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第7巻「黄泉の門の戦い」

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18.備え

 なんの騒ぎなの? とメールに声をかけられて、ロムドの皇太子が振り向きました。くすんだ銀の鎧兜を身につけた大柄な青年です。

「目を覚ましたか」

 とぶっきらぼうなほどの口調で言います。

 メールはちょっと首をかしげて見せました。

「あたいたち、フルートが出発してから眠っちゃってたんだね。もう夕方なんだ、全然気がつかなかったよ。――で、なんの騒ぎなのさ、これ?」

 ゴーリスの別荘の中庭の向こうに表通りがあります。夕焼けにほの赤く染まり始めた木立の間から、ひっきりなしに走っていく馬車の集団が見えていました。何台も何十台も連なって、一つの方向へまっしぐらに走っていきます。騒々しく響く車輪の音は、まったく止むことがありません。

「ハルマス中の者たちがディーラに避難しているのだ。別荘の貴族たちも、ハルマスの住民も、一人残らずな」

 とオリバンが答えました。暗灰色の瞳はいつも真面目なまなざしですが、この時には特に考え込むような様子をしていました。

「避難? なんで?」

 とメールも真剣な顔になりました。ハルマス中の人間が王都へ逃げるとは穏やかではない話です。

「まもなくこのハルマスを大嵐が襲う、とユギルの占いに出たのだ。ここ五十年間、来たこともないような猛烈な嵐だ。それで、被害を避けて、嵐が過ぎ去るまで全員をディーラに避難させることにしたのだ」

 林の向こうにちらちらと見える馬車は、後ろにも屋根の上にも山のような荷物をくくりつけ、大あわてで走っていました。本当に、手当たり次第荷造りをして全速力で逃げていく、という様子です。

 

 けれども、メールはオリバンをじっと見上げました。

「襲ってくるのは本当に大嵐? なんか、タイミング良すぎるじゃないのさ」

 少女でも、メールは渦王の鬼姫と呼ばれる戦士です。危険な気配には鋭く気がつきます。

 オリバンはちょっと笑いました。

「やはり誤魔化されないか……。実際に嵐は来るのだが、それに紛れて闇の怪物たちがやってくるのだ。かなりの集団で襲ってくる、とユギルが言っている。町の者たちを巻き込んでしまうので、急いで避難させているのだ」

 メールはたちまち顔色を変え、すぐに、低い声で確かめました。

「それって、ゼンを狙ってくるわけ?」

「ゼンだけではない。狙いは、金の石の勇者の一行全員だ」

 とオリバンが答えます。

 

 メールは少しの間、何も言いませんでした。心の中で何かを思うような表情をしていましたが、やがて、小さくつぶやきました。

「ホントだ。泣いてる場合なんかじゃない」

「なんだ?」

 とオリバンが聞き返すと、メールは鋭い目で笑い返しました。

「あたいたちも戦わなくちゃ、って言ってんのさ。闇の怪物たちはいつ頃ここに来るわけ?」

「今夜半だ。それまでには住民の避難もすべて終わる」

「わかった。ポポロたちに知らせてくる――」

 メールは細い体をひるがえして、建物の中に戻っていきました。涙ぐむような頼りない様子は、もうどこにも見られませんでした。

 

 東屋だった建物の中に入ると、メールはすぐにポポロとルルを起こしました。今、オリバンから聞かされた話を教えます。ポポロとルルも顔色を変えました。

「ここが襲われるのね? ど、どうしたらいいの――?」

 とあわてふためくポポロを、ルルが叱りつけます。

「どうもこうもないでしょ、守るのよ! 今、ゼンを動かしたら、金の石が離れてゼンは死んでしまうわ。敵をここに入れるわけにはいかないのよ!」

 う、うん、とポポロはうなずき、自分の右手を見つめました。一日二回だけですが、強力な魔法を発する華奢な手です。強力すぎてコントロールがうまくできなくて、暴走したり、周囲を巻き込んだりしてしまいます。

 すると、メールが言いました。

「オリバンが言うには、敵はかなりの数らしいんだ。あたいたちだけじゃ守りきれないかもしれない。あたい、援軍を呼んでくるよ」

「援軍? どこから?」

「デセラール山から。ルル、風の犬になってあたいのことを運んでよ。ポポロは、あたいたちが戻ってくるまで一人になるけど――大丈夫だよね?」

 メールは、大丈夫かい、と聞くのではなく、大丈夫だよね、と念を押しました。ポポロは顔つきを改めました。相変わらず不安そうな顔はしていますが、それでもきゅっと口を結び、けなげにうなずいて見せます。

 

 ばん、と建物の扉が音を立てて開いたので、外に立っていたオリバンが驚いて振り向きました。そばに来て話をしていたユギルも一緒に振り向きます。

 すると、建物から巨大な生き物が飛び出してきました。白い幻のような風の犬です。その背中には緑の髪の少女が乗っていました。あっという間にオリバンとユギルの目の前を通り過ぎ、風の音を立てながら空へと舞い上がっていきます。

「メール、どこへ行くのだ!?」

 とオリバンが呼びかけると、空の上から返事がありました。

「援軍を呼んでくる! それまで、ポポロと一緒にゼンを守っててよ――!」

「援軍!? どこにそんなものがいるのだ!?」

 オリバンは大声で尋ね返しましたが、その時にはもう、風の犬と少女は空の彼方に飛び去っていました。

 呆気にとられて見送るオリバンに、ユギルが言いました。

「お嬢様方もいよいよ動き出しましたね……。見た目はどんなにか弱くても、あの方たちもれっきとした勇者の仲間です。戦うべき時になれば、必ず立ち上がって戦われるのです」

「だが……」

 闇の軍勢はハルマスに迫っています。敵の狙いはゼンと、メールたち自身です。そんな時に陣地を離れて単独行動を始めたメールたちを、オリバンは心配せずにはいられませんでした。

 すると、建物の入口に小さな人影が現れました。ポポロです。戸口にすがりつくようにしながら、オリバンとユギルに話しかけてきます。

「闇の敵はいつ頃来ますか? どっちの方角から……?」

 オリバンは、黒衣の少女が今にも声を上げて泣き出してしまうのではないかと思いました。大きな瞳をいっそう大きく見張り、真っ青な顔をしています。目の中はすでに涙でいっぱいです。それでも、懸命に泣くのをこらえながら、少女は答えを待っていました。

 ユギルが静かに答えました。

「真夜中過ぎです、ポポロ様。方角は南東から、と出ております。おそらく、エスタとの国境の闇の森から現れるのでしょう」

 ポポロはうなずきました。しきりに涙をぬぐうと、ユギルの言う南東の方角へ目を向けます。遠いまなざしになったのは、なんでも見通す魔法使いの目を使い始めたからに違いありませんでした。

 ユギルはオリバンに言いました。

「殿下、我々も備えましょう。戦いは動きが激しいので、未来が予定を早めて襲いかかってくるようなことも、しばしば起こるのです。――間もなく、ディーラから魔法使いたちが到着します。彼らは城から結界を作るための護具を持ってまいります。それを敷地のまわりに配置できるよう、準備をせねばなりません」

「わかった」

 とオリバンは答え、ユギルと一緒に屋敷へ歩き出しました。その際に、ちらりと黒衣の少女へ目を向けます。

 少女は戸口に立ったまま、青ざめた顔で南東を見つめ続けていました。本当に、年の行かない子どものように小さな姿です。赤いお下げ髪や黒い衣が小刻みに震えているのは、風に吹かれているせいだけではありません。

 その様子がなんとも頼りなさそうで、オリバンは思わず頭を振ってしまいました。早く準備を終えて、ここに戻ってこなくては、と考えます……。

 

 メールを背中に乗せて空を飛びながら、ルルが尋ねました。

「ねえ、援軍って誰のことなのよ!? どこにそんな人がいるって言うの? あてはあるの!?」

 ごうごうと風の音を立てながら飛んでいるので、ついついどなるような言い方になっています。

 彼らの下にはリーリス湖が広がり、行く手にはデセラール山がそびえています。湖が夕焼けを映して赤く輝いています。

 メールは答えました。

「いるさ! 強力な援軍だよ! ルルだって、前に会ったことがあるんだよ! ……今もまだ、いてくれてるといいんだけど」

 最後にそっと、心配そうに本音をのぞかせて、メールはルルと飛び続けました。初冠雪に白く染まったデセラール山の頂上は、夕日に燃えるように染まっていました――。

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