ハルマスのゴーリスの別荘の中庭に、また夕方が迫りつつありました。青かった空が少しずつくすんで、ほのかに赤みを帯び始めます。
庭の真ん中に立つ小さな建物は静かでした。中で二人の子どもたちが眠り続けています。闇の毒に倒れたゼンと、その夢の中に向かったポポロです。ポポロはベッドに眠るゼンの胸の上に、体を投げ出すようにして寄りかかっていました。二人とも身動きひとつせず、深く深く眠っているように見えます。
そのそばのベンチにメールが座っていました。足下にはルルがうずくまっています。二人とも何も言わずに、ただじっと、そこにいました――。
すると、ひっく、と急にしゃくり上げる音が響きました。小さなランプが作る薄明かりの中で、メールが声も上げずに泣いていました。
「どうしたのよ、メール?」
とルルは驚いて尋ねました。彼女がこんなふうに声を殺して泣いているところなど、初めて見たような気がします。
すると、メールは何も言わずに立ち上がり、頬を濡らしていた涙を乱暴にぬぐいながら建物の外に出ていきました。
「メール――!?」
ルルが後を追って出ていくと、扉のすぐわきにユギルとオリバンとジュリアがいました。オリバンはゴーリスの屋敷で一眠りして起き出してきたところで、そんなオリバンとユギルに、ジュリアが夕食を運んでいました。
メールが急に泣き顔で建物から出てきたので、大人たちは驚きました。メールのほうでも、一瞬ためらうように立ち止まりましたが、すぐに顔をそむけると、低い階段を下りて庭先へと出て行きました。やっぱり一言も口をきこうとしません。
ルルはメールを追いかけ続けました。
「どうしたのよ、急に。いったいどうしたって言うのよ」
オリバンもその後を追って、なにがあったのだ、と聞こうとしましたが、それをユギルが引き止めました。黙ったまま、首を振って見せます。代わりに少女たちの方へ向かったのはジュリアでした。
「どうしたの、メール? ……心配になってしまったの?」
ジュリアの声はいつでもゆったりと暖かく響きます。背中を向けているメールと、その足下でとまどっているルルを見比べながら話しかけ続けます。
「大丈夫よ。ゼンはとても強いでしょう? ポポロだって、見た目よりずっとしっかりしているわ。闇の怪物にだって、絶対に負けたりしませんよ」
見た目はとても優雅で優しげなのに、ジュリアのことばには力があります。少女たちを安心させるように言い切ります。
すると、メールが首を振りました。
「違う……違うんだ……」
「違う?」
とジュリアは聞き返しました。
メールはうつむき、細い肩と声を震わせました。
「あたい……あたい……嫌なんだよ……」
ジュリアはちょっと驚いた顔になりました。ルルも目を丸くします。けれども、メールはそれ以上何も言おうとしませんでした。ルルが心配して足下まで行くと、メールは歯を食いしばり、声を殺して泣き続けていました。こぼれる涙がルルの上にも降りかかってきます。
ジュリアは、そんなメールの後ろ姿をじっと見つめ、やがて静かに言いました。
「ゼンたちを見ているのがつらくなってしまったのね」
とたんに、緑の髪の少女はびくりとまた肩を震わせました。歯を食いしばったまま、うなずきます。
ルルは驚いてそれを見上げ続けていました。メールは、夢にとらわれているゼンとそれを助けに向かったポポロの姿を見るのが嫌だ、と言って泣いているのです。
ジュリアは、背の高い少女の肩をそっと後ろから抱きました。
「こっちへいらっしゃい、メール」
と庭の、建物から離れた場所へ連れて行きます。ルルがそれについていきました。
ユギルとオリバンは、建物の階段の下に立ってそれを見送りました。やがて、オリバンが、そうか……とつぶやきます。
「メールは、ゼンが好きだったのか」
ユギルは静かにほほえみました。
「ご存知ありませんでしたか?」
オリバンは肩をすくめ返しました。
「フルートの方を好きなのかと考えたことはあったが、ゼンはな……。仲が良いのはわかっていたが、その、なんというか……喧嘩友達の少年同士のように見えていたからな」
ユギルは、はっきりと笑顔になりました。体は大きくとも、皇太子はまだ十九です。まともに女性とつきあった経験もありません。微妙な女心までは、まだよく理解できないのでした。
「メール様はずっとゼン殿がお好きだったのですよ。最初に出会った、その時から。ただ、それを外に出さなかっただけなのです」
けれども、根が正直なメールです。好きの気持ちは裏返しの反発や強がりの形になって現れていました。大人たちの目から見れば、実に素直でわかりやすい恋だったのです。
オリバンは咲き乱れる花の中へ遠ざかる女性たちを見送っていました。その顔が、どこか拍子抜けしていることに気がついて、ユギルは、おや、と思いました。
「がっかりなさいましたか、殿下?」
と聞いてみると、オリバンはユギルを振り向きました。うろたえたような顔にたちまち赤みが差します。こちらもまた、大人の目には実にわかりやすい皇太子でした。
オリバンは渋い表情になって、生真面目に答えました。
「メールは海の王の跡継ぎだ。ロムドの王妃にはなれないだろう」
ユギルは思わず吹き出しそうになって、必死でそれをこらえました。そんなことをすぐに答えるからには、これまでに、メールを后にしたいと考えたことがあったということです。語るに落ちるとはこのことでした。
大人のようにたくましくなった顔に、まだ少年の表情を漂わせている皇太子を、ユギルは優しく見つめました。
「左様ですね……海の民は自然の民です。どんなに人間に似た姿をしていても、人間の中では暮らせません。まして、化け物のような貴族どもがひしめく王宮など、とても耐えられないことでしょう」
すると、オリバンが苦笑しました。
「言い聞かせてくれなくてもわかっている。ただ、ちょっと気に入っていただけだ。ああ見えて、けっこうかわいいところがある娘だったからな。ただそれだけだ」
その、ただそれだけが恋というものでしたが、ユギルはそれ以上は何も言いませんでした。オリバンはロムドの皇太子、次のロムド国王です。恋愛も結婚も、国という存在を抜きにして考えることはできない立場にあるのでした。
メールとジュリアとルルの姿が見えなくなっていました。花畑の中に座りこんだようです。そちらへ目を向けながらオリバンが言いました。
「メールは東の大海の王子と結婚すると言っていた。それはどうするつもりなのだろうな」
さて、とユギルは言いました。
「メール様のお心一つでございましょうね……。ゼン殿を忘れて結婚するか、やっぱりご自分に正直になるか」
「とても忘れられるようには見えないが」
とオリバンは腕組みしました。憮然とした声になっています。メールの心をあれほど捉えて泣かせているゼンに、気がつかないうちに嫉妬しているのです。ユギルはまた、そっとほほえみました。
「左様ですね。ですが、これはやっぱりわたくしたち男には口出しできないことでございましょう。同じ女性同士、ジュリア様にお任せいたしましょう」
オリバンは何も言わずに花畑を見つめ続けていました。その上で夕焼けが少しずつ濃くなっていきます。
ユギルは建物を振り返りました。そこで眠っている少年へ、そっと心で話しかけます。
早くお目覚めください、ゼン殿。姫様が泣いてお待ちになっていますよ――と。