夜半に、どっと風が吹き出しました。
冬は目前だというのに、いやに暖かく湿った風です。雨の匂いが混じっています。
ゴーリスの別荘の中庭に作られた建物の前で、数人の人影が待ちかまえていました。その中でも小さな影が、ふいに声を上げます。
「来るわ――」
両手を祈るように組み合わせた黒衣の少女です。それに続くように、灰色の長衣を着た青年が言います。
「参ります。闇の怪物の軍勢です。南東の、闇の森から飛び立って、暗雲と共に空を渡って参ります」
青年は建物の前に椅子を出し、座った膝の上に黒い占盤を置いてのぞき込んでいます。長い銀の髪が風に乱され、夜の闇に踊っています。
「いよいよか」
とゴーリスが言いました。黒い鎧兜を身につけ、剣を腰に下げて戦姿をしています。
その隣には、それよりさらに大柄な青年が立っていました。いぶし銀の鎧兜が、建物の門口のかがり火を返して鈍く光ります。腰にはやはり剣を下げています。
銀髪のユギルが顔を上げて言いました。
「ご承知とは思いますが、闇の怪物は非常に倒しにくい敵です。通常の武器や攻撃は効きません。頭を切り落として焼き払うか、聖なる魔法を使うしか方法はないのです。ですが、今、怪物たちを焼き払うほどの火を準備することはできません。魔法使いたちが城からお持ちした、殿下とゴーラントス卿の剣だけが、怪物たちを倒せる武器です。その二振りの剣には聖なる魔法が組み込まれているからです。お屋敷の中庭の四隅には一人ずつ魔法使いがいて、それぞれに光の護具を守っております。彼らは聖なる魔法を使えますし、庭を光の結界も包みますが、それだけでは敵を防ぎきれないだろうと占盤は告げております。なにとぞ油断を召されないようお願い申し上げます」
「そのことば、そっくりユギルにも返すぞ」
と銀の鎧の皇太子が言いました。黒い鎧のゴーリスもうなずきます。
「ユギル殿は身を守るものを何も持っていない。危なくなったら、すぐに建物に避難しろよ」
すると、占者の青年は色違いの瞳を細めて笑いました。
「わたくしには戦況の先読みができます。ご心配いただくまでもなく、危なくなれば、さっさと避難いたしますゆえ――」
自信家の本性をちらっとのぞかせたユギルでした。
オリバンは次に黒衣の少女とノームの老人を見ました。
「二人はゼンの小屋の中にいろ。間もなく嵐が来る。結界の中にいても危険だからな」
少女は驚いた顔になりました。そんなのは嫌です、と言おうとしたのでしょう。オリバンに言い返そうとして、たちまち、自信のない表情でうつむいてしまいました。何も言うことができません。
代わりにノームの老人が言いました。
「ほい、ではそうさせてもらうとしようか。嵐は苦手じゃよ。吹き飛ばされてしまうからな。それ、ポポロ、あんたも中に入るとしよう。――敵は次々と襲いかかってくるぞ。守りは幾重にも固めておく方がいいんじゃ」
ポポロは緑の瞳に涙を浮かべていましたが、そう言われて、小さくうなずきました。それはあまりにも頼りなげな姿で、オリバンでなくとも、危険だから下がっていろ、と言いたくなります。
すると、ゴーリスが二人に言いました。
「中にはジュリアもいる。すまんが、よろしく頼むぞ」
ノームのピランは笑いました。
「はてさて。頼まれるようなことが起きるかな。あんたの奥方も、案外と、やるときにはやるように見えるが」
けれども、ゴーリスはちょっと笑い返しただけで、何も答えませんでした。
ポポロとピランが小さな建物に入り、扉を閉じたとたん、また、どうっと風が吹いてきました。やはり、季節に合わない生暖かい風です。間もなく音を立てて大粒の雨が降り出し、庭中を激しくたたき始めました。夜空がみるみる黒雲でおおわれていきます。
ふいに、ブゥンと庭のあちこちから音が響きました。何かがうなるような音です。庭の木立の向こうから淡い光が立ち上り、暗い空に弓なりに伸びていきます。四本の光の弓が小さな建物の真上で結び合い、そこから光の幕を広げて、庭全体を包み込んでいきます。城の魔法使いたちが、光の護具を稼働させて、庭を光の結界で包んだのでした。
けれども、結界の中にも風は吹き込み、雨は降ります。長い銀髪を濡らしながら、ユギルはかたわらのオリバンに言いました。
「陛下はゼン殿のために、城で一番強力な護具をお貸しくださいました。魔法使いたちも、城の守りの要になる者たちばかりです。それだけに、今、城の守りは弱まっております。そこを敵につけ込まれなければよいのですが」
「城一番の占者もこちらに来ているしな」
とオリバンは答えましたが、すぐににやりとして見せました。
「だが、こちらで派手にやってみせれば、敵も城まではとても手が回るまい。奴らに余計な色気を起こさせないためにも、徹底的に行くぞ」
どんなに危機的に見える状況にも恐れることのない皇太子でした。
ユギルも思わずほほえむと、雨を避けるために、灰色のフードをまぶかにかぶりました。
空を走る黒雲の下に、数え切れないほどの怪物の群れがありました。真っ黒な姿は、鳥や獣やは虫類や、そのどれにも似ていない形をしています。あるものは翼を広げ、あるものは風に乗り、わらわらとハルマスの町へ押し寄せてきます。
湖の畔にたたずむハルマスの町は、暗闇の底に沈んでいました。灯りが一つも見あたりません。町中の人間が逃げ出してしまったことを知って、人を好物にしている怪物たちが怒りの声を上げました。彼らは魔王に言われて闇の森から飛んできたのですが、魔王の命令などには興味が無く、ただただ、人間の町で暴れ回って、そこで思う存分人間を食いまくることを楽しみにしてきたのです。
けれども、町の中に一箇所だけ、光がともっている場所がありました。黒々と横たわる湖からほど遠くない一角が、淡い光に包まれて、四角く浮かび上がって見えています。その区画には小さな建物があり、わずかですが、人の動く気配もしていました。
「しけてるな! これっぽっちで腹がふくれるかよ!」
ぶうぶうと文句を言いながら、先陣の怪物たちが降下していきました。空から地上へ、光に包まれた明るい場所へ、翼を傾けて滑るように下りていきます。
区画の四隅で何かが光を放っているのが見えました。石がついた棒のようなものが地面に突き立てられています。そのかたわらに人間が一人ずつ立っていました。年寄りもいれば若い者もいますが、全員が長衣を着て、杖を持っています。ただ、その衣の色が、赤、白、青、深緑とそれぞれに違っていました。
その中に痩せた中年の女がいるのを見て、先頭の怪物が歓声を上げました。
「女だ! あれは俺がいただくぞ!」
後続の仲間たちに言い捨てるなり、コウモリのような翼を羽ばたかせて急降下します。白い衣をドレスのように着た女につかみかかり、真っ二つに引き裂いて食らいつこうとします。翼の生えた猿に似たこの怪物は、生きた女のはらわたを何よりの好物にしているのです。
ところが、猿が女につかみかかろうとしたとたん、猿はいきなり何かにはじき飛ばされました。全身がしびれて動けなくなり、町の通りに勢いよくたたきつけられます。庭を取り囲む光の結界に触れて跳ね飛ばされたのですが、知能の低い怪物には、自分に何が起きたのか理解することはできませんでした。通りに転がったまま、光に触れて消滅した自分の両手を不思議そうに眺めます。
すると、白い服の女がゆっくりと杖を振り上げました。光の結界の外側に倒れる怪物目がけて、杖を突きつけて唱えます。
「神の名の下に命じる。消滅せよ!」
とたんに、猿のような怪物の体は、ぼんと音を立ててはじけ、跡形もなく吹き飛んでしまいました。
「おぞましき怪物の魂も、浄火の炎をくぐって、安らかな眠りへと導かれんことを」
と女が祈るように唱えました。その白い衣の上で、神の象徴をさげた首飾りが揺れます。神に仕える魔法使い、魔法神官なのです。
女神官はまた杖を掲げ、迫り来る怪物たちに言いました。
「そなたたちの住みかへ直ちに戻れ。戻らぬものたちには、死者の国へ続く、黄泉の門への通行手形を渡してやろうぞ」
けれども、闇の怪物たちは神官の声にひるみません。女神官はまた杖を掲げました。空から襲いかかってくる怪物たちが、また音を立てて吹き飛びました――。
屋敷の中庭の別の片隅で護具を守っていた魔法使いには、鳥の翼を持つ蛇が襲いかかろうとしていました。蛇は二つの頭をくねらせて、空から魔法使いを狙っています。
魔法使いは深緑の衣を着た老人でしたが、濃い眉の下から蛇をにらみ上げると、やがて、笑うように言いました。
「そなたの正体は見えたぞ、森のミミズよ。ずいぶんと偉そうな姿になっているものじゃな」
その声を聞いたとたん、空から翼の蛇が落ち、本当に地面の上で一匹のミミズに変わりました。太さが十センチ、全長一メートルもある大ミミズです。体を激しくくねらせながら、光の中に立つ老人へ襲いかかろうとします。
「愚か者」
老人が杖を突きつけると、ミミズはたちまち力を失って長々と伸び、その場に動かなくなってしまいました。
老魔法使いは迫ってくる怪物の大群を、どこか楽しそうに見上げて言いました。
「さあ、次は誰が来る。おまえらはたいてい、何かが変化して怪物になったものばかりじゃ。わしの目は真の姿を暴くぞ。どんな情けない姿をさらしてくれるかね――?」
屋敷の中庭の前方で戦いが起きているのは、中央付近にいるゴーリスたちにもわかりました。空中の怪物たちが次々にはじけ飛び、墜落していくのが、結界の淡い光に照らされて見えています。
「さすがは日頃ロムド城を守っている魔法使いたちだけある。大した力だ」
とゴーリスが感心したように言いました。
「彼らだけで事足りてしまうようなことはないだろうな」
むしろ心配そうにオリバンが言います。
降りしきる雨の中、ユギルは椅子に座り、占盤を見つめながら笑いました。
「残念ながら、殿下、ことはそれほど簡単にはすまされません――。殿下は庭の北西を守る、青の魔法使いの元へ参られますように。そこが破られると出ております」
「わかった」
オリバンはすぐに剣に手をかけて駆け出しました。ユギルの言う北西の隅の護具へと走っていきます。
空を真っ黒にしながら、風と共に押し寄せてくる怪物を見て、ゴーリスがユギルに尋ねました。
「結界を破られたら、どうなる?」
「奴らの一番の狙いは、ゼン殿のお命です。いっせいにこの小屋に押し寄せて参ります」
吹きすさぶ風の中でも、ユギルの声は落ち着き払っています。
「よかろう」
ゴーリスは低く言うと、腰の大剣を抜き放ちました。聖なる魔法を帯びた剣が、闇の中にかすかに光を放ちました――。