オパールと黒大理石の岩屋で、子どもたちと皇太子は呆然と立ちつくしていました。ランジュールが溶けて消えていった空間を、ただ見つめてしまいます。
ふっとフルートが表情を変えました。自分自身が痛みを感じているように顔を歪めます。本当はランジュールは助けるつもりだったのです。そのために金の石を使ったはずだったのに……。
すると、ゼンが苦笑いの顔になって肩をすくめました。
「ま、見事なもんだよな。いかにもあいつらしいぜ」
ゼンとしては最大限の、敵への賞賛でした。
そのことばに呪縛を解かれたように、一同は動き出しました。皆の視線が自然と一人の人物に集まっていきます。金の鎧兜を身につけた、小柄な少年です。
皆に見つめられてフルートは我に返り、ちょっとためらってから、にっこり笑って見せました。
「みんな、無事でよかった」
変わらない笑顔、変わらない優しい声です。
ポチが風の犬から元の姿に戻りました。一散に駆けていって飛びつきます。
「ワンワン、フルート! フルート――!!」
抱きしめられた腕の中で、ちぎれるほど尻尾を振り、フルートの顔をなめ回します。
他の者たちも駆け寄ってきました。フルートの肩に手を置き、笑顔で見つめます。誰もがほっとして、なんだか、すぐにはことばが出てきませんでした。
反対側の壁際から、ポポロが駆け出しました。今にも泣き出しそうな顔をしながら、黒い衣と赤いお下げ髪をなびかせて、一生懸命走ってきます。
フルートはそれを見て、いっそう優しい目になりました。
鏡の中で願い石の精霊と向き合い、願いを語れ、と言われたとき、フルートは仲間たちのことを思い出したのです。
ゼン、ポチ、ポポロ、ルル、メール……金の石の勇者として旅立ってから、次々と出会ってきた仲間たちです。喧嘩をしたり仲直りしたりしながら、笑って泣いて怒って喜び合って、そうして、ここまでずっと旅をしてきました。
彼らはフルートの大切な友達でした。誰よりも何よりも――自分自身の命よりも大切な仲間です。だから、フルートは金の石と一緒に行く決心をしたのです。世界のために――でも、本当は、彼らのために。
これまでのことを思い出して、願い石から「気がすんだか?」と尋ねられたとき、フルートは本当に、これで充分だ、と思いました。いろいろなことがあったし、苦しい戦いもたくさんあったけれど、それでもとても幸せだったような気がしました。その幸せをフルートにくれたのが仲間たちでした。
願い石の精霊に、守りの光になりたい、と願いを告げるその時、最後の最後にフルートは振り返りました。ガラス窓のように見える鏡の向こうに、仲間たちが集まっていたからです。
みんなが自分を呼んでいるのはわかっていましたが、戻るつもりはありませんでした。ただ、最後に彼らの姿を目に焼き付けておきたいと思いました。光となって消えてしまっても、何も思い出せなくなり、何も見えなくなって、この世界から自分という存在がいなくなってしまっても、それでも、消えていくその瞬間まで、大切な仲間たちを見つめていたかったのです。
ところが、振り返った鏡の向こう側に、仲間たちの姿はありませんでした。
たった一人、ポポロだけが鏡にすがりつき、激しく泣いていました。尋常ではない泣き方でした。
フルートは動揺しました。願いを口にすることを忘れて、思わず鏡の向こうに目をこらしました。
泣き続けるポポロの後ろに、遠く、怪物と戦う仲間たちの姿が見えました。苦戦しています。怪物に飛びかかったポチが床にたたきつけられます。皇太子の剣が怪物に奪われ、跳ね飛ばされます。
気がついた時、フルートは仲間たちに向かって全速力で走っていました。鏡にすがっているポポロを押しのけて外に飛び出し、倒れていたルルのかたわらを駆け抜けて、怪物に切りつけていきました……。
今、ポポロがこちらへ駆けてきます。もう泣いてはいません。泣きそうな顔はしていますが、笑顔です。頬を真っ赤に染めています。
その姿を見て、フルートはまた、にっこりしました。本当によかった、と心から思います。
そして、フルートはポポロの後ろにある鏡を見ました。鏡の中に立ち続けている、赤い炎のような願い石の精霊を眺めます――。
その様子に、ポポロはぎくりとして、思わず立ち止まりました。
フルートは遠い目をしていました。自分よりもっと遠くのものを眺めています。それが何なのか、ポポロにはすぐにわかりました。フルートは、鏡の中の願い石の精霊をまた見つめているのです。
「だめ、フルート!!」
とポポロは思わず悲鳴のように叫びました。死にものぐるいで、また駆け出します。
「だめよ! 行っちゃだめ! 行っちゃだめよ、フルート!!」
駆け寄ってフルートに飛びつき、胸に腕を回して抱きしめます。それは堅い鎧の手応えでした。
仲間たちは驚きました。フルートと、取り乱して抱きつくポポロを眺め、そのフルートが静かな微笑を浮かべているのを見て顔色を変えました。
「おまえ、まだ――!?」
ゼンがフルートの腕をつかみました。すがりつくポポロごと、自分の方を向かせます。フルートは、はっきりとほほえみました。
「願い石を待たせてるんだ。戻らなくちゃ」
仲間たちは愕然としました。少女たちが悲鳴を上げます。
優しく見えるし、本当に優しいフルートですが、その性分は頑固です。一度こうと心を決めてしまったら、どんなことがあっても、その決心を変えないのです――。
「馬鹿野郎! 行かせるか!!」
ゼンが腕をつかまえる手にいっそう力をこめて、拳をつきつけました。大熊さえ殴り殺せる拳です。けれども、フルートは顔色一つ変えずに、穏やかに言いました。
「今まで本当にありがとう、ゼン。楽しかったよね。これからはメールとあんまり喧嘩するなよ」
メールが思わず息を飲みました。
ゼンは拳を激しくふるわせました。本当に殴り倒そうと思ったのですが、心に受けた衝撃の方が大きすぎて、体が動きませんでした。声も出せません。フルートが本気で言っているのだとわかってしまったのです。
ワンワンワン、とポチが狂ったように吠え、フルートの足下を飛び跳ねました。
「ダメですよ、フルート! フルートがいなくなっちゃったら、お父さんやお母さんはどうするんです!? 二人ともすごく悲しみますよ! 絶対にダメですよ――!!」
フルートは目を伏せました。それでも、微笑は消しません。
「……お父さんたちは、きっとわかってくれるから」
とフルートは言いました。
「だから、ポチ、お母さんたちをよろしくね」
ポポロがまた悲鳴を上げました。鎧を着たフルートの体を、強く強く抱きしめます。
ルルもフルートの足下で、鎧の隙間からわずかにのぞく服の裾をくわえていました。絶対に放すまいと固くかみしめながら、咽の奥でうなります。けれども、フルートの全身が淡い赤い光を放ち始めると、まるで雪か氷が溶けていくように、ルルの牙の間で、フルートの服が消え始めました――
「いやぁぁ!」
ポポロは泣き叫びました。赤い光に包まれてまた消えていくフルートを、必死で抱きとめようとします。けれども、赤い光はますます濃く強くなり、フルートの姿は、その中に薄れていきます――
そのとき、ふいに皇太子が話しかけてきました。
「ちょっと待て、フルート。話がある」
子どもたちが半狂乱になっている中、皇太子だけは冷静な声でした。フルートはちょっと驚いた顔になりました。赤い光が輝きを増すのをやめ、たちまち薄くなってフルートの中に吸い込まれていきます。
ポポロがまた泣き声を上げました。フルートにしがみついたまま、しゃくり上げて泣き続けます。他の子どもたちもいっせいにフルートをつかまえました。また実体に戻ったフルートを二度と行かせまいと、固く押さえ、牙の間にくわえます。
そんな子どもたちの前に立って、皇太子が言いました。
「フルートを放すんだ」
子どもたちは驚きました。そんなことをしたら、たちまちフルートが消えていなくなってしまいそうな気がします。
「そんな、オリバン!」
とメールが抗議の声を上げましたが、皇太子は重ねて言いました。
「いいから放すのだ。――すぐに彼を自由にしろ!」
有無を言わせない強い口調でした。王者の声です。ゼンもメールも犬たちも、思わずフルートを放しました。ポポロもしがみついていた腕をほどいてしまいます。それでも、ポポロだけは、フルートの目の前で泣き続けていました。それを、そっとフルートが自分から遠ざけます……。
「よし、これでやっと話ができる」
と皇太子はフルートの前に立ちました。本当に大柄な青年です。そうやって並んでいると、大人と幼い子どもが向き合っているように見えます。
けれども、フルートは臆することなく、静かに皇太子を見上げていました。その顔には、何を言われても決して自分の考えを曲げない、意志の強さがのぞいていました。
すると、皇太子が言いました。
「フルート、金の石はまだ目覚めているのか?」
フルートは意外な質問にまたちょっと驚き、すぐに自分の胸元に目を向けました。鎧の胸当ての上で、ペンダントの石は穏やかな金色に光り続けています。それを見ながら、フルートはふと、皇太子から名前で呼ばれたことに気がつきました。半月以上一緒に旅をしてきましたが、フルート、と名前で呼ばれたのは初めてのような気がします……。
「よかろう」
と皇太子が自分の目で金の石を確かめながら言いました。溜息をつくように大きく息を吸い――
いきなり、右手を握りしめてフルートの顔を殴り飛ばしました。
フルートの小柄な体が吹っ飛び、床に激しくたたきつけられました。ガシャーンと鎧が派手な音を立てます。
少女たちは悲鳴を上げました。ゼンも仰天します。
「いきなりなにしやがんだ!?」
と飛び出し、皇太子に向かって身構えます。
フルートは一瞬本当に息ができなくなりました。金の鎧兜は守りの力が弱まっていたので、衝撃がもろに体に伝わったのです。拳を食らった顔が激しく痛み、口の中が切れて血の味があふれます。
けれども、次の瞬間には痛みは吸い込まれるように引き始め、傷がたちまち治っていきました。金の石が癒したのです。
フルートは身を起こしました。まだフルートを殴り倒した格好のままでいる皇太子を見上げます。
「な、なにをなさるんですか、殿下――?」
すると、今度は本当に皇太子が溜息をつきました。拳を下ろして苦い顔をします。
「ゼンではおまえを殴り殺してしまうから、代わりに私が殴ってやったのだ」
え、と少年たちは目を丸くしました。少女たちも驚いて皇太子を見つめます。
とたんに、皇太子がフルートをどなりつけました。
「いいかげんにしろ、フルート!! まだわからないのか!! この大馬鹿者が!!!」
雷のような怒声でした――。