しの中、牧場では牛や羊がのんびりと草を食べ、畑では緑の作物が育っています。ドワーフたちも、人間たちと同じように仕事をしたり、子どもならば学校に通ったりしています。
ドワーフの町の一番の産業は、地中の鉱物の採掘と、掘りだした貴金属の加工です。すばらしい武器や道具が、ドワーフの鍛冶屋や職人たちの手によって作り出されていきます。それは他の種族にはとても作り出せないような逸品で、遠い場所から人間たちがはるばる洞窟を訪ねてきては、ドワーフの作ったものを買い求めていきます。
おかげで、洞窟のドワーフたちは一歩も外にでることなく暮らすことができました。地下の自分たちの世界に満足して、地上を見ることもなく一生を終える者も大勢いますが、そんな生き方を疑問に思うことさえありません。洞窟の外に出て、北の山脈の森で獣を追い回す猟師たちは、洞窟のドワーフの中でも非常に特殊な存在でした。
ゼンが回廊から町に向かって、また長い階段を下りていると、下の方から中年の男が上がってくるのが見えました。赤いもじゃもじゃの髪とひげは、ドワーフ族ならではの特徴です。
男がゼンに気がつきました。階段の途中で足を止めます。ゼンは気にも止めずに下り続けました。階段は幅があったので、二人がすれ違うには何の問題もなかったからです。
すると、突然、ドワーフの男は鼻の頭にしわを寄せ、ものも言わずに背中を向けました。まるで、そばに寄るのも嫌なものに出くわしたように、たちまち階段を駆け下りてしまいます。
ゼンは思わず、むっとしましたが、実はそれもいつものことだったので、何も言わずに階段を下り続けました。
町に入ると、通りには大勢の人たちの姿がありました。ちょうどお茶の時間帯だったのです。ドワーフたちは、互いに近所の人たちを誘い合って、家の中や庭先、果ては通りに立ったままで賑やかにお茶を飲む習慣があります。鍛冶場や鉱物の採掘場でも、この時間になると、仕事の手を休めて職人たちはお茶を飲み、おしゃべりをします。洞窟のドワーフたちにとって、一日の中で一番楽しみな時間帯なのでした。
洞窟の中は暖かです。季節は冬に近づいていましたが、ドワーフたちは薄い布の服を着ていて、中には半袖姿でいる人たちもいます。毛皮の上着を着て弓矢を背負ったゼンの姿は、その中ではとても風変わりに見えます。ドワーフたちは皆、赤毛です。ゼンの黒っぽい茶色の髪が際だちます。
そんなゼンが歩いてくると、通りや家の門口でお茶を飲んでいた人たちが、急にしゃべるのをやめました。男も女も、それまで本当に賑やかに話をしていたのに、突然口を閉じてしまいます。そそくさと家の中に入ったり、ゼンから露骨に顔をそむける者も大勢いました。
ふん、とゼンは心の中でつぶやきました。いつものことです。町に戻ってくるたびに、いつも出くわす光景なのです――。
すると、どこからか声が聞こえてきました。
「タージめ」
ゼンは、声のした方をぎろりとにらみつけました。ドワーフたちは皆、視線をそらしています。誰が言ったのかわかりません。
ゼンは歯ぎしりをしました。握りしめた拳が震えます。それでもゼンは何も言わず、通りを歩いて、自分の家に入っていきました。
入口の扉を閉めたとたん、外の通りから、またいっせいに賑やかなしゃべり声が聞こえてきました。まるで、止まっていた時間が急にまた流れ出したようです。彼らが、異質な存在の少年を話題にして、あざ笑っているような気がして、ゼンはまた歯ぎしりをしました。
「俺は、ドワーフだ……!」
誰もいない家の中で、ゼンは吐き出すように強くつぶやきました。
薄れていく洞窟の中の光景を、ポポロは目を見張って眺め続けていました。
いつも元気で陽気なゼンです。母親が人間だっただけあって、あまりドワーフらしくも見えませんが、自分がドワーフであることにとても誇りを持っています。人間の血を引くことで、昔洞窟のドワーフたちから差別されていたことはポポロも聞いていましたが、それはこういうことだったのです。何だか、ポポロまでがひどく悲しい気持ちになって、涙ぐんでしまいます。
すると、薄れた光景の代わりに、新しい場面が現れました。それは森の中のようでした。目の前に切り立った岩壁があり、大きな鉄の扉がその真ん中で開いていました――。
扉はドワーフの洞窟へ続く入口でした。その前で、数人の男たちが話をしています。一人は赤い髪に髭のドワーフ、残りは背が高い人間たちです。人間は馬を連れていて、荷物を山のように積み込んだ荷馬車がそばにありました。
「いつもありがとう。恩に着るよ」
と人間の一人がドワーフに向かって言っていました。
「それじゃ、これが商品の代金だ。君たちはいつもまけてくれるから助かるよ。こっちも、最近本当に商売が厳しくてね。借金を抱えてきゅうきゅうしているんだよ。今回の仕入れでそれが返せれば、次にはこっちももっと奮発できるんだけどね」
「こっちにだって、最低価格というのがある。それを割り込むようなら商品は売らん」
と低い声でドワーフが答えました。人間から金の袋を受け取ると、即座に手の上に中身を広げ、金貨や銀貨の枚数を数えて言います。
「銀貨が二枚足りないぞ。ごまかす気か?」
「えぇ、足りなかったかい!?」
と人間の男は驚いたような声を上げ、しまった、という顔になりました。
「それで全財産なんだよ。ありったけだ。困ったな。商品を返そうにも、もうしっかり積み込んでしまったから、これをほどくのは大変だし……」
とおおいをかけ、縄で何重にも縛った荷車を見上げます。ドワーフは黙ったまま、じろりと疑わしげな目をしましたが、人間の男は気がつかないふりをしながら言い続けました。
「どうだろう、足りなかった分はこの次の買い付けの時に支払うということしてくれないか? きっと、今回の商品は高く売れるだろうし、色をつけて支払うから」
「いいだろう。忘れるなよ」
とドワーフは低い声で答え、金を袋に戻すと、そのまま洞窟の奥へ戻っていきました。分厚い鉄の扉が、ひとりでに動いて、ぴたりと閉じます。
ドワーフが姿を消すと、人間の男は態度を変えました。ふふん、と鼻で笑って肩をすくめます。
「ドワーフは馬鹿で単純だからな。ちょろいもんだ」
「今度の商品ももうかりそうだな」
と仲間の男が笑いながら話しかけます。
「ああ、エスタ国では今、内乱が起きそうな動きだからな。今回は武器や防具を多めに仕入れたから、首都のカルティーナに持っていけば、貴族たちが喜んで群がってくるだろう」
「北の峰のドワーフは世間知らずだ。自分たちの作ったものにどれくらいの値段がつくか全然知らないからな」
とまた別の男が笑います。どの男たちも、ドワーフを馬鹿にしています。
すると、洞窟の近くの大きな岩の上から声がしました。
「ったく。人間ってのはホントに汚いよなぁ」
そこには猟師姿のゼンが立っていました。腰に手を当てて、顔をしかめながら人間たちを見下ろしています。
「俺たちドワーフをだまして、かすめ取ることしか考えてないんだからな。どいつもこいつも、洞窟に買い付けに来る人間はみんなそうだ。いいかげんにしろってんだ」
男たちは、自分たちの会話が立ち聞きされていたことにぎょっとしましたが、それがまだ十になるかならないかの子どもなのを見ると、また余裕の表情に戻りました。
「なんだ、ドワーフの坊主。俺たちに何か用か?」
「用なんかないさ。ただ、人間はやっぱりくだらないって、改めて考えてるだけだ」
「ほう?」
男たちは笑ってゼンのことばを流すと、馬や荷馬車に乗って、そこから立ち去ろうとしました。ドワーフは怪力の民です。子どもといえども、その力は侮れないと知っていたので、いざこざを避けたのです。
ところが、いくら馬が踏ん張っても、荷車が動き出しませんでした。何度も鞭をくれると、やっと車輪が回って進み出しましたが、何メートルか行くと、また止まってしまいました。馬が荒い息をしています。
男たちは本気で弱ってあごひげをかきました。
「まいったな。ちょっと景気よく仕入れすぎたらしいぞ。重くて馬が運びきれなくなってる。どうするかな……」
探すように見回す目が、岩に立っているゼンの上で止まりました。
とたんに、男たちは猫なで声に変わりました。
「どうだい、ドワーフの坊や。俺たちと一緒に人間の町に来てみないか? 珍しいものがたくさん見られるぞ」
「そうそう、こんな山奥じゃとても買えないようなものも売ってるし、おいしいものだっていろいろある。楽しめること請け合いだ。一緒に来るなら案内してあげるよ」
もちろん、男たちの目的は荷車をゼンに押させることです。あれこれと甘いことばを並べ立てます。
ゼンは、ふん、と見下す目をしました。
「誰がそんな誘いに乗るか。おまえら、俺をこき使って、適当なところまで来たらおっぽり出すつもりでいるだろう。人間のやることなんて、いつだってそんなもんだ。俺たちドワーフを利用することしか考えてないんだからな」
岩から飛び下り、そのまま洞窟へ入っていこうとします。
すると、男の一人がゼンの腕をつかんで引き止めました。
「そんなことを言うなよ、坊や。本当に悪い話じゃないと思うぞ。――というより、悪い話にしない方がいいと思うがな」
ことばと一緒に鋭い刃がゼンの目の前に現れました。男が腰の剣を抜いて突きつけてきたのです。思わず目を見張るゼンに、男が笑いながら言いました。
「いい子だ。これがどういう意味かはわかるな? いくら力の強いドワーフでも、刃物相手には勝てないものなぁ。痛い思いをしたくなかったら、おとなしく荷車を後ろから押すんだ」
まわりの男たちも、にやにやしながらそれを見ていました。ドワーフの少年が青くなって自分から車を押し始めるのを待ちます。
ところが、ゼンはつまらなそうな顔になって言いました。
「ずるい商売をした後は子どもの誘拐か? ホント、人間ってのは救いようがない連中だよな」
言いながら目の前に突きつけられた剣の刃を両手で無造作につかみます。と、その刀身が、まるで飴細工の棒のようにぐにゃりと曲がってしまいました。ゼンがさほど力をこめたようにも見えなかったのに、です。
仰天している男を、ゼンは振り返りました。
「で? どうやって俺に痛い思いをさせるんだ?」
男は真っ青になりました。怪力の少年から、じりじりと後ずさっていきます。ゼンがそれを追うように、一歩前に出ました。
とたんに、別の男が剣を抜きました。ものも言わずにゼンの背後から切りつけてきます。
「ったく! ほんとに人間は卑怯だよな!」
ゼンは振り向きざま拳を突き出しました。振り下ろされてきた剣が、真ん中から真っ二つに折れます。さらにゼンは飛びだすと、他の男たちの腰の剣をつかんで、鞘ごと折り曲げてしまいました。男たちがどんなに力をこめて剣を抜こうとしても抜けません。
「まだやるか?」
とゼンが迫ると、男たちは飛び上がりました。荷車に取りつき、必死でそれを押しながら、全速力で逃げていきます。
「最初っからそうやりゃいいんだよ、ばぁか」
とゼンは鼻で笑いながら人間たちを見送りました。荷車の音が遠ざかっていきます……。
すると、どこからか声が聞こえました。
「でも、おまえはあの人間の仲間なんだよな。おまえの母親は人間だし、父親だって人間の血がいくらか混じっているんだから。あのくだらない人間が、おまえの正体なんだよ」
いつの間にか、一人の若いドワーフがそこに立っていました。冷ややかな目でゼンを見ています。
ゼンはじろりとにらみ返しました。
「俺はドワーフだ。血なんて関係あるか」
「だが、おまえは純粋なドワーフじゃない。証拠がその髪と目だ。そんな色をしているヤツはドワーフにはいないんだからな」
ゼンの髪の色は焦げ茶、瞳は明るい茶色です。けれども、それも赤毛に薄いトビ色の瞳のドワーフたちから見れば、確かにずっと黒っぽく見えるのでした。
ゼンは、かっと顔を赤くしました。
「見た目なんて関係ない! 俺はドワーフだ!」
「おまえはタージさ」
とドワーフがあざ笑いました。
「ドワーフでもなければ、人間でもない。おまえはどっちつかずの根無し草さ。粋がるな。本当は不安なんだろう? 本当は淋しくてたまらないんだろう? おまえみたいなヤツはどこにもいない。おまえは特殊なんだからな。世界の果てまで言ったって、やっぱりひとりぼっちの存在なんだよ」
ゼンはぎりぎりと歯ぎしりをしました。相手のことばをはねのけるようにどなり続けます。
「うるせえ! 俺はドワーフだ! 親父たちが言ってるぞ! 自分がドワーフだと思っているなら、誰がなんと言おうと、やっぱりドワーフなんだ、ってな!」
「ほほう」
ドワーフの若者はますます冷笑しました。いきなり近づいてくると、ゼンの体をつかまえました。顔に指を突きつけます。
「おまえがドワーフ! こんなに黒い髪で? こんなに黒っぽい目で? これでドワーフだと言い張るのか、え? しかも、おまえはドワーフにしては背が高すぎる。こんなおまえのどこがドワーフだと言うんだ?」
驚いたことに、ゼンは若者に抑え込まれたまま、身動きすることができませんでした。どんなに怪力で振りほどこうとしても、相手はびくともしないのです。
すると若者がまた笑いました。
「わかったか? これがドワーフの実力だよ。おまえには絶対真似できないのさ。だって、おまえはドワーフじゃないんだからな」
過去の思い出は、いつの間にかナイトメアの悪夢にすり替わっていました。悪夢は残酷に笑いながら、少年のゼンを捉え続けていました――。