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第7巻「黄泉の門の戦い」

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第5章 夕暮

17.涙

 メールは崖の上に立って、一面の海を眺めていました。海原に突き出した岬の先端です。海と空の境目に伸びる銀の水平線を、黙ったままじっと見つめます。

 足下からは、崖に打ち寄せる波の音が響いてきます。海から吹いてくる風が、長い緑の髪と青いドレスを吹き流します。顔にかかった髪を、メールはうるさそうにかきあげました。

 すると、後ろに人の気配が立ちました。

「メール、何を見ているんだい?」

 と青年の声が話しかけてきます。メールは振り向きもせずに、そっけなく答えました。

「別に何も。海を見てただけだよ」

 青年が近づいてきました。

「メールはいつもそうやって遠くを見てばかりいるね。海の向こうに何かあるのかい?」

 そう言いながら後ろからメールをのぞき込んできます。深い青い眼と青い髪の青年です。短い口ひげをたくわえた顔は、鼻筋が通っていて整っていますが、同時に優しく暖かい雰囲気も漂わせています。笑うような目で、メールの瞳をのぞき込みます。

「別に何もないさ、本当に」

 とメールはまた答えて目をそらしました。何故だか顔が赤くなっていきます。

 青年はトーガと呼ばれる長衣を着て、肩のところを金のブローチで留めていました。ブローチに刻まれているのは、海の王家の紋章です。優しいまなざしでメールを上から下まで眺めてから、また話しかけてきます。

「なんだか淋しそうに見えたよ。未来の夫としては、放ってはおけない気がしたんだけれどね」

 少し冗談めかした言い方も、やっぱり優しさを感じさせます。

 メールは思わず肩をすくめました。

「淋しがってなんかいないったら、アルバ。やだな」

「それならいいけれど……」

 と東の大海の王子は言いましたが、婚約者がまた海に目を向けてしまったので、思わず苦笑いしました。メールは青いドレスを風になびかせています。そのほっそりした姿は、やっぱりどことなく淋しげに見えていたのです。

 

 アルバはメールと並んで立ちました。メールは長身ですが、青年はそれを上回って長身です。細身なのですが、トーガからのぞく首筋や腕にはたくましい筋肉が発達しています。メールのいとこに当たるだけに、どことなく渦王や海王に似た雰囲気があります。

 アルバが言いました。

「メール。結婚式は三ヶ月後だよ」

「うん、わかってる」

 とメールは答えました。何故だかアルバの顔を見ることができません。

「結婚式の準備もある。早く戻ってきてもらわないと」

「わかってるよ。だけど――」

 メールは口ごもりました。何か、大切なことの真っ最中のような気がしていました。とても大事なことです。そう、結婚式よりも、何よりも。

「待ってて。あたい、ちゃんと戻るから。結婚式までには帰るから。ただ、今はまだ――だめなんだよ。どうしても今は戻れないんだ」

 何故、とアルバが尋ねてきました。

「友達を結婚式に招待に行っただけなんだろう? どうして帰ってこられないのさ。こんなに君を待っているのがわからないのかい?」

「アルバ」

 とメールは婚約者に向き直りました。真剣な顔と声で話します。

「あたいの――友達が今、大変なことになってるんだよ。このままじゃ死ぬかもしれないんだ。だから、あたいはまだ島に帰れないんだよ」

「友達?」

「うん、友達」

 答えるメールの胸の奥に鈍い痛みが走ります。

「大事な友達なの?」

 とアルバがまた聞き返しました。

「そう、大事な友達――すごく大事な――」

 メールはそれ以上何も言えなくなりました。うつむいて、唇をかんでしまいます。今にも泣き出してしまいそうでした。

 

 アルバは苦笑するような顔で溜息をつきました。そっとメールの肩をつかんで抱き寄せ、顔を近づけて唇に唇を重ねようとします。

 すると、メールがそれを押しとどめました。顔をそむけてしまいます。

 アルバは、はっきりと苦笑いをしました。

「そうやっていつも拒む。ぼくは君の夫になる人間だよ? キスぐらいしたっていいだろう?」

「結婚したらね。そしたら、キスでもなんでもさせてあげる」

 とメールは目をそらしたまま言いました。メール、とアルバがまた苦笑いをします。メールの瞳から、こらえきれずに涙がこぼれ落ちました――。

 

 すると、急に別の人物が話しかけてきました。あきれたような少年の声です。

「何やってんだ、おまえ。なんで泣いてんだよ?」

 メールは、びっくりして顔を上げました。思わず叫んでしまいます。

「ゼン!?」

「なんだよ」

 すぐ目の前のベッドの上にゼンが起き上がって、あぐらをかいていました。声に負けないくらい、あきれた顔をしています。メールは、ぽかんとそれを見つめてしまいました。

「なんで……あんたがここにいるのさ?」

 と言いながら、急に心配になって後ろを振り向きましたが、そこにはアルバの姿はありませんでした。見えたのはただ、東屋だった建物の内側の壁だけです。気がつけば、メールも青いドレスではなく、いつもの花模様のシャツに半ズボンの姿になっていました。あれ、とメールは目を丸くしました。きょろきょろとあたりを見回してしまいます。

 すると、ゼンが笑いました。

「ほんとに何やってんだよ、おまえ。夢でも見てたんじゃないのか?」

「夢?」

 とメールは繰り返してしまいました。ゼンは目の前に座っています。いつもと変わらない元気そうな様子で、にやにや笑っています。

「夢見て泣いてたのか? ったく、しょうがねえな」

 夢だったの? とメールは心の中でまた繰り返しました。ゼンが魔王の差し向けた毒虫で死にかけていることも、フルートがそれを救いに旅立ったことも、何もかも全部――夢だったの?

 目の前のベッドにはゼンが起き上がっています。あぐらをかいた格好で腕を組み、うん? と言うようにメールを見返してきます。メールは急に全身の力が抜けてしまって、そのまま後ろへ倒れ込みました。メールはベンチに座っていました。背中が壁に受け止められます。

 

 けれども、すぐにメールは苦笑しました。自分を見つめるゼンから目をそらし、足下に目を落として答えます。

「ダメだよ、ゼン……。ここは、あんたを守るために作った建物の中だもん。あんた、やっぱり本当に毒虫に刺されたんだよ……。これもやっぱり夢なんだ。あたいが見ている夢……」

 すると、ちぇっ、とゼンが舌打ちしました。

「おまえな、わかりすぎだぞ。こういう時くらいは『なんだ、夢だったのか、良かったぁ』くらい言ってもいいんだぞ。夢の中で言わなかったら、どこで言うんだよ」

 なんだか変な理屈です。メールはまた笑ってしまいました。笑いながら、また涙がこぼれてきます。

 すると、ゼンが不満そうな声を上げました。

「そら、また泣く。ったく、いいかげんにしろよ。泣いてばかりだろうが、おまえ。ポポロじゃねえんだぞ」

「泣かせてんのは誰さ!?」

 とメールは泣きながら言い返しました。

「いいじゃないのさ、泣くくらい! ホントにゼンは意地悪なんだから――!」

「渦王の鬼姫に涙は似合わねえよ。そんな女らしい玉じゃねえだろ」

 メールは思わず顔を上げてゼンをにらみつけました。怒った拍子に涙が引っ込み始めてしまいます。

 すると、ゼンがまた、にやりと笑いかけてきました。

「それでいい。おまえはこっちの方が断然いいぜ」

 急にゼンの姿が薄れて見えなくなっていきました。ゼン! とメールは悲鳴を上げ、真っ青になって駆け寄りました。ベッドにはもう誰もいません。

 思わず声を上げて泣き出しそうになると、どこからかまたゼンのどなり声が聞こえました。

「だから、泣くなって言ってんだろ!? 泣くな! 俺は大丈夫だからよ――!」

 

 そうして……メールはようやく本当に夢から覚めました。

 

 東屋を改造して作った建物の中は、ほの暗く静かでした。

 メールはベンチの上に横になって眠っていました。誰かが毛布をかけてくれています。隣のベンチには、同じようにポポロが疲れて眠っていました。その下ではルルも眠っています。

 部屋の中央のベッドの上には、ゼンが横たわっていました。土気色の顔も、身動きひとつしない体も、少しも変わっていません。愛用の武器や防具を抱え込むようにしながら、死んだように眠り続けています。その上に、半身をおおうように、毛布がかけられています。

 その枕元に立って、メールは溜息をつきました。ほぉんと、あんたってば意地悪なんだから、と心の中でつぶやきます。夢の中にまで出てきて、泣くな、なんて言うんだからさ――。

 本物の涙がこみ上げてきて、目の縁からこぼれ落ちそうになりました。横たわるゼンの姿がにじみます。

 

 けれども、メールはすぐに乱暴に涙をこすりました。口を歪めて、また心の中でゼンに文句を言います。

 わかってるったら。泣かなきゃいいんだろ、泣かなきゃ。ホントに、あんたってデリカシーないよね!

 何も答えることのない顔から目をそらすと、メールは建物の外に出ていきました。かなりの時間、眠っていたようで、空にはもう夕焼けの雲が広がっていました。少し先の中庭に、いぶし銀の鎧兜を身につけたオリバンの後ろ姿が見えます。

 ふと、メールは首をひねりました。なんだかあたりが賑やかでした。庭の向こうの通りから、ひっきりなしに馬車の音が聞こえてきます。一台や二台ではありません。たくさんの馬車がとぎれることなく通りを走り抜けていくのです。

「なんの騒ぎなの――?」

 とメールは話しかけながらオリバンに近づきました。

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