ランジュールは時の鏡の岩屋で最後に戦ったときと同じように、マンティコアに合体した姿をしていました。赤いたてがみに囲まれた顔が、にやにや笑いながらケルベロスとその上の老人を眺めます。ケルベロスとマンティコアはほとんど同じくらいの大きさです。
魔獣使いの長老がどなりました。
「ランジュール! おぬし、あの世から召喚されてきおったのか!」
「違うよぉ、導師」
とランジュールが答えます。くすくすと楽しそうな笑い声を立てます。
「魔法使いのお嬢ちゃんが巨人を呼ぼうとしてる声が聞こえたからさぁ、それより先にボクが飛び出してきたんだよ。マンちゃんと一緒にね。だぁって――」
細い眼が、ちろっと危険な色を浮かべました。
「――彼らはボクが戦って負けちゃったヤツらだよ。敵ながらホントに強かったと思うな。その彼らを導師が殺すってのは、ボクとしては我慢できないんだよねぇ。悔しくて悔しくて、さ。だから、導師には、絶対彼らを殺させてあげないんだ」
「なにを世迷い言を」
魔獣使いの長老が吐き出すように言いました。まぶかにかぶったフードの陰で、顔をしかめた気配がします。暗い灰色の衣から、骨張った手をランジュールに向けました。
「あの世へ戻れ、ランジュール! おぬしはもう、この世界のものではないのじゃ」
「そんなの、言われなくてもちゃんとわかってるよぉ。すぐに帰るさ。最後のおやつを食べたらねぇ」
そう言うなり、ランジュールはいきなりケルベロスに食いついていきました。その頭上に座っていた長老を、ばくりと口の中にほおばります。
その光景を見ていた者たちは、いっせいに青ざめました。三列に並んだマンティコアの牙の間から、骨がかみ砕かれ、肉が食いちぎられていく音が響いてきます。老人の断末魔の絶叫が大広間を揺るがします――
ごくり、と咽を鳴らし、血の色に染まった舌で唇をなめ回して、ランジュールは、うふふ、と笑いました。
「ちょっと骨っぽかったけど、ま、こんなもんかなぁ」
皇太子も子どもたちも、真っ青になってランジュールを見上げていました。キーレン伯爵やメンデオ公爵も、死人のような顔色になって、身動きすることができません。
すると、マンティコアのランジュールが皇太子とフルートを見て、また笑いました。
「うふふ。もうちょっと時間があったら、キミたちのことも食べてあげたんだけどねぇ。魔法使いのお嬢ちゃんの魔法って、あんまり長く続かないんだね。もう時間切れさ。ざーんねん。あの世に戻らなくちゃ――」
みるみるうちに、その姿が淡い星のような光に包まれて薄れ始めました。再びこの世から姿を消しながら、ランジュールが楽しそうに言いました。
「ケルベロスさ……導師がいなくなったから、コントロール効かなくなってるからねぇ。そのワンちゃんも腹ぺこだから、食われちゃわないように、気をつけるんだよぉ……」
くすくすくす、とおなじみの笑い声を残して、ランジュールは消えていきました。星のきらめきのような光が薄れていきます――。
呆然と立ちつくす人々の耳に、獰猛な獣の声が聞こえてきました。ケルベロスが低く身構えてうなり出したのです。ランジュールが言ったとおり、もうこの怪物を制御する者はいません。魔犬は自分たちの依頼主だったキーレン伯爵に目を向けると、出しぬけに飛びかかっていきました。柱のような前足で押さえ込み、三つの頭でいっせいにかみつこうとします。キーレン伯爵の悲鳴が上がります。
すると、その頭にフルートが切りかかっていきました。ロングソードで鋭い一太刀を浴びせます。それを見て我に返った皇太子が別の頭に切りつけ、さらにもう一つの頭には風の犬のルルが飛びかかっていきます。
ゼンが走り寄り、力任せにケルベロスの足を持ち上げて、その下から伯爵を引っ張り出しました。伯爵は顔面蒼白で、声も出せずに震えていました。
ちっ、とゼンは舌打ちしました。
「俺だったら、絶対におまえなんか助けねえぞ。ケルベロスに骨まで食わせてやる。フルートだからおまえを助けるんだ。そこんとこ、しっかり頭にたたき込んでおけよ!」
そう言うなり、玉座のある壇上へ伯爵を放り上げました。いささか勢いがつきすぎて、伯爵は壇の奥の壁にたたきつけられ、そのまま床に倒れて気を失ってしまいました。
「そら、あんたもだ! 邪魔なんだよ!」
とゼンは灰色の口ひげのメンデオ公爵も捕まえて壇上に放り投げました。公爵は気絶こそしませんでしたが、やっぱり床にたたきつけられて、そのまま動けなくなってしまいました。
彼らの目の前で、ケルベロスの傷が治っていきました。三つの頭でまた激しく吠えたて、フルートや皇太子に襲いかかろうとします。
その時、鋭い少女の声が響きました。
「お行き! あいつを縛るんだよ!」
大部分の人間を部屋の外へ逃がしたメールが、花の群れに呼びかけていました。ザーッと飛んできた花がいっせいにケルベロスにまとわりつき、蔓の茎を伸ばして全身を絡めとっていきます。それを引きちぎろうと犬が暴れていると、さらに別の少女の声が高らかに聞こえてきました。
「ケーヌラツオキーテヨラシハキターカ!」
ポポロの二つめの魔法です。伸ばした少女の指先から星の光が散り、次の瞬間、磨き上げられた石の床から、どん、と鋭い岩の柱が突き出しました。真上にいたケルベロスの腹を串刺しにします。
「やったぜ!」
ゼンは思わず歓声を上げました。ケルベロスは三つの口から血の泡を吹き、その場から動けなくなっています。
けれども、フルートは厳しい顔のまま言いました。
「まだだ! あいつは闇の怪物だ。あれくらいじゃ死なない!」
そのことばを証明するように、ケルベロスがまた動き出しました。岩の柱に突き刺された体を無理やり動かし、自分自身の体を引き裂きながら、柱から脱出してきます。めりめりと体が裂ける音が響かせながら、闇の怪物がまたフルートたちに迫ります。メールが操る花の蔓も引きちぎっていきます。
「ポチ!」
とフルートは叫び、飛んできた風の犬に飛び乗りました。
「あいつの目の前を飛ぶんだ! ここじゃ、あいつにとどめが刺せない。あいつを城の外におびき出そう!」
自分自身をおとりにして、怪物を城の外へ連れ出そうというのです。ポチは一瞬何かを言いかけ、すぐにワン、と鳴きました。
「わかりました。しっかりつかまって!」
ポチはそのままぐんとスピードを上げ、ケルベロスのすぐ目の前を飛び始めました。鋭い牙の並ぶ口の間をすり抜け、すぐ後ろに噛み合う歯の音を聞きながら、三つの頭を大広間のバルコニーの方向へ誘います。
ケルベロスが完全に岩の柱から脱出しました。二つに裂けた体がまた合わさり、溶け合うように一つになって、たちまち毛におおわれていきます。
と、いきなり魔犬が跳躍しました。先を飛ぶポチに一足で追いつくと、前足でフルートをたたき落とします。フルートはもんどり打って床に落ちると、その場に倒れました。そこへケルベロスが牙をむいて襲いかかってきます。床にたたきつけられたフルートは動くことができません。
「フルート!」
「馬鹿者――!」
ゼンと皇太子が同時に走り出しました。駆け寄ってフルートを助け出そうとします。
その時、フルートの胸元から、小さな声が聞こえてきました。
「ほんとにもう、君はしょうがないなぁ……」
溜息をつくような、苦笑いをするような、幼い少年の声です。
それと同時に、すさまじい光が胸元からほとばしりました。澄んだ金の光です。
すると、光を浴びたケルベロスが突然床に倒れ、もがき苦しみ始めました。その全身がどろどろに溶け始めます。三つの頭が消え、巨大な犬の体が崩れ、さらに小さく小さく溶けていって、やがて、跡形もなく消え去ってしまいます――。
金の光が吸い込まれるように薄れていきました。その後には金色に光るペンダントが揺れています。
魔法の金の石は、ペンダントの中央で一瞬きらりと輝くと、音もなくまた灰色に戻っていきました……。