ポポロは目の前のやりとりを、震えながら聞いていました。ゼンの父親が、ゼンはとんでもない乱暴者だから黒主に食われて殺された方がいい、と言っています。黒主というのが、今ゼンを襲っている大熊のことなのはわかりました。父親は、ゼンを殺すために、ゼンを大熊の獣道のそばに置き去りにしたのです。
そんな……とポポロは涙ぐみながら考えました。
ゼンの父親には、以前会ったことがあります。北の峰の猟師小屋を皆で訪ねたときです。あまりゼンには似ていない人で、もじゃもじゃの茶色いひげに茶色い髪の、なんだかとても怖そうな人でしたが、よく見ると、とても優しい目をしていました。おしゃべりなゼンと違って口数はあまり多くありませんでしたが、子どもたちに差し入れのウサギを持ってきてくれました。とても、こんな恐ろしいことを言うような人には見えなかったのです。
ナイトメアがねじ曲げているのかしら、とポポロは泣きながら考えました。いつだって、ナイトメアの見せる夢は途中までは本当のことなのです。それがいつの間にか歪められ、本当の意味とは違うところが強調されて、苦しい夢に変わっていくのです。
過去の夢の場面の中で、ゼンの父親は腕組みをして何も言いませんでした。ただなんの感情もない冷静な顔で、じっと山を見つめ続けています。
そして、その一方で、ゼンが大熊と格闘していました。そうです。わずか四、五歳の小さなゼンが、素手で怪物のような熊と戦っていたのです。
「ばぁろぉ! おまえなんかに食われてたまるか! おとといに来やがれ!」
襲いかかってきた熊の前足から素早く飛びのいて、ゼンがどなりました。本当に、口調は幼くても、言っていることは今とまったく変わりません。
熊が吠えました。もともと熊は獣道でいきなりゼンと出くわして興奮していましたが、それに加えて、ゼンが好戦的にきいきいとわめくので、すっかり逆上していました。小さなゼン目がけて、ものすごい勢いで突撃してきます。
「うわっ」
ゼンはかろうじてそれもかわすと、目の前の熊の背中に飛びつきました。怖いなどと言う気持ちはどこかに吹き飛んで、頭の中はただこの大熊をやっつけることでいっぱいです。後脚で立ってゼンを振り落とそうとする熊に、力一杯しがみつき続けます。
すると、大熊の黒主が突然背中をそばの立木にぶつけました。背中に貼り付くゼンを押しつぶそうと言うのです。
「わ、わ、っとぉ……!」
ゼンはまたきわどいところでそれを避けました。小さくとも、反射神経と運動能力は抜群です。
黒主がまた背中を木にぶつけようとします。ゼンは、かっと顔を赤くしました。
「何度も同じことやってんな! いいかげんにしろ!」
短い両足でがっちりと熊の背中にしがみつくと、両手で熊の頭の後ろにつかまり、短い黒い毛を両手でわしづかみにします。熊が吠えながら体を揺すって振り払おうとします。けれども、ゼンは逆にますます力をこめて頭をつかむと、ぐいぐいと後ろへ引き始めました。熊が苦しがってもがきますが、絶対に放しません。力任せに後ろへ引っ張り続けます。熊の顎がどんどん上がっていきます。
ポポロは信じられない思いで目の前の光景を眺め続けていました。小さな手、小さな体、短い手足のゼンです。とても熊に立ち向かうことなんてできそうにないのに、現に、こうして熊の頭を力ずくでねじ曲げていきます。すさまじい力です。
熊が悲鳴を上げました。口から泡を吹きながら、なんとかゼンを振り切ろうと猛烈に暴れます。何度も何度もあたりの木に体をたたきつけます。
と、その巨体が大きく傾ぎました。暴れた拍子に獣道を外れ、藪の中の斜面に足を踏み外したのです。ゼンをしがみつかせたまま、藪の枝葉を押しつぶし、斜面を転げ落ちていきます。十メートル以上も滑り落ち、斜面の下の茂みに地響きを立てて突っ込んで、やっと止まります。
それでも、ゼンは熊を放していませんでした。いっそう強く、首を後ろに引っ張ります。熊が苦しんで声を上げますが、まったく容赦しません。ついには、熊の頭が背中にくっつくほど引き寄せると、いきなり、首を横にねじりました。ぼきん、と太い枝を折るような嫌な音がして、大熊の絶叫が響き渡りました――。
ゼンはようやく熊から手を離しました。大きな頭が、だらりと下がります。ゼンは熊の首の骨を力任せにねじ切ってしまったのです。
「へへん、どうだ。まいったか」
ゼンが幼い声と顔で得意そうに言いました。大熊はもう、ぴくりとも動きません。ゼンは熊の上に立ち上がり、両手を天に突き出して歓声を上げました。
「やったぁ!! 勝ったぞ!!!」
けれども、勝負はまだ終わってはいませんでした。
ポポロは、はっと息を飲みました。骨をねじ切られたはずの熊の頭が動いたのです。血走った目が、ぎょろりとゼンを見上げます。
「危ない、ゼン――!!」
ゼンはポポロの声に気がつきません。はしゃいで歓声を上げ続けています。その胸元へ、突然、大熊がかみついてきました。最後の力と鋭い牙で、服ごとゼンの胸の肉を食いちぎっていきます――。
ポポロの悲鳴と、ゼンの悲鳴が重なりました。
ゼンが血を吹き出して熊の上から落ちていきます。その傷は体を深くえぐっています。大量の血があふれ出し、茂みの葉を赤く濡らしていきます。
ポポロは悲鳴を上げ続けました。それ以上、その光景を見ていられなくて目をおおってしまいます。怖くて全身が震えだし、涙があふれて止まらなくなります。
死んじゃう――ゼンが死んじゃう――助けなきゃ――! そう思うのに、恐ろしすぎて、本当に身動きひとつできません。
泣き続けるポポロの耳に、ゼンの父親の声が聞こえてきました。父親はゼンに話しかけているようでした。
「わかったか、ゼン。おまえは乱暴者すぎる。このままでは、おまえは必ず仲間を殺す。今のうちに安らかに死んでいけ。それがみんなのためだ」
父親の声は冷たいほどに静かです。
ポポロは泣きながら首を振りました。これはもう、本当のことではありません。ナイトメアが事実を歪めて作り出した悪夢です。ゼンを捉え、悪夢の迷宮へ連れ込み、その先にある黄泉の門へと案内しようとしているのです。
だめよ、ゼン! ナイトメアの言うことを聞いてはだめ! とポポロは泣きながら考えました。小さなゼンにそう言ってあげたいのに、怖くてやっぱり顔が上げられません。声がまったく出てきません。ポポロは激しく震えながら泣き続けました――。
すると、ポポロのすぐわきから、幼い声が言いました。
「おい、ナイトメア、違うだろ。俺の親父はそんなことは言わなかったはずだぞ。ちゃんと事実通りに再現して見せろよ」
ゼンの声です。ポポロはびっくりして顔を上げました。
立ちすくむポポロの隣にゼンがいました。やっぱり四、五歳くらいの幼い姿ですが、胸には熊にかまれた傷痕がありません。両手を腰に当て、冷めた顔つきで目の前の光景を見ています。
そこにはもう一人のゼンがいました。倒れている熊のわきに、血を流しながら転がっています。血にまみれた手を弱々しく伸ばして助けを求めています。
「いてぇよ……死んじゃうよ……だれか……助けて……」
けれども、静まりかえった山奥に、助け手などは現れません。やがて、血まみれの手が力なく落ちました。小さなゼンの体が動かなくなります――。
ポポロの隣に立つゼンがまた言いました。
「だから、事実と違うって言ってるだろうが。俺はこの時、死ななかった。親父の仲間の猟師たちが、ちゃんと見守っていたからな。すぐに駆けつけて、俺に応急処置をして、ドワーフの洞窟まで運んでくれたんだ。まあ、確かに生死の境を何日もさまよったけどな、結局、俺は助かって、この世に生き残ったんだよ。――そら、さっさと見せやがれ! ポポロが怖がってるじゃねえか!」
とたんに、目の前の光景が揺れて消えました。倒れた大熊も、血まみれのゼンも見えなくなっていきます。代わりに現れたのは、四方を岩で囲まれた小さな部屋と、床に敷かれたマットレス、そしてその上に寝かされたゼンと、かたわらに座りこんだゼンの父親の姿でした。ゼンはやっぱり幼い姿のままです。毛布が体の下半分に駆けられていて、その上からは、包帯でぐるぐる巻きにされた胸が見えていました。
ゼンが目を開けました。不思議そうな顔であたりを見回し、父親の顔を見上げます。
「父ちゃん……」
小さな声で呼びかけます。ゼンの父親は目を閉じていましたが、すぐに目を開けて息子を見つめ返しました。その顔が深い安堵の表情を浮かべたことに、ポポロは気がつきました。
「目が覚めたか」
とゼンの父親は言いました。ゼンはうなずきましたが、その拍子に体が少し揺れました。とたんに、ゼンは、いてぇっ! と悲鳴を上げました。思わず手を胸の包帯に当て、その動きにまた傷が痛んで悲鳴を上げます。
父親がゼンの手と体を押さえました。
「動くな。動くとまだ痛むぞ」
ゼンは激痛をこらえ、やっと痛みが通り過ぎると、泣き声を上げました。
「すっごくいてぇよ、父ちゃん……」
父親は答えました。
「当然だ。胸から腹にかけての肉を、ごっそり黒主に食いちぎられたんだからな。おまえは死にかけたんだ」
ゼンは何も言いませんでした。長い間、黙り込んでいて、やがて、また父親を見上げました。
「どうして――俺を置いてったんだよ、父ちゃん?」
不安そうな響きを宿した声でした。父親の意図がわからなくて、おびえた顔をしています。
父親は、小さな息子をじっと見つめました。静かな口調で、こう言います。
「黒主に殺されそうになって、どう思った?」
ゼンは目を丸くしました。とまどうように父親を見返します。
すると、父親は重ねて言いました。
「おまえは何日も黄泉の門の前庭をうろついていた。死にそうになって、どう感じた? こうして大怪我をして、どんなふうに感じている? 言ってみろ」
ゼンは、ますますとまどいました。なんと返事をしていいのかわからなくて、ただただ父親を見上げてしまいます。
すると、父親は言いました。
「おまえは喧嘩でブラグに大怪我をさせた。もう少しで殺すところだった。ブラグは今のおまえと同じ怖さや苦しさを味わったんだ。――いいか、よく覚えておけ。死ぬっていうのは、こういうことだ。怪我をするというのは、こんなにも苦しいことだ。殴った奴は痛みは感じない。だが、殴られた相手はものすごい痛みを感じている。殺す奴は怖さは感じない。だが、殺された方はすさまじい恐怖を感じる。――今のこの痛みや苦しさをつらいと思うなら、あんな真似は二度とするな。自分が持っている力の恐ろしさを、充分、自分の体にたたき込んでおけ。おまえのその力は、人を殺すためのものじゃない。それを、しっかり覚えておけ」
ゼンは父親を見上げ続けました。幼いゼンにも、父親が何を言っているのか、しみこむようにわかりました。
泣き出したゼンを見て、父親は繰り返しました。
「わかったな」
優しい声でした。
ゼンは黙って、後から後から大粒の涙を流しました――。
「俺が大熊と戦っている間、親父はずっと山のふもとにいたんだけどな」
と、ポポロの隣に立つゼンが言いました。泣いている自分とそれにかがみ込む父親の姿を見つめ続けています。
「俺が危なくなったら、親父の猟師仲間が助ける段取りになっていたんだ。ところが、俺が素手で大熊の首をへし折ったもんだから、猟師たちはみんな仰天したらしい。その一瞬の隙に、俺が熊にやられちまったのさ」
ポポロはゼンを見ました。いつもは見上げるゼンの顔が、今は自分の肩より低い場所にあります。ピンク色の頬をした、あどけない顔つきをしています。口調だけが今のゼンに戻っているのが、なんだかとても奇妙な感じでした。
すると、ゼンが急に苦笑いをしました。これも、幼い顔には不似合いな表情でした。
「親父は本当に厳しいんだよな。猟のしかたも、山の歩き方も、嵐や吹雪のやり過ごし方も、崖から落ちたときに助かる方法も――全部体で覚えさせられたんだぜ。ちょっとでも逆らえば、すぐにぶん殴られるしな。おかげで、俺は今でも親父に全然頭が上がんねえんだ」
「でも、優しいお父さんだわ」
とポポロは言いました。ちょっと考えてから、こう続けます。
「あたしのお父さんに、どこか似てるみたい」
「だな」
とゼンが笑いました。
「おまえも魔法が強すぎて、思い通りにならなくて苦労してたからな。おまえの親父さんも、おまえの将来をすごく心配してたんだよな。俺の親父と同じだ」
「うん。すごく厳しかったわ……。毎日毎日、魔法をコントロールする練習をさせられて、でも、なかなかうまく行かなくて、あたし、毎日泣いてたの……」
だから自分は父親に嫌われているんだとポポロは思いこんだのでした。家でも学校でも叱られ通しで、どこにも居場所がないような気がして、とうとう家出をしたのです。そうして、ポポロは迷子になり、白い石の丘のエルフに保護されて、やがて、丘を訪ねてきたフルートやゼンたちと巡り会いました。もう二年半も前のことになります。
「俺たち、そのへんが似てるんだよな。力が強すぎて、下手すりゃ、まわりの奴らに危険を及ぼしちまう。おまえが自分の力をもてあます気持ち、俺にはよくわかったんだぜ」
とゼンはポポロを見上げてまた笑いました。何故だか、それに今のゼンの笑顔が重なって見えて、ポポロは思わずどきりとしました。頬が赤くなります。
ゼンは話し続けました。
「だけどな、本当に俺たちが危なくなると、いつだっておまえはものすごい魔法を使うんだよな。思いっきりがいいって言うか、なんてえか、とにかく、こっちも見ていて胸がすっとするんだ。ホント、かっこいいと思うぜ。――力が強すぎてもよ、使い方さえ正しくすりゃ怖いもんじゃないんだよな。ちゃんとみんなの役にたつんだ」
ポポロはますます赤くなりました。ゼンのことばがすごく嬉しくて、でも、同時になんだかすごく恥ずかしい気持ちになって、声が出なくなってしまいます。ありがとう、と言おうとしましたが、唇が動いただけでした。
それを見て、ゼンも顔を赤くしました。照れたように頭をかき、急に自分の体を見回して、ちぇっと声を上げます。
「ったく。こんなガキの格好じゃ、こんな話をしても、しまらねえよなぁ」
と渋い顔をします。
ポポロは思わず笑ってしまいました。そして、ゼンってすごいわ、と考えました。ナイトメアが見せる悪夢を、自分の力で簡単に追い払ってしまったのです。
すると、急にゼンの体が大きくなり始めました。おっ、とゼンが声を上げます。みるみる背が伸びてきて、ぐっと大人びた顔つきに変わってきます。ゼンもポポロも、元の姿に戻るのかと一瞬期待しました。
ところが、ある程度大きくなったところで、成長がぴたりと止まってしまいました。ゼンの背丈はまだポポロより低いまま、顔や体つきも今よりずっと幼いままです。十か十一くらいの年頃に見えます。
ちぇ、とまたゼンが舌打ちしました。
「まだ何か見せようってのかよ。しつこいぞ、ナイトメア」
いつの間にか、怪我をしたゼンや父親の姿は消えていて、また悪夢の黒馬が姿を現していました。誘うように音もなく後ずさります。ふん、とゼンは鼻を鳴らしました。
「わかったよ。またぶっ飛ばしてやるから、そこで待ってろ」
とゼンは言うと、ナイトメアに向かって歩き出しました――。