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第7巻「黄泉の門の戦い」

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27.ポチ

 フルートは風の犬のポチの背中で跳ね起きました。

 とたんに目眩がして倒れそうになります。フルートはポチの背中にしがみついてあえぎました。胸が苦しくて、頭は割れるように痛んでいます。

 ポチが驚いて声をかけてきました。

「ワン、フルート、どうしたんですか?」

 ポチは相変わらず偏西風に乗って東へ飛び続けています。周囲ではごうごうと風が鳴り続けています。

 フルートは激しくあえぎながら答えました。

「……息が苦しい……胸と頭が、すごく痛むんだ……」

 いくら大きく息をしても、少しも呼吸が楽になりません。ますます苦しくなるばかりです。

 ポチが、はっとしました。

「ワン、高く飛びすぎたんだ! ここは空気が薄いから――!」

 西風の中、大あわてで高度を下げ始めます。

 空の高い場所は気圧が低く、その分空気も薄くなっています。空気中の酸素の濃度も下がってしまうので、フルートは酸欠を起こしていたのでした。

 実際には、高度一万メートルなどという場所には普通の人間は行くことができません。薄すぎる空気に、すぐに呼吸困難におちいるからです。フルートは風の魔法を組み込んだ鎧を着ています。それがある程度守ってくれていたのですが、それでも、絶対的な酸素不足はどうすることもできなかったのでした。

 高度を下げると、すぐ下に雲の海が迫ってきました。フルートは感じませんが、気温も上がってきます。偏西風の速度がぐんと落ちます。

 風の中を漂うように流れながら、ポチは心配そうにフルートを見守りました。フルートはポチの背中にしがみついたままです。

 やがてフルートはゆっくりと顔を上げました。ポチの大きな頭にもたれるようにしながら、深い息をします。

「もう大丈夫……呼吸が楽になってきた……」

 ポチは、ほっとすると同時に、とても申し訳ない気持ちになりました。

「すみません、フルート。ぼく気がつかなくて」

 ううん、とフルートは首を振りました。頭痛もおさまってきていました。

「ぼくも気がつかなかったんだ。こんな高い場所なんて飛んだことがなかったし……飛んでも、いつもは金の石があったからね」

 金の石は守りの石です。条件の悪い場所を行くときには、いつもフルートを守ってくれたのです。今、その金の石はゼンが身につけています。闇の毒から懸命にゼンを守ってくれているはずです。

 現実に苦しかったから、あんな夢を見たんだな……とフルートは心の中で考えました。よみがえってきた森と墓碑の場面を、あわてて頭の中から追い払います。

「ワン、このまま低めの場所を飛んでいきますね」

 とポチが言いました。風の速度はどうしても落ちてしまうのですが、どうしようもありませんでした。

 

 彼らの下には雲の海が続いていました。時折、切れ間から地上の様子がのぞきます。空から見た景色で場所がわかるほど、フルートたちは地理に詳しくはありません。ただ、地上が黒っぽい山がちの風景になっているのを見て、エスタ王国は抜けたのかもしれない、と思いました。エスタには山地は少なく、国土の大部分は緑豊かな耕地や森が広がる平原になっているのです。

 太陽は頭上近くまで差しかかっていました。それを見上げて、ポチが言いました。

「ワン、降りて食事にしましょうか。もうお昼ですよ」

 フルートは相変わらずまったく食欲がなかったし、一刻も早くシェンラン山脈まで到着したかったのですが、飲み食いせずに飛び続けているポチを考えて同意しました。ポチはまっすぐ降下して、黒い山の間の草地に着陸しました。森の深いところにぽっかり開けた場所で、近くに人の気配はありませんでした。

 フルートは草の上に座ってパンと薫製肉を切り分けました。器に水筒から水を注いで、その中にパンと肉を浸します。子犬の姿に戻ったポチが、嬉しそうにそれを食べ始めます。

 フルートは自分の分のパンと肉を切ると、機械的にかみ砕き、水筒の水で流し込んでいきました。頭の中は先を急ぐ気持ちでいっぱいで、味わう余裕などなかったのです。忘れよう、頭から追い払おうと思うのに、どうしてもさっき見た夢を思い出してしまいます。ゼンが黒い門をくぐっていった場面が浮かんできて、つい身震いしてしまいます。

「フルート?」

 とポチが尋ねてきました。また、フルートからはっきりと感情の匂いが伝わってきたからです。それは不安と恐れの匂いでした。

 フルートは草の中で膝を抱えました。――秋の終わりだというのに、この場所ではまだ草が青々と風に揺れています。ロムドよりも南寄りの場所で、冷え込みもまださほどではなかったのです。

「黄泉の門、ってポチも聞いたことがあるよね?」

 とフルートは話し出しました。

「死んだ魂が死者の国に行くためにくぐるって言われている門……。夢にその門が出てきたんだよ。ゼンがくぐっていったんだ……」

 ポチは思わずフルートを見上げました。少年は草原に目を向けていましたが、その瞳は景色など少しも見ていませんでした。ただ、堅く膝を抱き寄せ、吐き出すように続けます。

「ゼンの墓も夢に出てきた……一生懸命ゼンを捜すのにさ、見つかったのは、そんなものなんだ」

 いつも落ちついて穏やかな顔つきの少年が、はっきりと不安そうな表情を浮かべています。夢が正夢になるのではないかと本気で心配しているのです。膝を抱えた腕や体が小さく震えています。

 

 ポチは黙ってそれを見上げていましたが、やがて、フルートの膝に前足をかけると、伸び上がって、ぺろりと顔をなめました。

「フルートは前にもそんな顔をしたことがありますよ。いつだか覚えてますか?」

 フルートは子犬を見つめ返しました。とまどった顔をしています。それをまたポチは優しくなめました。

「ワン、謎の海の戦いの時ですよ。ゼンが水蛇のハイドラにさらわれちゃった時。フルートはゼンがいなくなると、決まってそんなふうに心配になっちゃうんですね」

「別にゼンには限らないけど……他のみんなだって、ポチのことだって……」

 とフルートが口ごもりながら答えると、ポチはたたみかけるように言いました。

「でも、ゼンがいなくなるのが一番応える。フルートはゼンを一番頼りにしてるんですよね。いろんな意味で」

 フルートはますますとまどい、目をそらしてうつむきました。しばらく考え込んでから、小さく、うん、とうなずきます。もちろん、仲間たちは誰もがみんな、本当に大切です。だけど、その中でもやっぱりゼンは特別なのでした。ゼンがいないと思うだけで、まるで自分自身の半分がなくなってしまったような気がします。

 そんなフルートにポチは続けました。

「ゼンが黄泉の門をくぐろうとしてるのは本当ですよね。あと三日のうちに魔王を倒さなかったら、ゼンは門をくぐって行ってしまうんだもの。だから、ぼくたちは東へ向かっているんです。シェンラン山脈に行くためにね。――さあ、出発しましょう、フルート。お腹もいっぱいになったし、これでまた飛んでいけますよ」

「でもポチ、君、ほとんど休んでないじゃないか」

 とフルートが思わず言うと、ポチは笑うような表情になって体をすり寄せました。

「ワン、フルートだけがゼンの心配をしてるなんて思わないでくださいよ。ぼくだって、ゼンがものすごく心配なんだから。さあ、後はもう休まないで行きますよ。夜通し飛んで、一気にシェンラン山脈までたどりつきます」

 きっぱりと言い切るポチを、フルートは見つめてしまいました。小さな子犬の姿が、思いがけないほど力強く見えます。

 やがて、フルートは苦笑いをすると、目を伏せました。

「ちぇ、駄目だなぁ……。兄貴のくせに弟に励まされてるよ」

 自分だけに聞こえる声で、そっとつぶやきます。

「ワン、何か言いましたか?」

 とポチが聞き返します。

「ううん、なんでも」

 とフルートは答えると、勢いよく草の中から立ち上がりました。

「よし、出発しよう。そうさ。魔王を倒して、ゼンを助けるんだ――!」

 

 出発の前に、フルートは草原の中を流れる小川に行きました。この後はもうどこにも立ち寄りません。水筒を一杯にしておこうと思ったのです。

 ところが、革の水筒の蓋を取ったとたん、フルートは首をかしげてしまいました。中身があまり減っていなかったのです。

「変だな……けっこう飲んだような気がしたのに」

 とつぶやきながら、水筒の口ぎりぎりのところまで水を充たすと、堅く蓋をして、またリュックサックに戻します。

 ポチは風の犬に変身して、草原の中で待っていました。フルートが背中に乗ると、たちまちまた空に飛び上がっていきます。

 雲が切れた空は青く輝いていました。ところどころに綿雲が浮かんでいます。日の光を浴びた草原が、みるみる眼下に遠ざかって山間に消えていきます。

 その時、フルートのリュックサックの中で、何かが音を立てました。チリン、と小さな鈴のような音が響きます。

 けれども、それはあまりにもかすかな音だったので、吹きすぎる風の音に紛れてしまって、フルートもポチもまったく気がつきませんでした――。

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