皇太子からいきなり殴り飛ばされ、いいかげんにしろ、とどなられて、フルートは呆気にとられてしまいました。大理石の床に座りこんだまま、皇太子の顔を見上げてしまいます。
すると、そんなフルートに皇太子がかがみ込んできました。ものすごい剣幕でどなり続けます。
「きさまはまったく大馬鹿者だ!! 世界を守る光になりに行くだと!? 身勝手もいいかげんにしろ!!」
「身勝手?」
フルートは思わず繰り返してしまいました。そんなふうに言われるとは、予想もしていなかったのです。けれども、皇太子は口調をまったくゆるめませんでした。
「友達がどれほどきさまの心配をしているのか、見てわからんのか!? きさまは友達全員を泣かせているのだぞ! 皆に幸せになってもらいたい? 立派なことだ。だが、肝心の友達を不幸にしたままでかまわんというのか!? きさまがやろうとしていることは、ただの自分勝手だぞ!!」
フルートはびっくりしました。本当に、そんなふうには全然考えていなかったのです。あわてて仲間たちを見回して、全員が本当に泣き顔になっているのに気がついて、またうろたえました。ポポロだけではなかったのです。メールもルルも大粒の涙を流しています。ポチは涙を流せませんが、泣くより悲しい顔でフルートを見つめています。そして、ゼンでさえ、フルートをにらむ目に涙をにじませていました。フルートの視線に気がつくと、くるりと背中を向けてしまいます。
フルートは何も言えなくなりました。
皇太子が「きさまは皆を悲しませているぞ」と言えば、これほど動揺はしなかったのです。「友達を不幸にしたままでかまわんのか」という一言が、どうしようもなく、フルートの心に迫っていました。そんなつもりはないのです。反対です。彼らに幸せになってもらいたい一心で行こうと思っているのに――。
すると、ポポロがフルートの前に座り込みました。後から後から流れ続ける涙で頬を濡らしながら、フルートに向かって訴えます。
「フルート、フルートがいなかったら、あたしたちはもう笑えない……。魔王が消えて、デビルドラゴンも消えて、世界がどんなに幸せになったって……フルートがそこにいなかったら、あたしたちはもう二度と笑えないのよ……」
すると、その後ろにメールが立ちました。こぼれ落ちる涙を拳でぬぐいながら言います。
「ポポロの言うとおりさ、フルート。あたいたちは、あんたが一緒でなかったら、全然幸せになれないんだよ。あんたは、あたいたちのリーダーじゃないか。リーダーが仲間を置いて、勝手に行ったりしちゃダメなんだよ――」
ひっく、とメールは大きくしゃくり上げ、後はもう何も言えなくなって泣き続けました。がむしゃらに涙をこすったので、目のまわりが真っ赤になってしまいます。
ポチがポポロのかたわらから飛び出してきてフルートに飛びつきました。堅い鎧を着た体に何度も体当たりをしてきます。フルートが驚いてそれを止めると、ポチが叫びました。
「だめですよ、フルート! お父さんやお母さんを悲しませちゃだめです! お母さんがまた倒れちゃうじゃないですか! それに、それに――」
ポチは大きな黒い瞳に精一杯の悲しみと想いを込めて、フルートの顔を見つめました。
「――お兄さんは、弟を置いてきぼりにしたりしちゃだめなんですよ!」
フルートは目を見張りました。ポチ、とつぶやいたきり、また声が出なくなります。
すると、ポチの隣にルルが来ました。天空の国のもの言う犬は泣くことができます。大粒の涙を流しながら、言いました。
「闇の声の戦いの時、フルートは言ってくれたわよね。あたしたちも幸せになっていいんだ、って……あたしたちだって、自分を幸せにすることを考えていいんだ、って……。だったら、フルートだって幸せにならなくちゃ。みんなで、一緒に幸せにならなくちゃ……そうでしょう?」
皆が必死でフルートに訴える中、ゼンだけは一人背中を向け続けていました。無数の灰色の鏡の間で、オパールの壁は虹の色に輝いています。ゼンは両手を拳に握りしめてそれを見ていました。そうしながら、フルートが返事をするのを待っていたのですが、フルートはとうとう何も言いませんでした。わかった、とも、行かないよ、とも何も……。
ゼンはフルートに背中を向けたまま大きな溜息をつきました。
「俺たちがこんなに言って止めたって、やっぱりおまえは行くんだろう? おまえはそういうヤツだもんな。絶対に、自分の考えを曲げねえんだ。――この石頭! どうしても行くってんなら行っちまえよ、馬鹿野郎!!」
怒って吐き出すような口調です。他の仲間たちはたちまち顔色を変えました。あわてふためき、またフルートを引き止めようとします。
「ゼン」
とフルートは親友の後ろ姿を見つめました。淋しさと優しさがその顔を横切ります。そのまま、また別れを告げて去っていきそうな気配が漂います。
すると、ゼンが続けて言いました。
「行くんならさっさと行け! もう止めねえよ! その代わり――俺のことも一緒に連れて行け! 俺も一緒に光になってやる! そして、おまえらと一緒に世界を守ってやる! そんなら許してやらぁ!」
ゼンが振り向きました。その頬の上には、はっきりと二筋の涙の跡がありました。それをぬぐいもせず、ゼンはフルートの胸の上のペンダントに向かってどなりました。
「金の石! 金の石の精霊! 出てきやがれ!!」
淡い金の光がわき起こって、フルートの隣に小さな金色の少年が立ちました。子どもたちのすぐそばです。
驚いている子どもたちには目もくれずに、小さな少年は答えました。
「なに、ゼン?」
まるで、ずっと昔からゼンを知っていたような口ぶりでした。いえ、本当にそうなのです。金の石は最初の戦いの旅のその時から、ずっと一緒にいたのですから。
ゼンは金の石の精霊に向かってどなり続けました。
「願い石に願えよ! フルートだけでなく、俺も一緒に連れて行くって! 世界ってのは広いんだろ? それを全部おおって、デビルドラゴンまで倒そうってんだから、二人より三人の方が力になるはずだぞ!」
「ゼン――!」
フルートは思わず叫びました。声が震えます。フルートは泣き出しそうになったのでした。
金の石の精霊は小首をかしげました。遠く離れた鏡を振り向いて声をかけます。
「どう、願いの? こういうのも願い事に含めて大丈夫なのかな?」
鏡のガラスを空気のように通り抜けて、願い石の精霊が外に出てきました。と思うと、次の瞬間には、子どもたちのすぐ目の前まで来ていました。子どもたちは仰天して、思わず身をひきました。燃えるように赤い髪に、赤金色の火花を散らしたようなドレス――本当に、炎のように激しい姿の精霊です。
赤い精霊が、金色の精霊に答えました。
「そなたたちが真にそれを望むならば。それが本当の願いならば、私はそれをかなえよう」
「だめだ! そんなのは絶対だめだ!」
とフルートは激しく首を振りました。とたんに、ゼンがどなり返します。
「うるせえ! 言ったはずだぞ! 俺はずっとおまえと一緒に行くんだ! 地獄の果てだって、光の中だって――おまえが行くところなら、どこまでだって俺は行くんだよ!」
「俺たち、だよ、ゼン。あたいたちのことを抜かすんじゃないよ」
とメールが言いました。まだ目に涙はありましたが、いつもの気の強い表情に戻って、にやりと笑います。
「行くんなら、みんな一緒さ。ねえ、ポチ、ポポロ、ルル――?」
そう問われて、他の仲間たちもいっせいにうなずきました。全員が真剣な顔をしています。
「みんな……」
フルートはつぶやいたきり、声が出なくなりました。何と言っていいのかわからなくなります。
子どもたちの後ろから皇太子が尋ねました。
「これでもおまえは行くというのか? こんなにも想ってくれる友達を残して。金の石の勇者というのは、そんなにも薄情なものだったのか?」
すると、金の石の精霊が肩をすくめました。いやに人間じみた表情で苦笑いをしながら、フルートを見上げます。
「だめだな。ぼくたちの方が分が悪いよ、フルート。皇太子の言うとおりなんだ。彼らを不幸にしたままで、世界中の幸せを守ることなんかはできないんだよ」
「金の石!」
フルートは思わず叫びました。それじゃデビルドラゴンはどうするのさ、と尋ねようとします。
すると、逆に金の石が尋ねてきました。
「フルート、君はこれからもぼくと一緒に闇と戦ってくれるかい? 何度デビルドラゴンが襲ってきても、どんなに戦いが苦しくても、世界を守ろうとしてくれる?」
フルートはとまどいました。
「それは――もちろん。だけど――」
それを聞いて、金の石の精霊はほほえみました。本当に、精霊らしくない、人間のような笑い方でした。
「それなら、君はぼくを裏切ったことにはならない。ぼくも砕けてしまわない。それでいい、フルート。きっと、他にもやり方はあるはずさ。それを探すことにしよう――」
金色の少年は赤い願い石の精霊の方を振り向きました。
「ということだ、願いの。ぼくの望みは取り下げる。かなえなくていい」
それだけを言い残して、少年は淡い金の光に変わりました。たちまち姿が見えなくなっていきます。
金色のペンダントがフルートの胸で揺れていました。と、一同が見守る中、その真ん中の石が色を失いました。吸い込まれるように金色が消えて、灰色に変わります。金の石はまた眠りについたのでした。
一同が何も言えずにいると、赤い精霊がフルートに向かって歩き出しました。ゼンがそれに気がついて、とっさに前に飛び出しました。精霊がフルートに近づくのを止めようとします。
ところが、そんなゼンの体の中を幽霊のようにすりぬけて、願い石の精霊はフルートの目の前に立ちました。何の表情も浮かべていない美しい顔で、じっとフルートを見下ろします。
「金の石は願いを取り下げた」
と精霊は言いました。
「願い石はそなた一人のものになった。そなたの真の願いを語るがいい。それをかなえよう」
子どもたちは息を飲みました。願い石は純粋な想いそのものからできた石です。人の願いをかなえることだけが、その石の役目なのです。
皇太子が思わず声を上げました。
「願うな、フルート! 願いと引き替えに大切なものを奪われるぞ!」
フルートは驚いたように願い石の精霊を見上げていましたが、その声に皇太子を見ると、自分のそばで立ちすくむ仲間たちに目を移しました。青ざめている仲間たち一人一人を見回し――
ふいに、フルートはほほえみました。優しく穏やかな笑顔です。願い石の精霊に向かって答えます。
「ぼくには、あれ以外の願い事はありません。かなえてほしいことがないんです。だって、ぼくはもう、ほしいものを全部持っているから――」
願い石の精霊がうなずきました。赤い髪とドレスが揺れます。
「では、私はそなたに願いができるまで待とう。願いたくなったときには、私を呼ぶがいい」
そのことばと同時に、願い石の精霊は赤い光に変わり、すうっと音もなくフルートの体に吸い込まれていきました。たちまち見えなくなってしまいます。
一同は驚いてそれを見ていました。フルートは自分の体に触れました。――どこもなんともありません。
ゼンが確かめるような声を出しました。
「あいつ……行ったのか?」
ポポロが首を振りました。
「行ったんじゃないわ。フルートの中に眠ったの。もうあたしにも見えないけど、でも、確かにフルートの中にはいるのよ……」
「だけど、もうフルートを連れて行こうとはしないんだろ?」
とメールが言いました。笑顔にまた涙が浮かび始めていました。
「フルートも行かないだろ? もう行かないよね? ねえ――?」
そう問われて、フルートはまた仲間たちを見回しました。ゼン、メール、ポポロ、ポチ、ルル――全員がまたフルートを見つめています。食い入るようなまなざしです。
フルートは、うなずきました。
「うん――行かないよ」
子どもたちは歓声を上げました。いっせいにフルートに飛びつき、抱きつき、しがみつきます。明るい笑い声がオパールと大理石の岩屋の中に響き渡ります。その真ん中で、フルートは恥ずかしそうに、泣き出しそうに、ほほえみ続けていました。
一つになって喜び合う子どもたちの様子を、皇太子は腕組みをしてながめていました。ふん、とおなじみの笑い方をします。けれども、その顔に皮肉な色はなく、ただ、子どもたちと同じように安堵する表情だけが浮かんでいました。
すると、いつの間にやってきたのか、時の翁が皇太子のかたわらで口を開きました。
「彼は金の石の願いを聞かなければ、失われる運命、じゃった。金の石の願いを聞いても消滅したし、願い石に自分の願いをかなえてもらっても、その果てに来るものは、やっぱり破滅、じゃった。だが、彼はそのどれからも、まぬがれた。定めの歯車から、逃れたのじゃ」
「あいつを止めたのは友達だ。仲間があいつを救ったのだ」
と皇太子が言いました。静かな声でした。
すると、時の翁が頭を上げました。もじゃもじゃにもつれた髪とひげの間から、皇太子を見上げたのです。
「そうじゃ、な。で、おまえさんは、あそこに行かんの、かね?」
皇太子は意外なことを言われたように老人を見ました。腕組みしたまま、目を丸くして少しの間考え込み……やがて、その腕をほどいて下ろしました。
「そうだな――それもいいかもしれん」
そう言うと、大股に子どもたちに歩み寄っていきました。笑ってはしゃいでいる子どもたちに向かって声をかけます。
「おい、おまえたちばかりで喜ぶな。私も入れろ」
子どもたちはびっくりして皇太子を見上げました。皇太子は苦虫をかみつぶしたような顔で彼らを見ていました。照れ隠しをしているような表情です――。
たちまちメールが笑顔になって答えました。
「もちろんだよ、オリバン! あんたも仲間にまざりな!」
わあっ、とまた明るい笑い声が岩屋に響き渡りました。
石の木の根のように見える老人は、うむうむ、と何度も一人でうなずいていました。