夜の中庭は冷え切っていました。
風も吹かない夜です。見上げる空には半月が輝き、吐き出す白い息ににじみます。
はあ、とゼンはまた溜息をつきました。もう何十回目、何百回目の溜息かわかりません。腕組みしたまま庭の立木にもたれて、ただただ月を見ています。
すると、月の光を浴びて、一匹の蛾が飛んできました。ひらひらとゼンのまわりを一周してから、また離れていきます。その羽根が白い花でできているのに気がついて、ゼンは思わず顔をしかめました。花使いが作った、花の虫だったのです――。
案の定、間もなく花の蛾の後についてメールがやってきました。毛織りのマントをはおって、白い息を吐いています。その足取りは森の獣のようにひそやかで、ほとんど足音を立てません。
メールは庭の木々の間にゼンの姿を見つけると、蛾に呼びかけました。
「ありがと、もういいよ」
すると、あっという間に蛾は地面に落ち、ほどけて花に戻りました。その場に根を下ろして静かに咲き始めます。
ゼンは腕組みしたまま月を見続けていました。近づいてくるメールのほうへ、ちらりとも目をやろうとはしません。
メールは肩をすくめました。
「どうしちゃったのさ、ゼン。急に広間から出ていったきり戻ってこないんだもん。こんなところで何してるわけ?」
返事はありません。
メールはゼンの前に立つと、つくづくと見下ろしました。だいぶ背が伸びてきたゼンに比べて、メールの方は背はもうあまり伸びません。以前はゆうに頭一つ分違っていた身長も、今は頭半分くらいまで近づいていました。けれども、それでもやっぱりメールのほうが背は高いのです。
ゼンが目を合わせようとしないので、メールはまた大きく肩をすくめました。
「ホントにどうしたのさ、ゼン……。あたいが結婚するってのが、そんなに意外だったのかい? でも、別に秘密にしてたわけじゃないよ。どうせ言うなら、みんなに一度に言った方がめんどくさくないと思っただけさ。さっき、みんなにも言ったんだけど、結婚式は来年の二月なんだ。ゼンも出席して――」
ふいにゼンが横へ動きました。メールを無視して歩き出します。
メールは驚いた顔になり、たちまち、ぷうっとふくれました。怒りながら後を追いかけます。
「ちょっと、ゼンったら! 人の話を聞きなよ! 結婚式には来てくれって言ってるんじゃないのさ!」
「誰が行くか」
とゼンは答えました。意外なくらい、低くて冷ややかな声です。
「おまえの結婚式なんて、あんまり馬鹿馬鹿しくて見てらんねえよ。絶対に、出席なんかするもんか――」
メールはますますふくれっ面になりました。
「ちょっとぉ、それどういう意味さ!? どうしてあたいの結婚式が馬鹿馬鹿しいんだい!?」
後ろから手を伸ばしてゼンの服の背中をつかまえると、とたんに、驚くほどの激しさでそれを振り払われました。メールは一瞬茫然とすると、たちまちかっとなって、わめき立てました。
「何を怒ってんのさ、ゼン!? ホントにわけわかんないね! あたいはただ、あんたにも『おめでとう』って言ってもらいたいだけなんだよ! そんな挨拶もできないくらい、あんたって礼儀知らずだったわけ!?」
メールに背を向け続けるゼンの顔が歪みました。さっきからずっと痛んでいた胸に、メールのことばが新たに突き刺さってきます。いつもなら売りことばに買いことばで盛大な口喧嘩になるところなのに、痛すぎて、なにも言い返すことができません。ただ両手の拳を握りしめてしまいます。
ゼンが何も言わないので、メールは今度はけげんな顔になりました。またゼンの前に回ってきます。ゼンが顔をそむけると、眉をひそめて言いました。
「どうしたのさ……? 具合悪いのかい?」
メールの声は本気でゼンを心配していました。ゼンは思わず大きく溜息をつくと、そばの立木にまた寄りかかりました。なんだか苦笑いがこみ上げてきてしまいます。
結局、こんなもんか――とゼンは心の中でつぶやきました。
謎の海の戦いで初めて出会った時から、喧嘩のし通し、悪口の言い通しだった自分とメールです。そんな彼女が、もしかしたら自分を好きなのかもしれない、と気がついたのは北の大地の戦いの時でした。けれども、それを尋ねたゼンに、メールはきっぱりと言ったのです。
「あたいがあんたを好きだって? 馬鹿も休み休み言いな。寝ぼけてんじゃないよ!」
それでも、ゼンはなんとなく期待していたのでした。口ではなんと言っていても、メールは本当はやっぱり自分を好きでいてくれるんじゃないか、ただ強がって、本当のことを言えないでいるだけなんじゃないか……と。
本当に気が強いメールです。負けず嫌いでおてんばで、少しも素直なことを言いません。けれども、その気性はまっすぐで、拗ねる様子のすぐ裏側に、淋しがり屋の本音が透けて見えていました。そんな彼女が、ゼンにはたまらなくかわいらしく思えていたのです。
とんだうぬぼれだったよな、とゼンは考えました。結局、自分とメールはあくまでも喧嘩友達。それ以上のものではなかったんだ、と。
ゼンはまた溜息をつくと、木にもたれたまま腕組みをしました。苦笑いしながらメールを見上げます。
「ったく……物好きなヤツもいたもんだよな。こんなおてんばと結婚しようなんて言うんだから。赤ん坊もろくに抱けないようなヤツなのによ」
メールは驚いた顔になると、すぐに、ぷんと口をとがらせました。
「いいじゃないか。すぐに子どもができるわけじゃなし。ほんとにゼンは意地悪なんだからさ」
本気で怒った顔で文句を言ってきます。ゼンは笑いました。なんだかもう本当に、笑うしかない気持ちでした。
すると、メールはますますむくれながら言いました。
「それにね、あたいがおてんばだってアルバは全然気にしないんだよ。そりゃ、あたいは気が強いし負けず嫌いだけどさ、そこがかわいいんだ、ってアルバは言ってくれたんだから――」
ゼンの顔から一瞬で笑いが吹き飛びました。自分が考えていたのとまったく同じことをメールの耳にささやいた男に、猛烈な怒りを感じてしまいます。それは焼けつくような嫉妬の感情でした。
ゼンはもたれていた木から跳ね起きると、メールに向かってどなり出しました。
「どこがかわいいってんだ! おまえみたいな男勝りの鬼姫が!? そいつの目はどうかしてらぁ! 頭が変になってるんじゃないのか!?」
メールの顔が驚きから、また怒りの表情に変わっていきました。最高に怒った時の目でにらみつけてきます。
「ちょっと、ゼン。アルバのこと悪く言わないどくれよ――。いいじゃないか、アルバがあたいに何て言ったって。ゼンには関係ないことだよ」
「ああ、関係ねえよ! ただ、そのアルバってヤツが気の毒だって言ってるのさ! 目の迷いでこんな男女と結婚するなんてよ! 絶対におまえらが幸せになんかなるもんか! おまえら、すぐに破局だぞ!」
「ご挨拶だね。仮にもそれが婚約中の友達に言うセリフかい? 見損なったよ、ゼン。そんなヤツだったとは思わなかった!」
メールはくるりと背を向けると、ぷりぷり怒りながら立ち去ろうとしました。その腕をゼンはつかまえました。
「待てよ、話はまだ終わってねえぞ!」
「話すことなんてもうあるもんか! ゼンなんか大っ嫌いだ! アルバの方が、ゼンの千倍も優しいよ――!!」
ゼンの中で、何かがぶつりと音を立ててちぎれました。
いきなりメールの手を引いて、乱暴に自分へ向き直らせます。その左手の薬指に青い指輪がはまっているのを見て、また、かっと頭に血が上ります。
「何が婚約指輪だ! こんなもん――!」
と力ずくでメールの指から抜き取ろうとします。
メールは悲鳴を上げると、とっさに左手を強く握りしめました。ゼンがどんなに手を広げさせようとしても、驚くほどの力で指を握り込んでいて絶対に放しません。ゼンと激しくもみ合いながら、必死で指輪を守り続けます。
その様子がまたゼンを逆上させました。怒りのあまり、頭の中が真っ白になっていきます。
「渡すもんかよ――」
ゼンは低い声でうなりました。少女の細い両手首を強くつかみ、他に何も見えなくなっている目でにらみつけます。
メールが恐怖にかられた表情に変わりました。ゼンの怒り方は尋常ではありません。本当に殺されてしまいそうな気がして、おびえて後ずさってしまいます。
それを強く引き留めて、ゼンは顔を近づけていきました。うなるような声のまま、低く言い続けます。
「絶対誰にも渡すもんか――。おまえは、俺のもんだ――」
メールが目を見張りました。抵抗するのも忘れて、ゼンを見つめ返してしまいます。
それを力ずくで座らせて、ゼンは唇に唇を重ねました。つかんでいたメールの手を離し、代わりにその体と頭を抱きしめて、強く唇をふさいでいきます。メールが咽の奥で上げた細い悲鳴を、重ねた口で飲み込みます。
頭上で半月が輝いていました。夜空に星がまたたきます。吹く風もなく、虫もすでに寒さに死に絶えて、どこからも何の音も聞こえてきません。たださえざえとした月の光の中で、少年は少女を抱きしめ、激しく唇を求め続けます。
少女の華奢な両腕が、抱きしめる少年の両脇から空に差し伸べられていました。白い手がとまどうように宙を泳ぎ、やがて、ためらいながら下りてきます。少年の広い背中を抱き返そうとします。
ところが、その腕が寸前で止まりました。左手が、薬指の指輪を確かめるように、ぎゅっと強く握られます――。
メールはまた、猛烈に抵抗を始めました。両手でゼンの体をつかみ、必死で押し返そうとします。
ゼンはますます強くメールを抱きしめました。逃がすまい、放すまいと、強く深く唇を重ね続けます。
と、突然ゼンは、うぉっと声を上げ、メールを放して飛びのきました。片手で押さえた口の中に、血の味が広がっていきます。メールに舌にかみつかれたのです。
「な、なにしやがんだ、いきなり――!」
とゼンはわめきました。
すると、メールがそれを上回る大声で言い返します。
「それはあたいのセリフだろ!! 誰があんたのものだって!? 冗談じゃない! あたいは、あたいのもんさ! よく覚えときな!!」
少女の剣幕に、少年は何も言えなくなりました。怒って立ち去っていく後ろ姿を、ただ茫然と見送ってしまいます――。
肩を怒らせ、夜の中庭の小道を走るように屋敷へ戻りながら、メールはいつか泣き出していました。
ゼンが言ったことばが、耳の奥で際限なく繰り返されています。渡すもんか、絶対誰にも渡すもんか。おまえは、俺のもんだ――と。
それは、本当に長い間、メールが待ち続けていたことばでした。ゼンだけに見つめてもらって、ゼンだけに必要にしてもらえるような、そんな特別な一人になりたいと、ずっと願って待っていたのです。
待って、待って、待ち続けて――あまり長く待ちすぎて、もう待ちきれなくなってしまった時、メールに求婚者が現れました。優しくて頼もしい、いとこのアルバでした。
メールを妻にほしいのだ、言われ、それが本気なのだと知って、メールは、ちょうどよい潮時だと考えました。どうせ、これ以上いくら待っても、ゼンは自分を振り向かないのに決まってます。いつまでも、こんな中途半端な気持ちを抱き続けるのは、つらくて切なくて嫌だったのです。
メールは心を決めました。ゼンを忘れて、アルバの妻になることにしたのです。そうすれば、きっともう、こんな苦しい想いはしないですむだろう。そんな期待もありました。
海の民は早熟で、十四で結婚するのは当たり前のことです。話はとんとん拍子に進んでいって、結婚式はもう、三ヶ月後にまで迫っていました。
メールは今回、仲間たちに別れの挨拶をするためにやってきたのでした。
結婚してしまえば、メールももう、次期海王の妻です。世界の海を治める王の片腕になるため、さまざまなことを覚えていかなくてはなりません。もう金の石の勇者の仲間として、一緒に旅するわけにはいかなかったのです。
自分自身に区切りをつけるためにも、仲間たちを結婚式に招待して、そして、ゼンに祝ってもらいたいと思いました。口の悪いゼンですが、それでも、きっと言ってくれるだろうと思ったのです。「ったく、鬼姫が結婚だなんて似合わねえよな。ま、せいぜいがんばって、幸せになれよ」と。
ゼンはかわいいポポロが好きです。きっと、そう言ってくるに違いないと思っていたのに――。
事態はまったく思いがけない結果になってしまいました。
今さら、こんなふうに、望んでいたことばを聞かされるとは思ってもいませんでした。ぬぐってもぬぐっても、メールの瞳からは涙があふれ続けます。
泣きながら、怒りながら、メールは夜の中庭を走り続けました。そうしながら、少女はいつか、叫ぶようにつぶやいていました。
「どうしてもっと早く言ってくんなかったのさ! 馬鹿――ゼンの馬鹿! もう、遅いんだよ!」
……と。