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第7巻「黄泉の門の戦い」

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第7章 東へ

26.偏西風

 夜明けと共にハルマスのゴーリスの別荘を出発したフルートとポチは、朝の光を浴びながら、東へ東へと飛び続けていました。

 風の犬になったポチは、強い風に乗った後もどんどん上昇を続けています。周囲でごうごうと風がうなり続けているので、フルートはどなるように話しかけました。

「偏西風に乗ったの? この風がそう?」

「ワン、まだです。上空に行くのに上昇気流に乗ってるところです。偏西風はもっと上の方を吹いているんです」

 とポチは答え、大丈夫ですか、と心配そうに聞き返しました。

 偏西風は、地上一万メートルもの高さを猛烈な勢いで吹いている西風です。ポチは以前、風の犬になって偏西風の吹く場所まで行ったことがあるのですが、あっという間に何十キロも東へ流されてしまって、家に帰ってくるのにとても苦労しました。風の強さも気温の低さも、今飛んでいる場所とは比べものにならないと知っていたので、フルートの心配をしたのでした。

 すると、フルートが言いました。

「大丈夫だよ。ピランさんは鎧を完璧に修理してくれたみたいだ。全然寒くないし、風も、見れば強く吹いてるのはわかるんだけど、実際にはそよ風くらいにしか感じないんだよ」

「ワン、それならよかった。偏西風が吹く場所は、北の大地くらい寒くなるんです。ぼくは風だから平気だけど、フルートは鎧がなかったら、あっという間に凍え死んでしまいますね」

「とてもポポロを一緒につれてなんてこられなかったよね」

 とフルートは言って、ちょっと笑いました。フルートと一緒に行く、と言い張ったポポロを思い出したのです。いつも本当におとなしくて引っ込み思案なのに、何かあると、驚くほど思い切ったことを始めるポポロです。残ってゼンを守るように、とフルートが言ったので、なんとか承知しましたが、そうでなければ無理やりにでも一緒についてきてしまったのかもしれません。大好きなゼンの命を救うために――。

 

 フルートから笑顔が消えました。複雑なものが胸の内をよぎります。

 闇の毒に倒れたゼンのために、仲間たち全員が泣きました。もちろん、フルート自身も泣きましたが、ポポロは黙ってゼンを見つめたまま、いつまでも大粒の涙を流し続けていました。口には出さなくても、自分から近づいていくことはなくても、ポポロはいつも深くゼンに想いを寄せ続けているのです。同じように外に想いを出さないフルートだからこそ、そんなポポロの気持ちが手に取るようにわかります――。

 フルートが、ふう、と背中で溜息をついたので、ポチはまた聞き返しました。

「ワン、どうかしましたか?」

 珍しく、フルートから切ないような感情の匂いが漂ってきたのです。感情の匂いは普通の匂いとは違います。どんなに風が強く吹いても、それに散らされるようなことはありません。

 けれども、それは一瞬でした。すぐにフルートはいつもの穏やかで静かな様子に戻って答えました。

「ううん、なんでもないよ」

 もう、フルートから感情の匂いは伝わってきませんでした。

 

 やがて、彼らは空高い場所を吹く強風に乗りました。偏西風です。本当に、それまでの風とは比べものにならないほど速い空気の流れで、あれよあれよという間に東へ運ばれていきます。眼下に遠く広がる地上の景色が、みるみるうちに動いていきます。平地が、山が、流れるように移り変わります。

「ワン、もうエスタ王国の上空に来ていると思います。地図がないから、正確にはわからないけど」

 とポチが言いました。

「すごいね」

 とフルートは目を丸くしました。馬で十日もかかるエスタ王国まで、わずか一時間足らずで飛んできてしまったのです。エスタ王国は広大ですが、この分だと本当に数時間で飛び越えてしまいそうです。魔王レィミ・ノワールが潜むシェンラン山脈はまだ遠い彼方ですが、この風を使えばきっとたどり着けることでしょう。

 すると、またポチが言いました。

「もう少し高度を上げても大丈夫ですか? 上の方が風の勢いは強いんです。……フルートが大変なら、このくらいにしておきますけど」

 フルートがはおるマントは激しくひるがえっていましたが、フルート自身は本当に、ごく普通の風に吹かれている程度にしか感じていませんでした。寒さも感じないので、むしろ爽やかなくらいです。フルートはマントをしっかり自分の体に絡めて風の抵抗を減らしました。

「思うとおりに飛んでいいよ。ぼくは全然なんでもないから」

 そこでポチはまた高度を上げました。空の本当に高い場所を飛びます。そのあたりでは濃い雲は発生しません。雲はもっと空の低い場所に絨毯のように広がって、地上の景色をおおい隠し、空から降りそそぐ日の光に白く輝いていました。雲海です。雲の海面に空を飛ぶポチとフルートの影が映ります。

 たまにポチたち自身が雲に突入することがありましたが、それはいつも薄い霧のようで、それも冷たく凍りついていました。フルートのマントや鎧の上に白い霜の花が咲きます。実は、周囲の気温はすでにマイナス五十度を下回っていたのです。本当に北の大地並の寒さです。魔法の鎧を着ていなかったら、絶対に耐えられませんでした。

 

 ポチがまた話しかけてきました。

「ワン、フルート、今のうちに食事をして寝ておいたほうがいいですよ。昨夜は一睡もしていないでしょう? 体を休めないと、シェンラン山脈に着いてからきつくなりますよ」

「でも、ポチは」

 とフルートは言いました。空を飛びながらでは、ポチは食事も寝ることもできません。

「ワン、後でひと休みするのに下に降りたらぼくも食べますよ。今はできるだけ先に進みたいから……。寝る方は心配しないで。この風は何もしなくてもぼくたちを運んでくれるから、飛び疲れたら、風に乗って眠れるんです」

「本当にすごい風だね」

 とフルートはまたちょっと笑いました。こんな状況でしたが、自然の力に助けられていることに、なんとなく心強いような気がしたのです。

 結局フルートも食事をしませんでした。食欲が全然わかなかったし、この場所では気温が低すぎて、食べるものも飲むものも凍りついているだろうと予想できたからです。こういうことは、北の大地で嫌と言うほど経験ずみでした。

 食事は地上に休憩に降りたときにポチと一緒にすることにして、フルートはとりあえず眠ることにしました。マントを体に絡みつけたまま、ポチの風の体の上に横になります。ごうごうと激しい音を立てて風は吹き続けています。耳をふさぐほどの轟音なのですが、それにもすっかり慣れていたので、フルートは気にすることもなく、やがてぐっすりと眠ってしまいました。

 

 フルートは夢を見ました。

 そこは北の峰の森の中のようでした。緑の濃い木立の間から、明るい光が斜めに差し込み、白い霧がひんやりと流れています。鳥の声がうるさいぐらいに聞こえてきます。森の朝の風景でした。

 その中を、フルートは歩き回っていました。木立の奥、岩の陰、小さな滝を作って流れる沢……。いたるところを歩いて探し続けます。朝の光に照らされた森は綺麗です。そして、鳥の声以外には、本当に何も聞こえてきません。

 次第にフルートは焦ってきました。どんなに見回しても、探し求めるものが見つかりません。森の木々の幹や枝にしがみつきながら、山の斜面を登り、下り、必死で探し回り続けます。どこかにいるはずだ――絶対どこかにいるはずだ。いつの間にか、心の中でそう繰り返しています。けれども、やっぱり探すものは見つからないのです。

 とうとうフルートは声に出して呼びました。

「ゼン! ゼン、どこだ――!?」

 呼び声が山彦になって森の中に響きます。返事はどこからもありません。どこにもゼンはいないのです。

 フルートは唇をかみしめました。親友の姿を求めて、必死で歩き続けます。フルートは山歩きにはあまり慣れていません。やがて息が切れ、胸が苦しくなってきます。それでも、フルートは探すのをやめません。

 

 すると、突然目の前から森が消えました。代わりに、深い谷間が現れます。緑の木々におおわれた斜面が落ち込むように下へ続き、その先に岩だらけの崖と、その底を流れる谷川が見えました。川は白いしぶきを立てて流れています。

 その流れを目で追っていたフルートは、ふいにはっとしました。谷川のほとりに小さな人影が見えたのです。その人影は毛皮の上着を着て、焦茶色の髪をしていました。背中に大きな弓と矢筒を背負っています。

「ゼン!!」

 フルートは声を上げると、足下もろくに確かめずに駆け下りて行きました。転がるように谷を下り、やがて本当に足を踏み外して、斜面を滑り落ちてしまいます。谷底にたたきつけられましたが、痛みはありません。フルートは魔法の鎧を着ているのです。すぐさま跳ね起きると、谷川へと走っていきました。

 川は緑の谷間で、何故か鈍い銀色に光っていました。しぶきを上げているのに、とろりと濃く重たそうで、まるで大量の水銀が流れているようです。その川の先の方にゼンがいました。石だらけの川っぷちをどんどん進んでいきます。

 フルートはまた呼びました。

「ゼン! ゼーン!」

 けれども、ゼンは立ち止まりません。振り向くことさえしません。呼び声に気がつかないように、どんどん先へ行ってしまいます。

 

 フルートは必死で後を追いました。何故かひどく胸苦しくて、目の前に白いものがちかちかとひらめきます。心が急いてしかたありません。

 川はいつか道に変わっていました。銀色の一本道です。そこをゼンが歩いていきます。フルートが何度も大声で呼んでいるのに、本当にまったく振り向きません。すると、道の行く手に大きな黒い門が見えてきました。道は門の先まで伸びています。ゼンが門に手をかけると、門が音もなく開きました。

 フルートは本当に息が止まりそうになりました。ゼンをその中に行かせてはいけない、と直感で悟ります。また声を上げて呼び止めようとしたのですが、声が出ません。駆け寄ってゼンを止めようと思うのに、走ることもできません。苦しくて、逆に立ち止まってしまいます。

 ゼン、とフルートはあえぎながら呼びました。弱々しいかすれ声しか出ませんでしたが、それが聞こえたように、ゼンが門の前から振り返りました。立ちつくしてあえいでいるフルートを見て、にやりといつものように笑います。

 フルートは思わず大きく身震いしました。ゼンが笑いながら片手を上げたのです。それはまるで、別れを告げる挨拶のようでした。

 ゼンが門をくぐっていき、そのまま門は閉じました。門の奥に、何故かもうゼンの姿は見えません。

 

 フルートは死にものぐるいで走りました。息が苦しくて胸が痛くて、今にも倒れてしまいそうです。ようやく門のあった場所までたどりつくと、黒い門は、もうどこにも見あたりませんでした。銀の一本道も消えています。

 そこは再び森の中でした。濃い緑の中に光が差し、鳥の声だけが響いています。

 目の前に墓が一つありました。石でできた墓碑の上で、木漏れ日がちらちらと踊っています。フルートは激しく震えながら、それを見つめました。

 墓碑の上には、ただ一列、これだけの文字が刻まれていました。

「ドワーフの猟師ゼン、ここに眠る。」

 ――と。

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