赤いライオンの体に人面、サソリの尾の怪物マンティコアは、立ちすくむ者たちに向かって大きく吠えました。とたんに、無数の笛をいっせいに吹き鳴らすような音が、岩屋の中に響き渡ります。それがマンティコアの鳴き声だったのです。
「さあ、マンちゃん、行こうかぁ」
ランジュールがのんびり言いながら、マンティコアのたてがみの上に飛び乗りました。頭の上から子どもたちと皇太子を指さします。
「ほら、あれがマンちゃんのおやつだよ。ぜぇんぶ食べちゃっていいからねぇ――」
底に、ぞっとするほど冷たく残酷なものを秘めた声で、楽しそうに言います。
皇太子は剣を構えたまま子どもたちの前に出ました。
「こいつは私に任せて、おまえたちはフルートを呼べ！」
とマンティコアめがけて走り出します。
子どもたちは思わず鏡の中を振り返りました。フルートはまだ何かを思い出す顔でたたずんでいました。そのかたわらには金の石の精霊が、二人の前には赤い願い石の精霊が、何も言わずに立っています。フルートが自分から願い事を言うのを待っているのです。
皇太子がマンティコアに切りつけました。赤い毛がちぎれ、真紅の血しぶきが散ります。何千本もの笛を吹き鳴らすような声が、また岩屋に響き渡ります。
ところが、皇太子は目を見張りました。マンティコアの傷が、みるみるうちにふさがっていったのです。血が止まり、肉が盛り上がり、あっという間にまた毛におおわれて、どこに傷があったのかわからなくなります。
マンティコアの頭上からランジュールが笑いました。
「無駄だよぉ。マンちゃんは闇の怪物なんだ。治癒力が高いから、普通の剣で切りつけたくらいじゃ倒せないよぉ」
皇太子は歯ぎしりをしました。闇の怪物を倒すには、聖なる武器を使うか、頭を切り落として全身を焼き尽くしてしまうしかありません。けれども、マンティコアは巨大で、皇太子の剣ではとても首を切れそうになかったのです。
皇太子は怪物の前足を狙って剣をふるいました。とにかく足止めをしようとしたのです。
ところが、怪物は巨体に似合わない素早さで飛びのくと、次の瞬間、皇太子目がけて襲いかかってきました。思わず身をかわした皇太子の左の肩にかみついて、鎧の肩当てを食いちぎります。
皇太子は思わず声を上げました。体の方は無傷です。マンティコアの三列の牙の間で、堅い鎧の一部がかみ砕かれていく様子を、息を飲んで見つめてしまいます。あの牙にまともにかみつかれたら、ひとたまりもなく食い殺されてしまうでしょう。
「そんなもの食べたっておいしくないよ。ほら、マンちゃんの餌はあっちだったら」
とランジュールがまた皇太子を指さしました。怪物が肩当ての残骸を吐き出し、また皇太子目がけて襲いかかってきます。皇太子は飛びのきましたが、かわせません――
すると、その前にゼンが飛び出してきました。皇太子にかみついてくるマンティコアの顎を、がっちりつかんで受け止めます。
「ゼン！」
皇太子は驚いて思わず叫びました。
「何故来た！ フルートを呼べと言ったはずだぞ！？」
すると、ゼンはマンティコアを抑え込んだまま顔をしかめました。
「ったく、おまえらは本当に……。どうしてそう、自分以外のヤツのことばっかり心配するんだよ？ 放っておけるか。フルートだって、きっと――」
そう言ったとたん、ゼンの表情が歪みました。瞬間、泣きそうな顔になって親友と石の精霊たちが映る鏡を見ます。少女たちとポチがまた必死で鏡の中へ呼びかけています。
本当は離れたくありませんでした。その場にとどまり、他の者たちと一緒に声の限り呼び続けたかったのです。でも――。
ゼンは、ぎゅっと表情と手に力をこめ直すと、怪物に向き直りました。
「あいつだって、助けに行けって言うに決まってるんだ。俺は、こっちなんだよ――！」
言うなり、巨大な怪物の頭をつかみ直し、力任せに持ち上げて床にたたきつけてしまいます。笛の音のような声が響き渡り、ランジュールが頭の上から放り出されました。
「あいたたたぁ……」
ランジュールが悲鳴を上げました。したたかに打ちつけた腰をさすりながら立ち上がります。
「ひどいなぁ。キミ、本当に力がありすぎだよ。マンティコアを素手で投げ飛ばすだなんて、絶対に反則だぁ」
「うるせえ。取り込み中だと言ってるんだから、とっとと怪物と一緒に帰りやがれ。洞窟の外で待ってろ！」
「やだよ。金の石の勇者が一緒にいないからこそ、絶好のチャンスなんじゃないか。キミたちが全員そろってたら、戦いが厳しくなるもんねぇ」
とぼけた顔で抜け目なく言うと、ランジュールは起き上がってきた怪物に手を伸ばしました。
「おいで、マンちゃん。やっぱり奥の手を使わないとダメみたいだよ」
「奥の手？」
ゼンと皇太子は思わず聞き返しました。
「そ。魔獣使いの掟の中でも、禁忌中の禁忌の奥義。どうせボクはもう魔獣使いを破門になってるんだもんね。何をやったって、ボクの自由なのさ。今、それを見せてあげるからねぇ」
楽しそうにくすくす笑いながら、ランジュールはマンティコアの赤い毛皮に手を触れました。とたんに、その手が怪物の体に消え始めました。
ゼンと皇太子は、ぎょっと目を見張りました。ランジュールの体が、手から腕、全身と、たちまちマンティコアの中に吸い込まれていきます。溶けるように姿が見えなくなってしまいます。
「ど、どこへ行ったのだ――？」
皇太子が思わず言うと、ふいに、上の方から声がしました。
「やだなぁ。ちゃんといるじゃないか。ここだよ、ここ」
声はマンティコアの頭上から聞こえてきます。見上げた皇太子とゼンは、またぎょっとしました。思わず声を失います。ライオンのような赤いたてがみに囲まれたマンティコアの顔は、いつの間にか、ランジュールの顔に変わっていたのでした。
「じゃーん、これが奥義だよ。闇の怪物との合体。これなら絶対に振り落とされないもんねぇ」
とランジュールが言いました。怪物の体になっても、口調は以前と少しも変わりません。楽しそうに笑います。
「実はさ、前からずっと考えてたんだよね。そこの王子様はおいしそうだな、って。金の石の勇者も、ちっちゃくて柔らかくて、おいしそうだったなぁ。この体ならキミたちを食べちゃっていいんだよねぇ。うふふふ、最高！」
そう言って舌なめずりしたランジュールの口に、ずらりと並ぶ三列の牙が見えました。
皇太子が剣を構え直しました。ものも言わず、いきなりマンティコアに切りつけていきます。怪物は大きく飛び下がると、ランジュールの顔と声で言いました。
「そうそう。王子様はかっこいいんだよねぇ。男らしくて、しびれちゃうな。ホント、おいしそうだよねぇ」
ランジュールの意識と、怪物のマンティコアの意識が混じり合って一つになっているのが、話を聞いているだけではっきり伝わってきます。
と、その額にいきなり白い矢が突き刺さりました。エルフの矢です。ゼンが一瞬のうちに弓を構えて放ったのでした。
「あれ」
とランジュールは驚いたような声を上げました。上目づかいに額の矢を見上げようとして、白目をむきます。
「痛いなぁ。ホントにキミって乱暴だよね、ドワーフくん」
そう言っているうちに、額から矢が押し出されてきて、ぽろりと地面に落ちました。傷がたちまち治っていきます。ゼンは、ちっと舌打ちしました。やはり闇の怪物相手には、光の矢でなければ効き目がないのです。
ランジュールが皇太子とゼンを見下ろしました。少し考えるような顔をしてから、こう言います。
「うん、決めた。最初はそっちのドワーフくんから食べよう。メインディッシュに王子様をいただいて、口直しに女の子たちを食べたら、金の石の勇者はデザートだ。うん、完璧だね」
一人でそんなことを言って、またにこにこします。
ゼンは素早く弓を背に戻して身構えました。
「食えるもんなら食ってみやがれ。もう一度たたきのめしてやる」
「甘ぁい。同じ失敗をまたすると思うかい？」
ランジュールが言ったとたん、マンティコアの尾が動きました。節のあるサソリの尻尾です。その先端の毒針が尾を離れ、いきなりゼン目がけて飛んできました。
「うぉっと！」
ゼンはかろうじて針をかわしました。毒針が床に突き刺さり、シュウと音を立てて周囲の大理石を溶かします。うふふっ、とまたマンティコアのランジュールが笑いました。
「はずれちゃった？ ざーんねん。次は外さないからねぇ」
サソリの尾がまた振り回されました。今度は、続けざまに何本もの毒針が飛んできます。ゼンだけでなく、皇太子も狙っているのです。彼らにはとても避けきれません――。
すると、ごうっと音を立てて、風の犬が飛んできました。ゼンの前で渦を巻き、毒針を全部巻き込んで吹き飛ばしてしまいます。
「ポチ！！」
ゼンと皇太子は声を上げました。子犬もまた、鏡の前を離れて戦闘に加わってきたのです。
ウォン、と大きく吠えて、ポチはゼンたちの前に舞い下りました。風の体をうならせながら、怪物になったランジュールに向かって言います。
「二人にはさわらせないぞ！ ぼくが相手になってやる！」
すると、また別の風の音がわき起こって、突風がランジュールの目の前を吹きすぎました。とたんに、怪物の体が切り裂かれ、真っ赤な血が吹き出します。
ポチのかたわらに、同じく風の犬に変身したルルが舞い下りました。幻のような体の中で白い霧をごうごうとうならせながら、牙をむきます。
「私もいるわよ。風の刃でその首を切り落としてあげるから！」
二匹の風の犬に守られて、皇太子はただ驚いていました。思わずまた言ってしまいます。
「何故来たのだ！ フルートはかまわないのか！？」
すると、二匹の風の犬が皇太子を振り返りました。かたわらのゼンも振り向きます。子どもたちは皆、ほほえむような目をしていました。
「ワン、だって――」
「フルートが何て言うかわかってるんですもの」
と二匹の犬が言いました。ゼンが笑います。
「あんたを見殺しにしてみろ。俺たちがフルートに絶交されちまわぁ」
それは泣くより悲しい笑い声でした。
そうして、子どもたちはいっせいに動き出しました。マンティコアに合体したランジュール目がけて、飛びかかっていったのです――。
