メールは崖の上に立って、一面の海を眺めていました。海原に突き出した岬の先端です。海と空の境目に伸びる銀の水平線を、黙ったままじっと見つめます。
足下からは、崖に打ち寄せる波の音が響いてきます。海から吹いてくる風が、長い緑の髪と青いドレスを吹き流します。顔にかかった髪を、メールはうるさそうにかきあげました。
すると、後ろに人の気配が立ちました。
「メール、何を見ているんだい?」
と青年の声が話しかけてきます。メールは振り向きもせずに、そっけなく答えました。
「別に何も。海を見てただけだよ」
青年が近づいてきました。
「メールはいつもそうやって遠くを見てばかりいるね。海の向こうに何かあるのかい?」
そう言いながら後ろからメールをのぞき込んできます。深い青い眼と青い髪の青年です。短い口ひげをたくわえた顔は、鼻筋が通っていて整っていますが、同時に優しく暖かい雰囲気も漂わせています。笑うような目で、メールの瞳をのぞき込みます。
「別に何もないさ、本当に」
とメールはまた答えて目をそらしました。何故だか顔が赤くなっていきます。
青年はトーガと呼ばれる長衣を着て、肩のところを金のブローチで留めていました。ブローチに刻まれているのは、海の王家の紋章です。優しいまなざしでメールを上から下まで眺めてから、また話しかけてきます。
「なんだか淋しそうに見えたよ。未来の夫としては、放ってはおけない気がしたんだけれどね」
少し冗談めかした言い方も、やっぱり優しさを感じさせます。
メールは思わず肩をすくめました。
「淋しがってなんかいないったら、アルバ。やだな」
「それならいいけれど……」
と東の大海の王子は言いましたが、婚約者がまた海に目を向けてしまったので、思わず苦笑いしました。メールは青いドレスを風になびかせています。そのほっそりした姿は、やっぱりどことなく淋しげに見えていたのです。
アルバはメールと並んで立ちました。メールは長身ですが、青年はそれを上回って長身です。細身なのですが、トーガからのぞく首筋や腕にはたくましい筋肉が発達しています。メールのいとこに当たるだけに、どことなく渦王や海王に似た雰囲気があります。
アルバが言いました。
「メール。結婚式は三ヶ月後だよ」
「うん、わかってる」
とメールは答えました。何故だかアルバの顔を見ることができません。
「結婚式の準備もある。早く戻ってきてもらわないと」
「わかってるよ。だけど――」
メールは口ごもりました。何か、大切なことの真っ最中のような気がしていました。とても大事なことです。そう、結婚式よりも、何よりも。
「待ってて。あたい、ちゃんと戻るから。結婚式までには帰るから。ただ、今はまだ――だめなんだよ。どうしても今は戻れないんだ」
何故、とアルバが尋ねてきました。
「友達を結婚式に招待に行っただけなんだろう? どうして帰ってこられないのさ。こんなに君を待っているのがわからないのかい?」
「アルバ」
とメールは婚約者に向き直りました。真剣な顔と声で話します。
「あたいの――友達が今、大変なことになってるんだよ。このままじゃ死ぬかもしれないんだ。だから、あたいはまだ島に帰れないんだよ」
「友達?」
「うん、友達」
答えるメールの胸の奥に鈍い痛みが走ります。
「大事な友達なの?」
とアルバがまた聞き返しました。
「そう、大事な友達――すごく大事な――」
メールはそれ以上何も言えなくなりました。うつむいて、唇をかんでしまいます。今にも泣き出してしまいそうでした。
アルバは苦笑するような顔で溜息をつきました。そっとメールの肩をつかんで抱き寄せ、顔を近づけて唇に唇を重ねようとします。
すると、メールがそれを押しとどめました。顔をそむけてしまいます。
アルバは、はっきりと苦笑いをしました。
「そうやっていつも拒む。ぼくは君の夫になる人間だよ? キスぐらいしたっていいだろう?」
「結婚したらね。そしたら、キスでもなんでもさせてあげる」
とメールは目をそらしたまま言いました。メール、とアルバがまた苦笑いをします。メールの瞳から、こらえきれずに涙がこぼれ落ちました――。
すると、急に別の人物が話しかけてきました。あきれたような少年の声です。
「何やってんだ、おまえ。なんで泣いてんだよ?」
メールは、びっくりして顔を上げました。思わず叫んでしまいます。
「ゼン!?」
「なんだよ」
すぐ目の前のベッドの上にゼンが起き上がって、あぐらをかいていました。声に負けないくらい、あきれた顔をしています。メールは、ぽかんとそれを見つめてしまいました。
「なんで……あんたがここにいるのさ?」
と言いながら、急に心配になって後ろを振り向きましたが、そこにはアルバの姿はありませんでした。見えたのはただ、東屋だった建物の内側の壁だけです。気がつけば、メールも青いドレスではなく、いつもの花模様のシャツに半ズボンの姿になっていました。あれ、とメールは目を丸くしました。きょろきょろとあたりを見回してしまいます。
すると、ゼンが笑いました。
「ほんとに何やってんだよ、おまえ。夢でも見てたんじゃないのか?」
「夢?」
とメールは繰り返してしまいました。ゼンは目の前に座っています。いつもと変わらない元気そうな様子で、にやにや笑っています。
「夢見て泣いてたのか? ったく、しょうがねえな」
夢だったの? とメールは心の中でまた繰り返しました。ゼンが魔王の差し向けた毒虫で死にかけていることも、フルートがそれを救いに旅立ったことも、何もかも全部――夢だったの?
目の前のベッドにはゼンが起き上がっています。あぐらをかいた格好で腕を組み、うん? と言うようにメールを見返してきます。メールは急に全身の力が抜けてしまって、そのまま後ろへ倒れ込みました。メールはベンチに座っていました。背中が壁に受け止められます。
けれども、すぐにメールは苦笑しました。自分を見つめるゼンから目をそらし、足下に目を落として答えます。
「ダメだよ、ゼン……。ここは、あんたを守るために作った建物の中だもん。あんた、やっぱり本当に毒虫に刺されたんだよ……。これもやっぱり夢なんだ。あたいが見ている夢……」
すると、ちぇっ、とゼンが舌打ちしました。
「おまえな、わかりすぎだぞ。こういう時くらいは『なんだ、夢だったのか、良かったぁ』くらい言ってもいいんだぞ。夢の中で言わなかったら、どこで言うんだよ」
なんだか変な理屈です。メールはまた笑ってしまいました。笑いながら、また涙がこぼれてきます。
すると、ゼンが不満そうな声を上げました。
「そら、また泣く。ったく、いいかげんにしろよ。泣いてばかりだろうが、おまえ。ポポロじゃねえんだぞ」
「泣かせてんのは誰さ!?」
とメールは泣きながら言い返しました。
「いいじゃないのさ、泣くくらい! ホントにゼンは意地悪なんだから――!」
「渦王の鬼姫に涙は似合わねえよ。そんな女らしい玉じゃねえだろ」
メールは思わず顔を上げてゼンをにらみつけました。怒った拍子に涙が引っ込み始めてしまいます。
すると、ゼンがまた、にやりと笑いかけてきました。
「それでいい。おまえはこっちの方が断然いいぜ」
急にゼンの姿が薄れて見えなくなっていきました。ゼン! とメールは悲鳴を上げ、真っ青になって駆け寄りました。ベッドにはもう誰もいません。
思わず声を上げて泣き出しそうになると、どこからかまたゼンのどなり声が聞こえました。
「だから、泣くなって言ってんだろ!? 泣くな! 俺は大丈夫だからよ――!」
そうして……メールはようやく本当に夢から覚めました。
東屋を改造して作った建物の中は、ほの暗く静かでした。
メールはベンチの上に横になって眠っていました。誰かが毛布をかけてくれています。隣のベンチには、同じようにポポロが疲れて眠っていました。その下ではルルも眠っています。
部屋の中央のベッドの上には、ゼンが横たわっていました。土気色の顔も、身動きひとつしない体も、少しも変わっていません。愛用の武器や防具を抱え込むようにしながら、死んだように眠り続けています。その上に、半身をおおうように、毛布がかけられています。
その枕元に立って、メールは溜息をつきました。ほぉんと、あんたってば意地悪なんだから、と心の中でつぶやきます。夢の中にまで出てきて、泣くな、なんて言うんだからさ――。
本物の涙がこみ上げてきて、目の縁からこぼれ落ちそうになりました。横たわるゼンの姿がにじみます。
けれども、メールはすぐに乱暴に涙をこすりました。口を歪めて、また心の中でゼンに文句を言います。
わかってるったら。泣かなきゃいいんだろ、泣かなきゃ。ホントに、あんたってデリカシーないよね!
何も答えることのない顔から目をそらすと、メールは建物の外に出ていきました。かなりの時間、眠っていたようで、空にはもう夕焼けの雲が広がっていました。少し先の中庭に、いぶし銀の鎧兜を身につけたオリバンの後ろ姿が見えます。
ふと、メールは首をひねりました。なんだかあたりが賑やかでした。庭の向こうの通りから、ひっきりなしに馬車の音が聞こえてきます。一台や二台ではありません。たくさんの馬車がとぎれることなく通りを走り抜けていくのです。
「なんの騒ぎなの――?」
とメールは話しかけながらオリバンに近づきました。