ナイトメアは悪夢の怪物でした。
馬に乗った人のような形をしていますが、人の体をバラバラにして無秩序につなぎ合わせたような、見るもおぞましい姿をしています。
この怪物は人の夢の中に入りこみ、人に悪夢を見せます。人は夢に苦しめられ、時には、悪夢にとらわれたまま現実に戻ってこられなくなることさえあります。二年半前の風の犬の戦いの時、フルートとゼンとポチ、それにポポロの四人は、この怪物に襲われたのです。フルートにいたっては、その後の謎の海の戦いでも、再びナイトメアに取り憑かれてしまいました。
ゴーリスの別荘の中庭で、人々は立ちすくんでナイトメアを見上げていました。巨大なのに、まるで幻のように実在感のない馬と人です。揺らめきながら、ゼンが眠る建物へ向かおうとします。
「いけません! 奴の狙いはゼン殿です!」
とユギルが鋭く叫びました。その声にオリバンが我に返り、剣を振りかざしてナイトメアに切りかかっていきます。聖なる魔法を組み込んだ刃が、黒い怪物を切り裂きます。
が、何も起きませんでした。聖なる剣が闇の敵を消失させるときに聞こえる鈴のような音も響きません。剣がナイトメアの中をすり抜けてしまったのです。
驚くオリバンに、ユギルが言いました。
「ナイトメアとゼン殿の間に引き合う力が働いています! 進みを停めることができません!」
「何故だ!?」
それでも怪物に切りつけながら、オリバンがどなりました。やはり、なんの効果もありません。ポポロが震えながら答えました。
「あた……あたしたちが前に、ナイトメアに襲われてるからなの……。一度ナイトメアに入りこまれると、心の中に道が作られちゃうのよ。ナイトメアにまた入りこまれやすくなるの……」
風の犬の戦いの時の記憶がよみがえっていました。黒馬の怪物は人の心の奥底の記憶を使って、悪夢をつむぎだします。それはちょうどデビルドラゴンが見せる誘惑の夢によく似ています。自分自身の記憶や想いが夢になるだけに、人がそれに抵抗するのは非常に難しいのです。
悪夢にとらわれそうになったポポロを助けてくれたのは、ポポロの父親が与えてくれた魔法の杖でした。魔力が尽きて砂のように崩れた杖が、両親の愛情をポポロに伝えて、悪夢から守ってくれたのです。同じくナイトメアに襲われたフルートやゼンやポチも、それぞれに自分の力で悪夢を振り切って、現実に戻ってきました。けれども、それは誰にとっても決して楽な戦いではなかったのです。
「ナイトメアが小屋に入っていくわ!」
とルルが叫びました。メールが手をかざして呼びかけます。
「花たち!」
渦を巻いて守りの花が飛び立ちます。ところが、聖なる花が襲いかかっても、怪物を停めることはできません。花は黒い馬と騎士の中をすり抜けて地上に落ちてしまいます。
「ゼン!」
オリバンが怪物を追い越して建物の中に飛び込み、ゼンのベッドの前で剣を構えました。小屋の中に入りこんでくる巨大な怪物からゼンを守ろうとします。
ところが、黒馬はまったく停まろうとしませんでした。切りつけてくるオリバンの体を幻のように通り抜け、そのままゼンの元まで行き、音もなく消えてしまいました。馬の背に乗った人のような怪物も一緒です。
後を追って入口まで来たユギルと少女たちは、茫然と立ちすくみました。
そこへ、庭の片隅からノームのピランが駆けつけてきました。
「なんだ! 何が起きとる!? あの怪物はどこへ行ったんじゃ!?」
ユギルは青ざめながら答えました。
「悪夢の怪物はゼン殿の夢の中へ下りてまいりました。ゼン殿を死の国へ追いやろうとしているのでしょう……」
少女たちが悲鳴を上げました。オリバンも青くなって、横たわるゼンを見つめました。ゼンは死んだように眠り続けています。その奥の夢の世界でどんなことが起きているのか、外からは少しも知ることができません。
「ど――どうしたらいいのさ!? どうすればいいの!?」
とメールが言いました。泣き叫ぶような声です。ユギルは外へ引き返すと、椅子に飛び込み、即座に占盤に向かいました。黒い石の上に象徴と未来を読みとろうとします。
と、その顔がひどく難しい表情に変わりました。考え込むような目を、じっと占盤に注ぎます。
「なんと出たね!?」
とピランが尋ねました。オリバンや少女たちも近くに集まってきています。ユギルは低い声で答えました。
「夢の中で起きていることは、わたくしには追えません。それは現実のことではないからです。ナイトメアをゼン殿の中から追い出せれば良いのですが、弱り切っているゼン殿にそれができるかというと……」
言いかけてことばをにごします。占盤には、はっきりとそれは不可能だと出てしまっていたのです。
人々はどうしていいのかわからなくなって、立ちすくんでしまいました。夢の世界は他人の手の届かない場所、他人には行くことのできないところです。どうすることもできません。
すると、ふいにルルが声を上げました。
「天空王様! そうよ、天空王様にお願いすればいいのよ!」
と自分たちの王の名を言います。天空王は正義の王で、天空の民の中で最も力のある魔法使いです。確かに、天空王ならばゼンの中のナイトメアをつかまえ、その夢の中から追い出すことができそうでした。
ところが、ルルが天空王の名を呼ぼうとするより早く、ユギルが叫びました。
「なりません!!」
彼らがそれまで聞いたことがなかったほど鋭く激しい声でした。ルルは思わず声を飲み、他の者たちもびっくりしてユギルを見ました。
銀髪の占い師はまた静かな声に戻って、人々に言いました。
「天空の国の王を呼んではなりません。……今まで、かの方の存在を思い出さなかったのは幸いでした。ゼン殿を救うために天空の王の名を呼ぶと、そのとたんにゼン殿は死んでしまうのです。魔王の呪いです。今、ルル様が王の名を口にしただけで、そのことばが刃物のように結晶していくのが見えました。王を呼んだ瞬間に、その名は凶器となってゼン殿の命を絶ってしまいます。――絶対に、かの王の名を呼んではなりません」
一同はまた声を失って立ちつくしてしまいました。魔王の巧妙さに歯ぎしりする想いがしますが、どんなに悔しがっても、彼らにはどうすることもできないのでした。
「じゃ、どうしたらいいのさ――? このまま、あの黒馬がゼンを殺すのを見てろってのかい?」
とメールがうめくように言いました。その青い瞳には悔し涙が浮かんでいます。
すると、別の少女がそれに答えました。低い声ですが、きっぱりとした口調でこう言います。
「あたしが行くわ……。あたしが、ゼンの夢の中に行く」
一同は、驚いて少女を見ました。黒い衣を着た小さな少女は、青ざめた顔を上げ、緑の瞳に決意を浮かべてゼンのいる建物を振り返っていました。
とたんにルルが叫びました。
「無理よ、ポポロ! 他人の夢の中に下りていく魔法はやっちゃいけないのよ!!」
「そうなのか?」
とオリバンが聞き返します。ルルはうなずき、焦りながら話しました。
「禁忌中の禁忌の魔法よ。夢を見るのは人の心だから、そこへ行くには、やっぱり心だけで行くしかないの。でも、そうすると、心と心が入りまじって、想いも記憶も全部ごちゃ混ぜになってしまうから――もう二度と、それぞれの人には戻れなくなっちゃうのよ。以前、天空の国の魔法使いに、それを知らずにやってしまった人がいてね、気が狂ったあげくに死んでしまったのよ。夢に入っていった人も、入りこまれた人も、二人とも――。だめよ、ポポロ! 絶対にだめ!!」
「でも、あたいたち、ゼンやフルートたちの夢の中に行ったことがあるじゃないのさ。北の大地の戦いの時に。何度も行って、話だってしたはずだよ」
とメールが言います。ルルはさらに焦って、首を振りました。
「違う、違うのよ! あれとは全然違うのよ――! あれはね、私たちが見ている夢と、フルートたちが見ている夢を重ね合わせただけなの。一緒に同じ夢を見て、その中で話していたのよ。それも、彼らが私たちを心で呼んでくれたからできたことだわ。ポポロがやるって言ってるのは、ゼンの夢の中に直接下りていくことなの。それは絶対に無理なのよ。心が壊れてしまうわ――!」
「ううん、壊れないわ」
とポポロが静かに言いました。いつも泣き虫な少女です。大きな瞳は今にも泣き出しそうにうるんでいましたが、涙はこぼれていませんでした。
「あたし、天空の国の塔で修行をしてきたから……。あたしがやってきたのはね、自分自身の心と魔力を強めて、誰にも奪われないようにする修行なの。魔王がまたあたしの魔力を狙ってきても、もう絶対に渡してしまわないために。だから、誰かの夢の中に行っても平気……。ゼンの夢の中に行ったって、あたしはあたしのままでいられるのよ」
「でも、行ってどうするのよ!?」
ルルは心配のあまり今にも泣き出しそうになっていました。
「夢の中には魔法で行くことになるでしょう? それを持続させるのに、継続の魔法も使うことになるわ。ポポロ、あなたそれで、今日の魔法は全部使い切ってしまうのよ。魔法も使えないのに、行ってどうするのよ――?」
とうとう黒いひとみから涙がこぼれます。けれども、ポポロは考えを変えませんでした。
「ううん、それでも行かなくちゃ。ナイトメアを追い払うには、そうするしかないんだもの。あたしに何ができるかまだわからないけど――もしかしたら、夢の中でなら、あたしはもっと魔法が使えるかもしれないわ。だって、本当に夢なんだもの」
そう言って、黒衣の少女はにっこり笑いました。それを見たとたん、メールは昔フルートが言っていたことを思い出しました。
「ポポロは確かにすごい泣き虫だけどさ、何かを決心したときには、いつだって絶対に泣かないんだよ。泣かないで、代わりに笑ってみせるんだ――」
フルートのことば通り、ポポロは今、緑の瞳をうるませながらも、笑い顔でいました。その顔は強く静かな決心を浮かべていました。
オリバンはユギルを見ました。銀髪の青年が首を振り返します。
「夢の中の出来事は占盤には現れません。これがどのような結末になるのか、わたくしには占うことができないのです。ただ――」
未来を読む占い師は、色違いの目をじっと占盤に注ぎながら続けました。
「今、ここで何もしなければ、確実にゼン殿の命は奪われます。悪夢の怪物に死へ追い立てられるのです。それだけは、間違いありません」
占い師のことばは重く響きました。
赤いお下げ髪の少女は、また、にっこりと笑いました。仲間たちに向かって言います。
「行ってくるわ。ほんとに、どうすればいいのか今はまだわからないけど――でも、きっと、何かできることがあると思うから」
本当に、いつも泣いてばかりいる、自信のないポポロとは思えない強いことばでした。そのまま背を向けて、まっすぐゼンのいる建物に入っていこうとします。
すると、メールが呼び止めました。
「ちょっと待ちな、ポポロ――」
片手をさし上げると、その手の中に、花畑の中から一輪の花が飛んできました。意外なほど小さな守りの花です。花から茎の先まで合わせても、十センチあまりしかありません。それをポポロに手渡しながら、メールは言いました。
「この子、こんなに小さい花なのにさ、一緒に戦いたいって言って、デセラール山からついてきてくれたんだよ。これくらいなら連れていっても邪魔にならないだろ? これをあいつに渡してさ、言ってほしいんだ。――こんなところでくたばったりしたら絶対に承知しないよ! そんなことしたら、死者の国まで追っかけてって、思いっきりひっぱたいてやるから! ひっかいて、蹴りも入れてやるから! ってね」
伝言の部分を特に乱暴な口調で言って、メールは笑いました。泣くより悲しい笑顔が広がります。
ポポロは目を丸くしてメールを見ましたが、やがて、うん、と素直にうなずいて花を受け取りました。白い百合に似た花が淡い光を放ちます。
「じゃ、行ってくるわ……。建物に近づかないで、離れていてね。あたしの魔法に巻き込んじゃうかもしれないから」
そう言って、ポポロはまた一同に笑顔を向け、ゼンの眠る建物の中に入っていきました。皆が見守る中、やがて細い少女の声が呪文を唱えるのが聞こえ始めました。星のような緑の光が、建物の扉の隙間からもれて、消えていきます。
人々が建物に入っていくと、中はもう静まりかえっていました。
中央のベッドの上でゼンが寝ています。ポポロは、そのかたわらにベンチを寄せて座り、ゼンの胸の上に体を投げ出すようにして、動かなくなっていました。目を閉じた顔は、まるで眠ってしまったように安らかです。その華奢な手の中には、小さな守りの花が握られていました。
「ポポロ……」
とルルはつぶやくと、そっとまた涙をこぼしました。