西に低く連なる山陰に日が沈みました。空を燃えるような茜色に染め上げていた夕焼けが、たちまち薄れて鈍色になり、黒い夜空へと変わっていきます。十一月も末。昼が一番短くなるこの時期は、日暮れもあっという間に夜に飲み込まれていくのです。
王都へ向かう馬車の姿も少なくなった表通りで、ゴーリスが一台の馬車を見送ろうとしていました。乗っているのは妻のジュリアと生後半年の娘のミーナ、そして、太った乳母の三人です。
彼らはすでに座席に座っていましたが、扉はまだ開いていて、ジュリアが夫へ身を乗り出していました。
「あなた、本当に大丈夫ですの――?」
ゴーリスは平然と答えました。
「心配するな。来るのはただの嵐だ。だが、ゼンを今動かすわけにはいかないからな。殿下たちとそれを守るだけのことだ。ユギル殿もいる。心配は無用だ」
「でも――」
ジュリアは夫の目を見つめました。心配そうなまなざしは、同時に、夫の瞳の奥にあるものを見抜こうとしているようでした。あまりにもタイミングが良すぎる嵐の襲来に、ジュリアも感じるものがあるのです。夜空は晴れ渡っています。嵐が近づいているような予兆も見えません。
すると、ゴーリスが急に目を細めました。めったに表情を変えない剣士が、笑顔になったのです。優しく妻を見つめながら話しかけます。
「ミーナと一緒にディーラの屋敷で待っていろ。嵐が無事に過ぎて、事がすべて片付いたら、俺も屋敷に帰る。それまで留守を頼むぞ」
「あなた――!」
ジュリアが呼び止めるように声を上げましたが、ゴーリスはそれ以上は何も言いませんでした。奥の席で乳母に抱かれている小さな娘へ目を向けると、馬車の扉を勢いよく閉じて、御者に呼びかけます。
「行け! 夜道に気をつけながら、急いでディーラへ向かえ!」
ぴしり、と鞭の音が響き、馬車が音を立てて走り出しました――。
暗くなっていく通りを、馬車が遠ざかっていきます。馬車の両脇に掲げたランプの光が、揺れながら小さくなっていきます。
それが見えなくなるまでゴーリスが見送っていると、かたわらの低い場所から話しかけられました。
「良かったのかね、奥方を行かせてしまって。奥方は、えらくここに残りたそうだったぞ」
ノームのピランが腕組みしながら一緒に馬車を見送っていました。
ゴーリスは無愛想に返事をしました。
「あれはミーナの母親だ。ミーナを安全な場所に守るのは母親の役目だ」
「安全にしておきたかったのは娘さんだけかね? 奥方もじゃろう?」
からかうように老人が言いましたが、ゴーリスはそれには答えずに、逆に聞き返しました。
「鍛冶屋の長殿こそ、こんなところでぐずぐずしていて良いのか? 早くしなければ、ディーラに戻る馬車がなくなるぞ」
とたんに、老人は心外そうな顔になりました。
「わしにここから出て行けと言うのかね!? これから面白そうな見物が始まりそうだというのに! いやいや、わしは断じてここを動かんぞ」
「危険だぞ」
とゴーリスは言いましたが、それ以上強く避難を勧めることはしませんでした。なんとなく、この老人なら、そんなふうに返事をするような気がしていたのです。
すると、ピランは急に真顔になりました。
「危険なら、おまえさんのほうが上だろう、ゴーラントス卿。わしらノームは、いざとなったら姿を隠すことも、地面に潜ることもできる。だが、おまえさんは人間で、そんな芸当はできんのだからな」
「なに……ユギル殿もいる。なんとかなるだろう」
ゴーリスは薄く笑うと、屋敷へと引き返していきました。あたりはすっかり日が暮れて、空に星がまたたき始めています。馬車は通りを走り去って、もう灯りも見えませんでした。
屋敷の中は静まりかえっていました。
窓の外はすでに夜の色に染まり、屋敷の中も真っ暗になっています。別荘で働いていた下男や召使いたちも一人残らずハルマスから避難したので、部屋に灯りをともす人間がいなかったのです。
入口の扉の上にたった一つ、灯りのついたランプが掲げてありました。吹く風にゆらゆらと揺れながら、黄色い光を夜に投げかけています。ゴーリスはそれを外して屋敷に入ると、ランプの炎を燭台のロウソクに移していきました。ホールに一箇所、途中の廊下に一箇所、屋敷の中央の広間に二箇所と、灯りをつけていきます。
窓から見える中庭の中に、遠い灯りが見えていました。東屋を改造した建物からもれる光です。その中では闇の毒に倒れたゼンが眠り、魔法使いの少女が一人でそれを守り続けているはずです。庭の別の場所でも、ちらちらと灯りが動いています。ユギルと皇太子が、敵の襲撃に備えて準備を整えているのに違いありません。間もなく王都の城から魔法使いたちも応援に駆けつけてくるはずでした。
ゴーリスはランプを持ったまま、広間に続く台所へ入っていきました。適当な入れ物を見つけると、そこに食料を詰め込んでいきます。――敵の襲撃は夜中です。それまでに腹ごしらえをしておかなくてはなりませんでした。
けれども、途中でふと黒衣の剣士は手を止めて、耳を澄ましました。
屋敷の中は静かです。本当になんの物音も聞こえてきません。
ここに勇者の子どもたちが集まり、ゴーリスやピランたちと楽しく会食したのは、つい昨日の晩のことです。今はどんなに耳を澄ましても、屋敷の中から人の気配は伝わってきません。子どもたちの笑い声や話し声も、ミーナの泣き声も、それをあやす妻の声も、何も聞こえてこないのです。決して広くもない別荘の中を、黒々とした虚無が占領しています。
ゴーリスは頭を振って作業に戻りました。今まで感じたこともなかったような孤独感に、小さく苦笑いをします。結婚してからなんだか人柄が変わったようだ、とよく人からは言われていましたが、子どもが生まれたせいで、さらに何かが少し変わったのかもしれませんでした――。
すると、台所の入口から柔らかな声が話しかけてきました。
「食事の支度ならば私がいたしますわ、あなた」
ゴーリスは仰天して振り向きました。馬車に乗ってディーラに向かったはずのジュリアが、一人でそこに立っていたのです。呆気にとられているゴーリスに、穏やかにほほえんで見せます。
「どうしてまだここにいる――? ミーナはどうしたのだ?」
とゴーリスは尋ねました。厳しい声ですが、ジュリアは平然と答えました。
「ばあやに預けてディーラに戻らせました。ばあやがついていれば、ミーナはなんの心配もありませんわ」
ゴーリスは頭を抱えてしまいました。自分の妻が思いがけないときに思いがけないことをしでかす人物だということを、今さらになって思い出したのです。いっそう厳しい声になって言い渡します。
「今すぐディーラへ帰れ。おまえにはなんの力もない。足手まといになるだけだ。早くディーラへ行け!」
けれども、いくらどなられても、ジュリアは平気な顔のままです。ゆったりとほほえみながら、夫へ近づいていきます。
「無理ですわ、あなた。町中の馬車は一台残らずハルマスを離れました。先ほど、ロムド城から魔法使いの方々も到着しましたけれど、馬車はすぐに引き返して行きましたし。もちろん、ばあやとミーナの馬車も、とっくに行ってしまっています。私が乗って逃げるような馬車は、もうどこにもありませんわ」
「ジュリア」
ゴーリスは今度は困惑しました。とうとう白状します。
「ここを襲うのは嵐ではない。ゼンたちの命を狙う闇の怪物たちだ。とてもおまえに戦えるような敵ではない。今すぐ、ここから逃げるんだ」
「やっと本当のことをおっしゃった」
とジュリアが言いました。くすくすと笑っています。
「でも――あなたは本当に嘘が下手ですわ。そんなこと、最初からわかっておりましたもの。私は、承知の上で戻ってまいりましたのよ」
馬鹿な! とゴーリスがまたどなりましたが、ジュリアはやっぱりひるみません。穏やかな顔と声のまま、こんなことを言います。
「私はあの子たちを守りたいのですわ、あなた。確かに、私にはあなたや皇太子殿下のように、剣を持って戦うことはできません。ユギル様のように占いの力で助けることもできません。でも、私も、あの子たちのそばにいてやりたいのですわ。――私はあの子たちが大好きです。懸命に闇と戦っているあの子たちを、私も一緒に守ってあげたいんです」
優しげな姿からは本当に意外なほどに、きっぱりとジュリアは言いました。夫の目をまっすぐに見つめます。どんなに夫が怖い顔をしても、少しも目をそらそうとしません。やがて、苦笑いで視線を外してしまったのは、ゴーリスの方でした。
「本当に、おまえは昔から少しも変わらない。こうすると言い出したら必ずその通りにするのだからな」
「私は嘘は申しません。それが良いとおっしゃって私と結婚なさったのは、あなたですわ」
とジュリアが即座に言い返します。
ゴーリスはまた苦笑しました。もう何も言うことができません。完敗でした。
「よし、では食事の支度はおまえに任せた。準備ができたら、ゼンの建物に持ってきてくれ。俺はユギル殿たちを手伝ってくる」
とゴーリスに言われて、ジュリアは、にっこりとうなずきました。これから恐ろしい闇の敵が襲ってくると言うのに、本当に晴々とした笑顔です。
それを見て、ゴーリスはまた苦笑いをすると、妻の栗色の髪をちょっとなでて庭へ出て行きました。
夜の小道を足早に歩きながら、ゴーリスの手は腰の大剣にかかっていました。大切な者たちはこの屋敷の中にいます。彼らを守り抜くためにも、決して負けるわけにはいきませんでした――。