「さてと、どうするかな、こりゃ」
とゼンはあぐらをかき、腕組みをして言いました。
それに答える声はありません。ゼンは一人きりです。白い柱のような岩の上にぽつんと座りこみ、まわりを見回しています。
そこは一面白い世界でした。ゼンが座っている岩も白い色ですが、白い霧のようなものがあたりに漂っていて、見通しがきかないのです。見上げても目にはいるのは白い空だけ。足下にはわずかに草の生えた地面が見えましたが、それも霧に白っぽくかすんでいます。見知らぬ場所です。
「問題は、なんで俺がこんな場所にいるか、ってことなんだよな」
とゼンは言い続けました。どこにいても黙ってなどいられないおしゃべりなゼンです。たとえ一人きりでも、自分を相手に話をしています。
「俺はゴーリスの別荘の庭でワジに刺された。こいつは覚えてる。フルートが走ってくるのが見えた。これも覚えてる。で、俺は気を失って――目が覚めたら、一人でこんな場所にいたわけだ」
とゼンはまた周囲を見回しました。あたりは一面白い霧に包まれています。見通しは全然きかないのに、何故だか妙にうつろな感じのする場所で、現実感がありません。
ゼンは思わず頭をかきました。渋い顔でつぶやきます。
「こりゃあ――死んだか、俺?」
ワジは恐ろしい毒虫です。一刺しされただけで命をなくしてしまいます。ゼンは自分を刺したワジを力任せに引きちぎりましたが、その時間だけでも、毒が回って死ぬには充分なように思えました。あのまま倒れて死者の国へ来たのだと思えば、話は合いますが……。
ゼンは自分の胸に手を当てました。心臓の鼓動が伝わってきます。自分の体の温かさも感じます。足をつねってみれば、ちゃんと痛みも感じるのです。どうも、死んでしまったという気がしません。
「うーん」
とゼンはまた頭をひねりました。そのまま、自分の胸の上に目を移します。そこには、フルートの金の石のペンダントがかけられていました。
「これだ。こいつのおかげで助かったのかもしれないんだけどな……」
相変わらず自分自身を話し相手に、ゼンは言い続けました。
「助かったにしちゃ、なんでこんなところにいるのかが、わかんねえんだよな。あいつもそばにいねえしよ。俺、いったいどこに来てるんだ? ここはどこなんだよ?」
けれども、いくら疑問に思っても、それに答えてくれる人はいません。
ゼンはまた考え込み、やがて、おもむろに金の石のペンダントを首から外そうとしました。ところが、ペンダントの先を手に取ることはできても、外すことができません。まるで体の一部になってしまったように、鎖が首から離れないのです。
ゼンは口をへの字にすると、手の上の金の石に呼びかけました。
「おい、精霊! 金の石の精霊! ちょっと出てこい!」
けれども、どんなに呼んでも石は静かに光り続けるだけで、まったく何の反応もありません。鮮やかな金色の少年も現れません。
「ちぇ、やっぱりフルートでないとダメなのかよ」
とゼンは舌打ちしました。
うつろな世界がゼンを取り囲んでいます。霧が音もなく流れていくだけで、風ひとつ吹いてきません。ひとりで話し続けるゼンの声が、どこまでも伝わっていって、やがて吸い込まれるように消えていくのが感じられます。本当に、意外なくらい広い世界なのです。
「もしかしたら、俺、死にかけてるのかもしれねえな」
とゼンはまたつぶやきました。ゼンにしては意外なくらい鋭い読みをしています。
「昔じいちゃんから聞いたことがあったもんな。生きている人間の世界と死んだヤツが行く世界の間には、狭間の世界ってのがあるんだ、って。そこを通って、黄泉の門をくぐったら、そいつは死んじまうんだ、って。ここはその狭間の世界なのかもしんねえな」
いくら見通しても、あたりに門のようなものは見あたりません。けれども、その霧の奥には、黄泉の国へ続く門が静かに隠されているのかもしれませんでした。
ゼンはますます難しい顔をしました。どう考えても嬉しい状況ではありません。なのに、ゼンにはどうしたらいいのか、さっぱり思いつかないのです。それに――
「だいたい、俺がこのペンダントを持ってるってことは、だ、あいつがこれを持ってないってことなんだよな。あいつ、金の石もなしにどうしているんだ?」
どうやら死にかけているらしい自分。その自分の首には癒しの石のペンダント。いろいろ考え合わせるほどに、どうも、フルートが自分のためにまた無茶をしているような気がしてなりません。
「ったく、あの馬鹿……大丈夫かよ?」
と自分より、親友のことの方を心配してしまいます。どうにも気持ちは焦るのに、本当に、この場所にいては何もわからないし、何もできないのです。ゼンは歯ぎしりをしました。
その時、ゼンはぴくりと反応しました。静かだった世界に、ざわざわとうごめくものの気配がわき起こっていました。
ゼンは顔をしかめました。
「また来やがったな、あいつら。性懲りもねえ」
立ち上がりながら、背中に背負っていたエルフの弓を下ろし、矢筒から白い矢を取ってつがえます。
狭間の世界で目覚めたとき、ゼンは何故かこれを持っていたのです。ショートソードと小さな盾もありました。青い胸当てだけは身につけていませんでしたが、愛用の武器があるのは、ありがたい限りでした。
ゼンが座っている岩のまわりに集まってくるものがありました。毒虫の大群です。、灰色っぽい長虫で、ワジのように派手は色合いはしていませんが、見るからに危なげなトゲで全身をおおわれています。石の柱の下に何十匹と寄ってきて、長いトゲをうごめかせながら、柱を上ってこようとします。
ゼンは矢を放ちました。白い矢が虫を串刺しにして、地面の上に留めつけます。虫が次々と柱を上り始めました。ゼンはエルフの弓で矢を放ち続けました。狭間の世界でも、魔法の矢は外すことなく敵を射抜いていきます。しかも、ゼンが背負っている矢筒は、中の矢がひとりでに増えて、いくら撃っても尽きることがないという魔法の道具です。たちまち毒虫は数えられるくらいにまで減っていきました。
と、霧の中で何か大きなものが動きました。
ゼンがはっとしたとたん、巨大な鞭のようなものが飛んできました。ゼンがいる岩を直撃します。
「ぅおっと」
ゼンは寸前で岩から飛び下り、二メートルほど下の地面に着地しました。振り向いた目の前に見上げるような毒虫がいました。全長が三メートル以上もある長虫で、たった今までゼンがいた岩にへばりついています。
「親分のおでましか? それとも、チビ虫のおふくろさんかよ。過保護だな」
ゼンは減らず口をたたきながらまた矢を放ちました。白い矢が何本も大きな虫の体に突き立ちます。ところが、毒虫はびくともしません。岩の柱から頭を上げ、ゼンに向かって飛びかかってこようとします。
ゼンは素早く飛びのき、弓を背に戻しました。――ゼンの弓には魔法の仕掛けがあります。弓の真ん中の留め具を引けば、一瞬で弓帯が伸びてきて、背中に留めつけることができるのです。逆に弓を外せば、そのとたんに弓帯は弓の中におさまっていって、まったく邪魔にならなくなります。
そうして、ゼンはショートソードを引き抜きました。襲いかかってくる大虫の頭に切りつけます。触角がちぎれて飛び、虫が頭を振って怒ります。
へっ、とゼンは笑いました。
「こちとらドワーフの洞窟でグラージゾを退治したことがあるんだぞ。おまえみたいな貧弱な虫にやられてたまるか」
そのことばがわかったように、大虫が頭を上げて怒りました。鳴き声とも、気門から吹き出す呼吸音ともつかない音を立てると、ぶるっと体を震わせます。とたんに、全身をおおっていた鋭いトゲがいっせいに体を離れ、四方八方に飛びました。近くにいた数匹の毒虫を串刺しにし、ゼンにも飛んできます。
ゼンはまた身をかわし、剣でトゲをたたき落としました。とげに刺された毒虫が、白い煙を立てながら溶けていくのを見て、顔をしかめます。
「ったく。同士討ちかよ。しょうがねえなぁ」
そこへまた飛んできた毒のトゲの第二波をかわします。
大虫の体には、撃ち出しても撃ち出しても、また新たなトゲが生えてきていました。見ている前で、体の中から長いトゲが伸びてくるのです。ちっ、とゼンは舌打ちしました。
「こんなヤツ、まともに相手にしてられるか」
と言うなり、ショートソードも鞘に戻して、岩の柱へ駆け寄っていきます。
大虫は枝につかまったイモムシのように岩の柱にへばりついたままでいます。その柱の根元へ、ゼンは力任せに拳をたたきつけました。
すると、見る間に岩にひびが走りました。先に大虫が頭をたたきつけたときに、すでに細いひびは入っていたのですが、それがたちまち大きくなり、地響きを立てて岩が崩れ出します。しがみついたまま倒れていった大虫の上に、大小の岩ががらがらと降っていきます。
煙のようにわき起こった砂埃がおさまった時、大虫は崩れた岩の下敷きになって動かなくなっていました。
「へっ、ざまあみろ」
ゼンは、にやりとしました。
すると、その時、いきなり胸の上で金の石が輝きました。澄んだ光でゼンの周囲を照らします。
とたんに、足下で何かがまた蒸発するように溶けていきました。小さな毒虫です。生き残りが、いつの間にかゼンのすぐ近くまで迫っていたのでした。
おっと危ねえ、とゼンはつぶやき、ペンダントを見ました。石はまた光を収め、静かな金色に光るだけになっています。
「ありがとよ、金の石」
とゼンは礼を言いましたが、やっぱりその中から石の精霊は姿を現しませんでした。
ふう、とゼンは思わず溜息をつきました。うつろな世界に一人きりでいる自分を痛感してしまいます。
ゼンは声を上げました。
「えぇい、出口はどこだ、出口は!? 絶対に、ここから抜け出して帰ってやる!!」
声は霧の中に吸い込まれてしまいます。
ゼンは拳を握ると、白い世界の中を駆け出していきました――。