この世と死者の国の間にある狭間の世界で、ゼンとポポロは迫ってくる蹄の音を聞いていました。
ポポロが焦って言います。
「ナイトメアよ! こっちに来るわ……!」
「ナイトメアだと?」
とゼンが驚きます。ナイトメアは悪夢の怪物です。風の犬の戦いの時にゼンも出会っています。
「魔王が送り込んできたのよ! ゼンを死者の国へ追い込むために!」
言いながらポポロはゼンをかばうように前に出ました。彼女はゼンを守るためにここに来たのです。
目の前の霧の中から黒い巨大な馬が姿を現しました。目のない闇の馬です。その鞍には、ばらばらにした人の体を集めてより合わせたような怪物が乗っています。人のような姿をしていますが、体中いたるところに目があって、ぎょろぎょろとあらゆる方向を眺めています。
ポポロは両手をかざし、呪文を唱えました。
「ロエキヨマウノムクーア!」
悪夢の怪物を消し去ろうとします――が、やはりポポロの魔法は発動しませんでした。指先に星のような緑の光が宿りません。
「エラーハオムクアヨリーカヒ!」
「レサリヨカナーノメユヨムクーア」
思いつく限りの呪文を唱えて怪物を追い払おうとしますが、どうしてもできません。悪夢の黒馬は彼らのすぐ目の前にそびえるように立ち続けています。ポポロの瞳が次第にうるみ始めました。涙がこみ上げてきて、今にもこぼれ落ちそうになります。
その時、ふいに呪文が響きました。
「ローエモーローエモレモトヨオノホ!」
とたんに、ごぉっと音を立てて炎がわき起こりました。黒馬の怪物が炎に包まれます。
「やったぜ、ポポロ!」
と後ろでゼンが叫びます。
ポポロは目をいっぱいに見開いて首を振りました。
「違う――違うわ。あたし、炎の魔法なんか使ってない――」
けれども、響いた呪文は確かにポポロの声でした。燃え上がる炎の中に怪物の姿が消えていきます。
すると、炎の中に別のものが見え始めました。三階建ての大きな建物が、激しく燃え上がっていました。窓からも屋根からも大きな炎が吹き出しています。
とたんに、ポポロは真っ青になりました。両手で口をおおい、鋭く叫びます。
「学校!!」
それはポポロが昔通っていた、天空の国の学校でした。ポポロはここで毎日魔法の勉強をしていたのです。フルートたちと出会う前のことです。
当時、ポポロはまだ一日に一度しか魔法が使えませんでした。強力すぎる自分の魔法をコントロールできなくて、授業で魔法を使うたびに大失敗しては、先生から叱られたり、同級生からあきれられたり笑われたりしていました。
――が、そんな人たちがいっせいに恐怖の目でポポロを見るようになったのが、目の前で起きているこの事件でした。そう、今の出来事ではないのです。
火の魔法を使う授業中に、ポポロは学校全体を火事にしてしまいました。ただランプに火をともすだけの練習だったのに、わき起こった猛火はあっという間に学校を火の海に変え、周囲の民家まで巻き込んでしまったのです。学校中の先生たちが魔法で必死に消火してくれたので死者こそ出ませんでしたが、学校や町を復旧させるのに、何十人もの貴族たちと専門の魔法使いたちの力が必要になりました。
「君のような恐ろしい魔法使いは学校に来てはいけない!」
と黒い服を着た先生がポポロに向かってどなりました。青ざめて金切り声になっています。
「君はいつか、必ず人を魔法で殺すだろう! 君の魔法は光ではなく闇の魔法だ! 今すぐ闇の国へ行きたまえ! 天空の国は君のいる場所ではない!」
ごめんなさい、ごめんなさい、とポポロは泣きながら謝りました。涙があふれて止まりません。顔をおおった両手の隙間から、涙がしたたって落ちます。けれども、他の人たちも口を揃えてどなります。
「闇の国へ行け! おまえは闇の魔法使いだ! それが嫌なら死んでしまえ! 黄泉の門をくぐってしまえ!」
ポポロはむせび泣き続けました。人々の声がどうしようもなく恐ろしくて、そのまま背中を向けて逃げ出しそうになります。
すると、それを後ろから引き止めた手がありました。大きな温かい手です。よく知っている声が話しかけてきます。
「ったく、おまえが巻き込まれてどうすんだよ、ポポロ。天空の国の連中があんなひどいことを言うもんか。これはナイトメアが作った悪夢だぞ」
とたんに、ポポロは我に返りました。泣き顔を上げたとたん、目の前から燃える学校も怒る人々も幻のように消えていきます。
「あ……」
まだ涙が止まらない目で、ポポロはあたりを見回しました。そこは白い霧の中です。ただ目の前に黒い馬の怪物が立ちはだかっています。
ゼンがポポロの肩をつかんでいました。苦笑いしながら話しかけます。
「ホントに、おまえらは夢に弱いよな。すぐに自分のことを思い出して巻き込まれるんだからよ」
ゼンが「おまえら」と言っているのは、実はポポロとメールのことでした。闇の声の戦いの時には、メールがルルの夢に巻き込まれて、自分自身のつらかった過去を思い出して泣いたのです――。
ゼンはナイトメアを見上げました。黒馬に乗った人のような怪物は、自分からは何も攻撃してきません。ただ、じっとそこにたたずんでいるだけです。そうしながら、人の心の奥底から記憶を引っ張り出し、それを悪夢に変えて目の前に展開してみせるのです。
「ホントに、ナイトメアとデビルドラゴンは似てるよな」
とゼンは怪物に向かって言いました。
「おまえらは人の心の弱みにつけ込むんだ。でもな、ちゃんとわかってるんだぜ。こっちがおまえらの見せるものに負けさえしなければ、おまえらには俺たちをどうすることもできないんだ。おまえらは実際の力は何も持ってないんだからな――。なら、話は簡単だ。おまえの見せる夢をぶっとばしてやるだけなんだよ」
いかにもゼンらしいことばを言って笑います。
ポポロは青ざめました。
「ナイトメアの悪夢は残酷よ! 嫌な思い出をたくさん引っ張り出してくるのよ――!」
「俺がそんなもんに負けるかよ。何を見せられたって跳ね飛ばしてやらぁ。そこで見てろ、ポポロ。あの馬野郎をここからたたき出してやる」
自信たっぷりにそう言いきると、ゼンはナイトメアに向かって歩き出しました。ポポロは震えながらそれを見送りました。何故だかまた涙がこぼれ出して、止めることができませんでした。
すると、ポポロの見ている前でゼンの姿が急に縮み始めました。ポポロより大きかった背丈がどんどん低くなり、体も小さくなっていきます。ゼンが命の次に大事にしているエルフの弓矢が見えなくなって、腰のショートソードや盾も消えていきます。ゼンが着ている服装が変わっていきます……。
ポポロは思わず声を上げました。
「ゼン――!」
ゼンも気がついて立ち止まり、自分の姿を見回して叫びました。
「なんだ、こりゃ!?」
振り返ってきたゼンは、小さな子どもになっていました。四つか五つくらいの、本当に幼い顔と体つきをしています。半袖のシャツに半ズボンをはき、短い袖なしの上着を着ています。
けれども、それは確かにゼンでした。幼いけれども、ふてぶてしいくらい強い顔をしています。明るい茶色の瞳も変わりません。
ポポロは呆気にとられて見つめてしまいました。ゼンも驚いていましたが、やがて、ふと自分のシャツの胸元を開くと、そこをのぞいて苦笑いしました。
「傷がねえ……やっぱり、あの時のことか」
そう言う声も本当に幼くなっていますが、口調は今のゼンのままです。
「今度ナイトメアに出くわしたら、きっとこいつを見せられると思ったんだよな」
と苦笑いしたままつぶやくと、ポポロに向かって肩をすくめて見せました。
「んじゃ、ちょっと行ってくらぁ。怖かったら目をつぶってろよ」
いかにもやんちゃそうな表情でそう言うと、小さな少年になったゼンはまた歩き出しました。まっすぐナイトメアに向かっていきます。悪夢の怪物はまったく動きません。
ゼンの行く手に、ポポロが見たことのない光景が広がり始めました――。