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第6巻「願い石の戦い」

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87.願事(ねがいごと)

 ゼンは願い石の精霊の後を追って、仲間たちを追い抜き、石の木の根のように見える時の翁を追い越しました。足早に次の鏡へと近づきます。

 鏡を渡り歩くうちに、フルートの願いが次第に強く深くなっていくのを、ゼンは感じていました。本当の願いを探して、心のより深い場所へと下りているのでしょう。

 ここまでの間に、フルートのあの願い事は現れませんでした。けれども、出てこないはずはないのです。フルートが心に秘める大切な想い、なによりも大事にしているはずの願いです。後ろから近づいてくるポポロの気配に思わず緊張しながら、ゼンは鏡を見つめていました。

 

 鏡の中に一人の少女が現れました。星のきらめくような輝きを宿した黒い衣を着て、赤い髪をおさげに結っています。

 鏡に近づいていたポポロが立ちすくみました。

「あ、あたし――?」

 驚き、たちまち真っ赤になっていきます。そんなポポロと鏡を、他の仲間たちは複雑な表情で見守りました。やっぱり、と全員が同時に思ったのですが、たった一人それを知らずにいた彼女に、なんと言ったらいいのかわからなかったのです。

 鏡の中のポポロは、宝石のような緑の瞳で、じっとこちらを見ていました。泣き虫な彼女も鏡の中では泣いてはいません。その瞳が優しく細められて、にっこりと笑いました。とても嬉しそうな笑顔が広がります。

 ポポロはますます赤くなりました。うろたえてしまって声が出てきません。

 すると、鏡の中のポポロの肩に、金髪の少年が手をかけました。顔をのぞき込んで、優しく笑いかけます。ああ、と見守る者たちは思わず溜息をつきました。

 ――と、ゼンは思わず目を見張りました。ポポロに親しそうに手をかけて笑った少年は、フルートではありませんでした。髪の色が焦茶色に変わっています。ゼンです。明るい茶色の目を上げて、こちらへ笑顔を向けてきます。

 そこへ、わきからぴょん、と飛び込むようにメールも来ました。やっぱりポポロの肩に手をかけ、ゼンやポポロとほほえみ合います。

 ワンワン、と声がして、ゼンの肩にポチが飛び乗ってきました。ポポロにはルルが飛びついてきます。ポポロが腕の中にルルを抱き上げます。

 そうして、子どもたちは皆、こちらに向かって笑いました。幸せそうな、満面の笑顔でした。

 

「はて、最初、何か違う夢が見えた気がしたが、のう。もっと強い願いに、打ち消されたようじゃ、な」

 と時の翁が言いました。

「こっちは見ただけで、何が願いかわかる、の。みんなに笑っていてほしい、じゃ」

 子どもたちは何も言えなくなっていました。ただ呆然と、鏡の中を見つめてしまいます。

 時の翁が言い続けていました。

「時々あるが、な。この願い。たいていは、もっと年上の大人が、家族を思って願うんじゃが。この歳で、のう」

 少し考え込むように鏡の中を見つめ続けます。

 その後ろから鏡を見ながら、皇太子は腕組みをしていました。笑っていてほしい、か――と心の中でつぶやきます。

 自分は皇太子として、ずっと臣下を守らなければ、国民を幸福にしなくては、と思い続けてきました。そのために努力もしてきたつもりでした。けれども、こんなふうに、皆の笑顔を願ったことがあっただろうか、と考えます。幸福ということばに、裕福とか平和というイメージは思い浮かべていましたが、こんなふうに具体的に、人の笑顔を思い描いたことはなかったような気がします……。

 すると、鏡の中で笑う子どもたちの後ろに、もう一人の人物が現れました。いぶし銀の鎧を着た大柄な青年です。目の前に並ぶ子どもたちを見渡し、口の両端を持ち上げました。

 

 鏡の前の子どもたちは、びっくりして鏡の中と皇太子を見比べました。皇太子も驚いて鏡を見つめてしまいます。そこには皇太子自身がいました。笑顔で子どもたちを見回し、その顔をこちらへ向けてきます。

 声を失っている皇太子に、時の翁が言いました。

「フルートは、おまえさんにも、笑ってもらいたいと思っとるようじゃ、な」

 鏡の中の皇太子は大きな笑顔になっていました。ふん、と鼻で笑うのでも、自分自身をあざ笑うのでもなく、明るく楽しそうに笑っています――。

 

 とたんに、鏡が灰色に変わりました。願い石の精霊が離れていきます。

 思わずとまどった子どもたちに、時の翁が言いました。

「願い石が、この願いをかなえることは、ないのじゃ、よ」

「どうしてさ?」

 とメールが聞き返します。

「笑顔を願う者のまわりでは、の、たいていすでに、皆が笑顔になっとるから、じゃ。自分の力で実現できる夢は、願い石はかなえんのじゃ、よ」

 子どもたちは互いの顔を見合わせてしまいました。ほんの少し沈黙した後、ポチが口を開きました。

「ワン、本当にそうですね……。ぼく、フルートと出会う前には笑ってなんかいなかったような気がする。いつも、人間から追い回されて、びくびく逃げ回ってばかりいたから……」

「あたいもそうかも」

 と考える顔になって、メールが言いました。

「まあ、フルートだけってわけじゃないけどさ。みんなと会う前は、あたいは怒ってばかりいたような気がするもんね。父上に怒ったり、島のみんなに怒ったり」

「私もそうね。私は闇の中から助けてもらったんだもの」

 とルルもしみじみと言います。

 ゼンとポポロは何も言いませんでした。幼い頃から人間の血を引くドワーフと言われてのけ者にされていたゼン。強すぎる魔力に振り回されて周囲から敬遠されていたポポロ。あの頃、自分は笑っていたんだろうか、とそれぞれに考えます。

 けれども、そんな二人も今ではたくさん笑っています。心の底から、本当に楽しく。フルートと出会ってから、そうなったのです――。

 願い石が次の鏡の中を見始めていました。

 我に返った子どもたちは、あわててその後を追いました。なんだか、どの光景も絶対に見逃してはいけないような気がします。普段、何も口に出さないフルートが、心の中に思い続けていた大切なことを、彼らに見せているように思えます……。

 

 一人後に残った皇太子は、灰色の鏡に手を触れました。ふん、と鼻を鳴らして皮肉な笑い顔になります。

「私にも笑ってほしいだと? お人好しにもほどがあるぞ――」

 ところがそうつぶやいたとたん、皇太子の顔が大きく歪みました。突然心が大きく揺れて、泣き出してしまいそうになったのです。ただ純粋に人の幸せを願うフルートの想いが、切ないほどに伝わってきます。皇太子はとっさに自分で自分の腕をつかみ、心を立て直しましたが、そんな自分自身に驚き、うろたえてしまいました。

 鏡は曇りガラスの色で沈黙したまま、もう何も映してはいません。けれども、その表に少年の顔が見えるような気がしました。穏やかな顔をした金髪の少年は、何もかもを心の中に飲み込んだまま、ただ静かにほほえんでいました……。

 皇太子は思わず唇を震わせました。

「この――大馬鹿者が――!」

 自分が怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのか。自分自身でもわからない混沌とした気持ちの中で、皇太子は吐き出すように言いました。

 

 

 次の鏡には一面の雪と氷の景色が広がっていました。

 それを見たとたん、子どもたちは、はっと足を止めました。それは北の大地の風景でした。

 雪原の真ん中に抜き身の剣が突き立っていました。フルートのロングソードです。まるで墓標のようにそそり立つその下には、毛皮のマントが落ちていました。はおる者のない、空っぽのマントです。

 子どもたちはいっせいに顔色を変えました。

「ロキ……!」

 とポチがあえぐような声を上げます。

 時の翁が言いました。

「誰か、亡くなったのか、ね? 大事な人だったようじゃ、の」

 子どもたちは青ざめた顔を見合わせました。

 フルートたちを守り助けるために、ロキは北の大地で消えていきました。精一杯に強がってひねくれたふりをしていても、本当は、とても甘えん坊で素直だった、小さな少年です。もう一度会いたい、もう一度、元気な姿を見たい。フルートがそう願うのは無理はありませんでした。いえ、仲間たちだって本当はそれを願っているのです。

 けれども、死んでいった者の復活を願い石に願うのは、禁忌中の禁忌でした。自然の摂理に反して魔法で生き返ってきた人は、元のその人とは別人のように凶悪になります。時に、周囲や生き帰りを願った人を殺してしまうことさえあるのです――。

 願い石の精霊が鏡へ一歩近づきました。伸ばした手で鏡の表面に触れようとします。

「やめろ!!」

 とゼンは精霊に飛びつきました。自分を忘れ友達を忘れ、フルートや他の者たちを殺し回るロキ――そんなものは絶対に見たくありませんでした。

 ところが、願い石の精霊につかみかかろうとしたとたん、ゼンは石の床にたたきつけられました。突然わき起こった赤い光に吹き飛ばされたのです。

 赤い髪とドレスの精霊は、顔色一つ変えずにゼンを振り向きました。とたんに、ゼンの体が床に縫い止められたように、起き上がれなくなりました。どんなに自慢の怪力を込めても、ぴくりとも動けません。声さえ出せなくなります。

 一同が凍りついたように立ちすくむ中、炎のような願い石の精霊は、雪原を映す鏡にさわろうとしました。

 

 すると、鏡の中の光景がいきなり変わりました。一面に広がる夕焼けの中、荒野を一台の馬車が走り去っていきます。

 ガラガラと車輪の音を響かせながら、馬車は夕日の中へ遠ざかっています。その姿がだんだん小さくなっていきます。

 そこへ、どこからか声が聞こえてきました。

「待っててよね、兄ちゃんたち。おいら、急ぐからさ。また兄ちゃんたちと一緒に戦えるように――」

 幼い響きの残る少年の声です。

 鏡の前の子どもたちは思わず目を見張りました。それはロキの声でした。

 

 とたんに、鏡が灰色になりました。願い石の精霊が鏡から離れ、きびすを返してまた別の鏡へ向かっていきます。たちまち呪縛が解けて、ゼンは飛び起きました。

 時の翁が驚いたように言いました。

「これはこれは――この願いの誘惑も、振り切った、かね。おまえさんたちの友達は、ただ者ではない、の。さすがは、金の石に選ばれるだけの人間、じゃ」

 子どもたちは思わずまた顔を見合わせてしまいました。なんだか本当に誰も口がきけません。

 

 すると、突然、ぶるっとポポロが大きく身震いをしました。自分で自分の体を抱いて抑えます。

「変よ……なんだか、すごく変……」

 とポポロは震えながら言いました。

「フルートの願い事は、みんな、他の人のことばかりよ……。他の人を幸せにしようとする夢だけで、フルート自身が幸せになる場面がどこにもないのは……どうして?」

 子どもたちはまた顔を見合わせ、鏡を見ました。そこにはもう何も映っていません。フルートは彼らの間にいません。岩屋の中にもいません。フルートは、どこにもいないのです。

 

 ふいに、彼らの間を言いようのない恐怖が通り過ぎていきました。理由はわかりません。根拠もありません。けれども、彼らには突然気がついてしまったのです。願い石の精霊が向かっている次の鏡こそ、フルートの本当の願いを映している、最後の鏡に違いない、と。

 子どもたちはいっせいに駆け出しました。精霊が立つ鏡へと走ります。

 精霊が手を差し伸べて叫んでいました。

「映せ!」

 灰色の鏡が生き返ります。

 透きとおったガラスの向こう側に、人の姿が現れました。

 願い石の精霊と向き合うようにして座りこんでいたのは、黄金の髪に金の瞳の小さな少年でした――。

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