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第7巻「黄泉の門の戦い」

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29.墜落

 ユラサイの竜にポチの背中から振り落とされて、フルートは地上数千メートルの場所を落ち続けていました。激しい風が顔や体を打ち、マントを狂ったようにはためかせます。通常なら息が詰まって気を失うような落下です。

 けれども、フルートは風の魔法を組み込んだ鎧に守られていました。全身を打つ激しい風も、体に当たるときには、ぐっと弱められています。地上は目もくらむほどはるか彼方でしたが、それでもフルートは目を開けて、じっと見つめ続けていました。

 すると、その視界に白い風の犬が飛び込んできました。下から駆け上がってきて、フルートの小柄な体を背中に拾います。すくい上げるような動きに、ふわりと体が軟着陸します。

「ポチ」

 フルートは手を回してポチの風の体を抱きしめました。

「ありがとう。ちゃんと来てくれると思ったよ」

「フルート」

 ポチがほっとしたように頭をすり寄せました。その首には、銀糸を編みあげたような風の首輪が光っています。緑の石がその上できらめきます。この首輪の力でポチは風の犬に変身することができるのです。

 ポチはあたりを見回して方角を確かめると、また上昇を始めました。

「さあ、また偏西風に乗りますよ。今のでちょっと遅れちゃったから、急がなくちゃ」

 フルートは落下している間も手放さなかった炎の剣を、鞘に収めました。ポチの背中に座り直すと、改めて行く手を見ます。雲一つない空の下に、乾いた大地が広がっています。岩だらけの場所で、なにやら奇妙な形の岩も多数見えています。その向こうは、本当の砂漠でした。ただ、薄黄色に乾いた土地が、なだらかな丘や谷を作りながら、地平線までずっと続いています。

 すると、ポチがまた話しかけてきました。

「ワン、フルートはまた寝ていていいですよ。後は風に乗って東に向かうだけだから。距離はよくわからないけど、たぶん、明日の朝くらいには、目的地が見えてくるんじゃないかと思います」

「まずは食え、そして寝ろ、か」

 とフルートはドワーフの格言を口にして、ちょっと笑いました。いつもそう言って頼もしく生きていた親友を思い出します。その友人の命を救うために、フルートたちは今、東に向かっているのです。

 横目で振り返ってきたポチに、フルートは笑顔で言いました。

「わかった、寝させてもらうよ。ポチも、偏西風に乗ったら休むんだよ。明日はきっと激しい一日になるから」

 ポチも笑うような顔でうなずきました。

「ワン、任せてください。絶対に魔王を倒してゼンを助けてみせますから」

 上空に向かって飛びながら、自信たっぷりに言い切ります。フルートは頼りになる弟分の犬の首を、また後ろから抱きしめました。

 

 その時、どこからともなく声が響いてきました。

「まあ、生意気なチビ犬ね。二度とそんなことを言えなくしてあげることよ」

 まだ若い女性の声です。ねっとりと絡みつくような響きの中に、驚くほど冷たく残酷なものを感じさせます。

 フルートとポチは、ぎょっとしてあたりを見回しました。どこにも誰の姿も見あたりません。雲一つない空だけが広がっています。

 けれども、フルートたちは緊張して身構え続けました。以前に聞いたことのある声だったのです。夜の魔女レィミ・ノワールに間違いありません。

「どこだ! どこにいる!?」

 とフルートはどなりました。その手はすでに炎の剣の柄を握っています。ポチも、いつでもどこへでも飛んでいけるようにと身構えます。

 すると、魔女は声だけで答えました。

「あなたたちが向かっているところよ、おチビの勇者たち。シェンラン山脈の最高峰。あたくしは、そこで待っていることよ」

 からかうような笑い声が響き渡ります。

 フルートは剣に手をかけたまま身構え続けました。わざわざ自分の居場所をぼくたちに教えるのは何故だろう、と考えます。

「ワン、出てこい、魔女! ここで勝負をつけてやる!」

 とポチが空へ向かって言いました。魔女が姿を現したら、本当に即座に飛びかかるつもりでいました。

 すると、また魔女の声が笑いました。

「あたくしはシェンラン山脈にいるって言っているでしょう。わからないワンちゃんだこと。たどり着けるものなら、たどり着いてみせなさいって言っているのよ、あたくしは――」

 

 とたんに、ポチの体がぐん、と下がりました。フルートを乗せたまま、いきなり何十メートルも降下してしまったのです。ポチは仰天しました。何が起きたのかわかりません。フルートも驚きます。

 すると、またポチが下がりました。今度は一気に数百メートルも落ちていきます。フルートはとっさにポチの首にしがみつきました。ポチが焦った声で叫びます。

「ワン、飛べない!? 落ちていきます――!」

 必死で浮き上がろうとするのに、ポチの風の体はどんどん下に落ちてしまいます。飛ぶことがまったくできません。まるで小石のように空から落ちるだけです。

「ポチ! ポチ、がんばれ――!」

 フルートが必死で叫んでいました。風圧で吹き飛ばされないように、ポチにしがみつき続けています。

 ポチは死にものぐるいで浮き上がろうとしました。風の体が、嘘のように重たく感じられます。吸い込まれるように、どんどん地上に向かって落ちていきます。

 

 すると、ふいにポチの体がまた、ふわりと浮きました。わずかですが、コントロール力が戻ったのです。

 ただ、それは空にまた舞い上がるほどの力ではありませんでした。自分たちは相変わらず空から落ち続けています。その勢いをほんの少しゆるめる程度の飛翔だったのです。

 ポチは叫びました。

「ワン、このままじゃ、まともに墜落します! そしたら、いくらフルートでも助からない! できるだけ衝撃が少ないように落ちますから――しっかりつかまっててください――!」

 最後の方はもう、悲鳴のようでした。

 フルートはぎゅっとポチの首にしがみつきました。そうしながら、できるだけ全身でポチを抱きしめようとします。完全に風の犬の力をなくしたとき、ポチは小さな子犬の姿に戻ってしまいます。その時、即座に抱きかかえて、墜落の衝撃から守ってやろうとしたのです。

 風の犬と少年は落ち続けます。犬は必死で飛ぼうとし続けます。垂直の落下コースを、少しでも斜めにして、地上に軟着陸しようと試みます。

 そんな彼らのすぐ下に、岩だらけの大地が迫ってきました。大きな岩がまるで建造物のようにそそり立っています。

 その間にポチは落ちました。風の体が岩の上を滑り、壁のような岩に激突して止まります。その弾みでフルートの小柄な体が投げ出されます。

 魔法の鎧は強い衝撃からフルートを守ります。けれども、さすがに地上数千メートルから墜落して、何事もないというわけにはいきませんでした。フルートは岩の上に激しくたたきつけられると、そのまま気を失ってしまいました――。

 

 フルートが再び正気に返った時、あたりにはすでに夕暮れの気配が漂っていました。空が夕映えに赤く染まり始め、その色を映して、あたり一面が赤みを帯びています。

 フルートはゆっくりと体を起こしていきました。そうしながら、自分の体の状態を確かめてみます。――かなり激しくたたきつけられたはずなのに、体はどこもなんでもありません。かすかな痛み一つ残っていません。荷物や武器も確認しますが、落ちる途中でなくなったものは何もありませんでした。

 フルートは、ふう、と大きく息をしました。ノームのピランが鎧の防御力を引き上げてくれたばかりですが、さっそくそれが役に立ったのです。

 けれども、次の瞬間、フルートは跳ね起きました。真っ青になってあたりを見回します。ポチがどこにもいないのです。

 フルートはポチが激突した岩の壁へ走っていきました。岩には激しくこすれたような跡が残っていましたが、風の犬も白い子犬も姿が見えません。

 フルートは声を上げて呼びました。

「ポチ! ポチ、どこだい――!?」

 返事がありません。

 フルートは焦りました。ポチが勝手に一人でどこかへ行ってしまうというのは、まず考えられません。大怪我をして返事もできずにいるのかもしれません。

 フルートはあたりを走り回って探しました。岩はどれも見上げるように大きく、岩と岩の間に自然の回廊やアーチを作っていて、まるで宮殿の中にいるようです。けれども、ポチは岩の宮殿のどこにもいませんでした。フルートの心臓がどうしようもなく早鳴ってきました。日中見た夢が、ゼンではなく、ポチで実現してしまったような気がして、死にものぐるいで呼び続けます。

「ポチ!! ポチ!! ポチ――!!!」

 

 その時、近くで、からり、と小石が転がる音がしました。大きな岩の柱の陰で何かが動きます。

「ポチ!」

 フルートは歓声を上げて石柱の陰に駆け込み――そのまま目を丸くして立ちつくしてしまいました。

 そこにいたのは子犬ではなく、一人の少年でした。何故か裸で、岩の柱の陰に座りこみ、おびえたように体を丸めて震えています。

 フルートは驚いて少年を見つめてしまいました。フルートよりは幼く見えます。本当に下着一枚身につけていません。自分で抱きかかえた体は、肌が抜けるように白く、肩まである髪も何故か雪のように白い色をしています。賢そうな顔つきですが、今はそれも泣き出しそうな表情をしていて、本当におびえきった様子でフルートを見上げていました。

 フルートは呆気にとられながら話しかけました。

「君、誰だい?」

 少年は返事をしません。ただいっそう体を小さく丸めて、首を振りました。黒い大きな瞳が、今にも泣き出しそうにうるみます。

 と、少年の唇が動きました。白い顔の中、鮮やかに紅い唇です。かすかな声でこう言います。

「……フルート」

 フルートはまた目を丸くしました。いぶかしそうに少年をのぞき込みます。

「どうしてぼくの名前を知っているの? 君はいったい――」

 その時、少年の首筋がフルートの目に入りました。細い白い首には、銀糸を編んだような細い輪が巻かれていました。輪の上で綺麗な緑色の石がきらめいています。風の首輪です。

 

 フルートは、はっとしました。まさかと思うより先に、叫んでしまいます。

「ポチ! ポチなの!?」

 白い髪の少年は、岩の柱と壁が作る狭い隙間で裸の体を丸めながら、小さくうなずき返しました――。

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