虹色に輝くオパールの壁。そこにはめ込まれた銀の鏡が生き返り、人の姿を映し出しました。こちらを向いて膝を抱えて座る、小さな少年です。その髪は鮮やかすぎるほどの金色、瞳の色も金色です。異国風の服を着ていて、四、五歳くらいの大きさに見えますが、こちらに向けている顔は、それよりはるかに大人びていました。
てっきりそこにフルートが現れるものと思っていた子どもたちは、とまどって立ち止まりました。鏡の中にフルートの姿は見あたりません。ただ小さな少年が、淡い金色の光に包まれて座りこんでいるだけです。
すると、鏡の前に立った願い石の精霊が口を開きました。
「ここにいたのか、守護の」
「久しぶりだね、願いの。二千年ぶりだ」
と小さな少年が鏡の中から答えました。声も姿も幼いのに、何故だかひどく年老いた人が話しているようにも聞こえます。
それを見ていた時の翁が言いました。
「聖守護石、じゃ。要するに、金の石の精霊じゃ、よ」
子どもたちはまたびっくりしました。ずっとフルートの胸で輝いてきた金の石に、願い石のような精霊がいるとは思ってもいなかったのです。
「石の精霊は、変幻自在、じゃ。老若男女、動物や生き物でさえないものにも、姿を変えることが、できるんじゃが、の」
時の翁はつくづくと鏡の中の少年を見つめました。
「金の石も、今回はまた、えらくかわいらしい姿を、とりおったもんじゃ。フルートが子どもだからか、のう」
すると、金の石の精霊が立ち上がりました。それでも鏡の前の願い石の精霊の半分にも背が届きません。その場所から少年は見上げました。
「ここまでたどりついたってことは、ここに来るまでにフルートの本当の願いはなかった、ってことだな。ぼくたちの願いがきいてもらえるのか?」
「そなたたちが心からそれを願うならば」
と願い石の精霊は答えました。赤いドレスの裾が、風もないのに揺らめきます。
金色の少年はふいに後ろを振り向きました。自分の後ろに呼びかけます。
「来たよ、フルート。願い石の精霊だ」
なに!? と子どもたち――と追いついてきた皇太子は驚きました。鏡の中をのぞき込みます。
小さな少年の後ろから、もう一人の少年が立ち上がりました。小さな少年が放つ淡い光に紛れて、姿がまったく見えなかったのです。まるで、光の中から現れてきたように見えました。その少年は、金の石の精霊よりも背が高く、金の鎧兜で身を包んでいました――。
「フルート!!」
子どもたちは思わず叫びました。鏡の中にいたのはフルートでした。彼らの目の前から姿を消したときと、何も変わりがなく見えます。いつものような穏やかな表情です。
「フルート! フルート!!」
「ワンワン、フルート!!」
子どもたちは必死で鏡の中に呼びかけました。けれども、フルートは気がつきません。鏡の外の音は中には聞こえていないようです。ただ、石の精霊同士だけが、鏡の中と外で短くことばをかわしました。
「参るぞ」
「いいよ」
金の石の精霊が一歩わきへよけました。一緒にフルートも動きます。優しい横顔が仲間たちに向けられました。フルートは、本当にまったくこちらに気がついていません。
すると、願い石の精霊が、赤い髪とドレスをひるがえしながら歩き出しました。鏡のガラスを空気のようにくぐり抜け、鏡の中へ入っていってしまいます。
「あっ、この野郎――!」
ゼンはとっさに願い石を引き止めようとしましたが、伸ばした手は勢いよく鏡の表面にぶつかって跳ね返されました。ゼンは鏡の中には入れません。
ゼンは鏡にしがみついてどなりました。
「おいこらっ! 赤いババァ! 何しやがる気だ!?」
拳で鏡を殴りつけようとすると、時の翁が言いました。
「落ちつけ、や、ドワーフの坊主。鏡を壊したら、もう二度と、何も見られん、ぞ」
ゼンは、ぎょっと手を止めると、もつれた木の根のように見える老人をにらみつけました。時の翁をにらんでも、どうしようもないことはわかっていましたが、怒りのやり場がなかったのです。
鏡の中で金の石の精霊とフルートが、願い石の精霊と向き合って立っていました。フルートが、ぺこりと黙って頭を下げます。そんな様子も、いつものフルートとまったく変わりありません。
ポチは鏡に前足をかけてガラスをひっかきました。必死で呼びかけます。
「ワン、フルート! フルート! こっちを向いてください……!」
やっぱりフルートは気がつきません。ポチはなんだか泣きたくなってきました。たまらなく不吉な予感がして、背筋の毛が全部逆立ってしまっています。それでも、どうしても涙は流せなくて、ポチはウォォーーン、と思わず遠吠えの声を上げました。
鏡の中では落ちついたやりとりがかわされていました。願い石が、二人の少年に向かって尋ねています。
「そなたたちの願いは何だ。語るがいい」
「ぼくの願いは、世界を守ることだ」
と金の石の精霊が答えました。どんなに鏡の前で子どもたちが騒いでも、その声は紛れることもなく、はっきりと聞こえてきます。
「世界の敵はデビルドラゴン。かの怪物は武器や戦いで倒すことは決してできない。悪そのもの、闇そのものの存在だからだ。闇を消すのには、光そのものをぶつけて、相殺するしかない。ぼくは守りの光となり、世界を包み、デビルドラゴンを消滅させたい。だけど、それはぼく一人の力ではかなわない。ぼくと同じくらい強く純粋に、世界を守ろうと思ってくれる『人』の協力が必要なんだ」
え……? と鏡の前の者たちは思わず自分の耳を疑いました。精霊の言っている意味はよくわかりません。けれども、なんだか本当に、とんでもなく不吉な予想が頭に浮かんできて、不安で不安でたまらなくなります。
すると、願い石の精霊が、今度はフルートに目を向けてきました。
「そなたの願いを聞かせよ」
「ぼくの願いも世界を守ることです」
答えるフルートの声は穏やかでした。いつものように静かで優しくて、気負っているところもまったく感じられません。
「ぼくは、みんなに笑っていてほしいんです。みんなに幸せでいてほしい。ぼくはみんなを守りたいんです」
見守る子どもたちは、はっとしました。フルートが言っているのが、他でもない自分たちのことだとわかったのです。世界を守りたい、とフルートは言います。それは本心に違いありません。けれども、今、フルートの心の中に浮かんでいるのは、ゼンやメールやポポロ、ポチとルルといった、仲間たちの姿なのです。この仲間たちを守りたい、とフルートは願っているのでした。
すると、ふいにフルートの声が揺れました。それまで落ち着き払っていたのに、急にとまどい、目を伏せてしまいます。
「ぼくは……人を殺すことができません……」
まるでそれが大きな罪ででもあるように、フルートは言いました。
「ぼくは力で戦って闇を倒し、みんなを守ることができないんです。割り切ろうと努力しました。だけど、やっぱり殺せません。みんなは、こんなぼくを助けようとして、危険の中に飛び込んできます。いつか、彼らを戦いの中で死なせてしまうかもしれません。ぼくは……友達に死なれてしまうのは、もうたくさんなんです……!」
声がまた大きく揺れました。ことばがとぎれます。
願い石の精霊は、見下ろすような目でただフルートの話を聞いていました。感情を動かされた様子はまったく見られません。石の精霊は、心のありようが人とは違っているのです。
フルートがまた話し出しました。
「ぼくは、ぼくの代わりに友達に人殺しをさせるのも、絶対に嫌です。そんなことをしたら、ゼンもみんなも、もう心から笑えなくなるから――」
鏡の前で、ゼンがはっとしました。他の子どもたちも鏡の中を見つめました。フルートは遠い目をしていました。まるでそちらに仲間たちの姿が見えているように――。
メールが鏡をたたき始めました。華奢な拳です。鏡を壊すことはできません。両手をガラスに打ちつけながら、懸命に呼びます。
「フルート! フルートったら! あたいたちはここだよ! ここにいるんだよ――!!」
仲間たちが悲しくなるほどに、フルートはこちらに気がつきません。ただ、願い石に向かって話し続けます。
「だから、ぼくの願いは、人を殺すことなく世界を守りたい、ということです。もちろん、ぼく一人でできるはずはありません。でも、金の石と一緒なら、ぼくも光になって、デビルドラゴンを消滅させることができるんです」
ぞくり、と見守る一同の背筋を悪寒が走り抜けました。フルートは今、なんと言ったのでしょう……?
願い石の精霊が答えました。
「そなたたちが心から願えば、その願いはかなう。そなたたちは聖なる光になり、世界中をおおい、世界の最果てにとらわれているデビルドラゴンも、この世へ姿を現しているデビルドラゴンの影も、すべて消し去ることができるだろう。しかし、光が闇を打ち消すように、闇もまた光を打ち消す。デビルドラゴンが消え去ったとき、そなたたちもまた、この世から消滅することになるのだ。それでもかまわぬと言うのか――?」
鏡の前の者たちは立ちすくみました。ポポロとルルが悲鳴を上げます。皇太子も青ざめています。
時の翁が言いました。
「これが、代わりに奪われるもの、じゃったか。デビルドラゴンを消滅させる引き替えは、『自分自身の存在』じゃ。金の石の願いを拒めば、金の石の勇者は、失われる。だが、その願いを聞き入れても、やはり、勇者は消滅する。いずれにしても、金の石の勇者は、この世から消えていくことになる。重い定め、じゃの」
深く静かな声でした。
その時、遥か遠く、この世ならぬ場所で、運命の歯車が最後の一回転を始めていました――。