「勇者フルートの冒険」シリーズのタイトルロゴ

第6巻「願い石の戦い」

前のページ

第22章 鏡の中・2

86.病気

 ジタン山脈の地下に作られていた岩屋。オパールの壁にずらりと並ぶ鏡に、次々とフルートの昔が映し出されていきます。驚くほど鮮やかな映像です。

 鏡に呼びかける願い石の精霊は、その思い出の中にフルートの願いを見つけ出そうとしています。願い石は、かなわぬ願いを本当にする力を持っているのです。

 けれども、それは強すぎる魔力でした。心に抱えるかなわぬ夢を実現するとき、必ず引き替えにその人から大事な何かを奪い去っていきます。それが人を破滅に追いやっていくのです。

 今、赤く輝く願い石の精霊は、新しい鏡の中の光景を見つめていました。他の人々も一緒にそれを眺めています。そこにはまた、幼い頃のフルートが映し出されていました――。

 

 暗い嵐の夜でした。荒野を横殴りの雨がたたき、風がうなりをあげながら吹き荒れています。暗い雲を引き裂いて稲妻がひらめきます。雷はもう頭上近くまで来ていて、稲妻が光るたびに荒野は真昼のように明るくなり、木や草がくっきりと影に縁どられます。ほんの一瞬おいて、激しい雷鳴が響き渡ります。

 フルートは耳を押さえ、背中を丸めながら、嵐の中を走り続けていました。六つか七つくらいの姿でしょうか。ずぶ濡れになりながら荒野を走っていきます。

 すると、足をぬかるみに取られて、フルートが転びました。両手で耳をふさいでいたので、もろに地面に倒れてしまいます。髪も顔も服も、泥と雨で真っ黒です。

 また空で稲妻がひらめきました。空が割れ、雷鳴が荒野を揺るがせます。フルートは悲鳴を上げ、倒れたまま地面にうずくまってしまいました。

 

 荒野には誰もいませんでした。ただフルート一人だけです。稲妻が何度も空を駆けていきます。

 その時、雲を裂いて、特大の光が地上目ざして落ちてきました。荒野の立木を直撃します。荒野は一瞬真っ白に光り、ドドーンという大きな音と共に地面が揺れます。フルートはまた悲鳴を上げ、地面に突っ伏したまま頭を抱えました。

 落雷にあった木が、燃えながら裂けて倒れていきました。雨がいっそう強く激しくなります。風が滅茶苦茶に駆けめぐり、雨を巻き込みながら荒野をたたき続けます。稲妻はなおも空でひらめきます。まるで次に落ちる場所を探しているようです。

 すると、フルートが顔を上げました。泥に汚れきった顔が雨に洗われていきます。死人のように青ざめています。

 とたんに、次の雷が荒野に落ちました。目の前が真っ白になり、激しい音と振動が荒野を揺るがします。フルートはまた叫び、耳をふさいで目をつぶりました。とっさにまた地面に突っ伏そうとします。

 が、フルートはそれを止めました。耳はふさいだまま、それでもまた目を開け、周りを見ました。行く手彼方に麦畑があります。激しい風雨に、麦が暗い波のように揺れ動いています。そのさらに向こうにはシルの町並みが見えています。稲妻のたびに、真っ白く照らし出されています。

 フルートは、ぎゅっと唇をかみました。まだ本当に小さく幼いフルートです。けれども、今と変わらない真剣な表情を浮かべると、たたきつける雨の中に立ち上がり、また駆け出しました。雷は鳴り続けているのに、耳から手を離しています。また、足がすべって転びました。フルートはとっさに地面に手をつき、すぐに跳ね起きました。いつ自分自身に雷が落ちてきてもおかしくない中を、必死で走り続けます。荒れ狂う麦畑の間の道へ飛び込んでいきます――。

 

 町中の一軒の家の扉を、フルートは死にものぐるいでたたき続けていました。悲鳴のように叫び続けます。

「先生! 先生! 先生――!!」

 扉が開いて、中からガウン姿の男の人が出てきました。シルの町でたった一人のお医者様です。

 医者はずぶ濡れになり泥にまみれたフルートを見て、本当にびっくりした顔になりました。思わずかがみ込んで叫びます。

「フルートじゃないか! どうしたんだ、こんな晩に!?」

 フルートは泣いていました。医者のガウンにすがりつき、嗚咽を上げながら言います。

「先生、お母さんが――お母さんが――苦しんでるの! お願い、助けて! お母さんが死んじゃうよ――!!」

 医者は顔色を変えました。すぐさま家の中にフルートを引き入れます。

「待っていなさい。今準備する。大丈夫、すぐに行ってあげるからね」

 安心させるようにそう言いながら、急いで着替えを始めます。

 家の奥から寝間着にガウンをはおった奥さんが出てきて、全身泥まみれのフルートを見て仰天しました。

「まあ、フルート! こんな嵐の中を走ってきたの!? お父さんはどうしたの!」

「お父さん……今夜は牧場なんだ……」

 とフルートは答えると、それきり、わあっと声を上げて泣き出しました。泣きながら泥だらけの顔をこすったので、いっそう顔が黒くなります――。

 

 フルートは暗い家の居間で待ち続けていました。まだ服も体もずぶ濡れで泥だらけのままです。奥の部屋からもれてくる光を、ただじっと見つめ続けています。

 すると、扉を開けて医者が出てきました。立ちつくすフルートを見て、目を丸くしました。

「まだそのままでいたのか。風邪をひくぞ、すぐ着替えなさい」

「先生、お母さんは!?」

 とフルートは尋ねました。必死な声です。

 医者は穏やかにほほえんで見せました。

「お母さんは落ちついたよ。……フルートがすぐに呼びに来てくれたからな。もう大丈夫だ」

 それを聞いたとたん、フルートはまた泣き出しました。大粒の涙がぼろぼろと頬をこぼれ落ち、しゃくり上げ始めます。

 それを優しい目で見ながら、医者が言いました。

「泣くんじゃない、フルート。泣くとお母さんが心配するぞ」

 フルートはびっくりしたように泣きやみました。思わず奥の部屋の方を見ます。

 そんなフルートに医者は言いました。

「お母さんは起きているよ。少しだけなら話してもいいよ」

 フルートはうなずきました。ぐい、と涙をぬぐいます。

 枕元に立ったフルートを見て、お母さんが目を見張りました。

「まあ、フルート……泥だらけね……」

 まだ弱々しい声です。心臓の発作は治まったものの、まだひどく青ざめていて、疲れ切ったような顔をしています。それでも、お母さんは汚れてずぶ濡れになった息子の心配をしていました。

「あんな天気の中を、お医者様を呼びに行ってくれたのね……。ありがとう、フルート。怖かったでしょう……」

 お母さんが手を伸ばして、フルートの頭をなでようとしました。フルートはその手をつかんで、自分から離すように自分の前で握りしめました。濡れて汚れた自分の体にさわらせまいとしたのです。

「ううん、お母さん。平気だよ」

 そう言って、フルートは、にっこりと笑って見せました――。

 

 その表情を鏡の中に見たとたん、メールが目をそらしてつぶやきました。

「やだな……なんか切ないよ……」

 そこにいるのは、小さくても、紛れもなくフルートその人でした。どんなに自分がつらい目にあっても、自分が怖くても苦しくても、相手の気持ちを思いやって、にっこり笑ってみせるフルートです。それはとても優しくて――あまりにも優しすぎて、なんだかメールを悲しい気持ちにさせました。

 その隣で、ゼンは何も言わずに鏡を見ていました。その表情は真剣です。食い入るように、鏡の中のフルートの様子を見つめ続けています。

 

 場面が変わりました。今よりほんの少し昔のフルートがいました。椅子に座ったお母さんを前に立っています。その手には金の石のペンダントが握られていました。石は金色に輝いています。

「ごめんね、お母さん……」

 とフルートは言いました。なんだか今にも泣き出してしまいそうな声でした。

「金の石は……お母さんの心臓は治せないみたいだ」

 声が揺れてとぎれます。そのまま、フルートはうつむいてしまいました。

 お母さんは椅子の中でにっこりしました。

「いいのよ、フルート。お母さんのこの心臓はね、生まれつきこんなふうだったの。きっと、金の石は、怪我をしたり病気になったりした体を、元の状態に戻す力を持っているのね。お母さんは最初からこうだったから、金の石にも治すことはできないのよ」

 優しい声でした。がっかりした様子も悲しむ調子もまったく感じさせません。フルートは、ますますうなだれました。

「ごめん、おかあさん……。ぼくは金の石の勇者なのに……なのに、お母さんのことを助けてあげられないんだ……」

 それきり、フルートは何も言えなくなりました。

 お母さんは、そんな息子を引き寄せ、金髪の頭を自分の膝の上に抱き寄せました。

「優しい子ね、フルート。でもね、あなたのせいじゃないわ。それに、お母さんはね、今、本当に幸せなのよ。だって、こんなに優しい息子がいるんですもの。あなたは魔の森から金の石を取ってきて、お父さんの命を助けてくれたわ。この上、まだ、もっと多くのものを望んだら、お母さんは神様の罰が当たってしまうわよ」

 ふふふ、とお母さんは笑いました。優しい優しい笑い声でした。

 フルートはお母さんの膝に顔を埋めました。何も言いません。その背中が小刻みに震えだしました。フルートは声を殺して泣き出したのでした。

 

 それはフルートが金の石を手に入れたばかりの頃の光景でした。ゼンやポチともまだ出会っていない頃です。

 フルートは、金の石の力でお母さんの心臓を治そうとして、かなわなかったのです。お母さんが言っていたように、金の石には、生まれついての病気を治す力はなかったのでした。

「これが、フルートの本当の願い、かの?」

 確かめるように時の翁が言いました。そのかたわらで、願い石の精霊は無表情に鏡を見続けています。

 子どもたちは青ざめました。病気の癒しを願ったとき、人は代わりに何を奪われると翁は言っていたでしょう? 癒された人は、病気と一緒に病気の苦しさも、自分が病気になっていたことさえも忘れ、人をいたわる気持ちを失ってしまうのです。

 お母さんは、自分自身が弱いからこそ、人に優しくすることを知っています。人の思いやりにも気がついて感謝をします。そんな優しく素敵なお母さんが、病気の癒しと同時に失われてしまうのです。

 ワンワンワン、とポチは鏡に向かって激しく吠え出しました。

「だめです、フルート! お母さんの病気を治そうなんて願っちゃだめです! そんなことをしたら、お母さんがお母さんじゃなくなっちゃう!!」

 ポチは必死でした。ポチもお母さんが大好きです。お母さんからはいつも暖かい優しい匂いがしていて、ただそばにいるだけで、ほっとするのです。そんなお母さんの足下で丸くなって眠るのが、ポチは何より好きでした。

 もちろん、ポチだって、お母さんの病気が治ってほしいとは思います。だけど、それと引き替えにお母さんの優しさまでが消えてしまうのは、どうしても我慢できませんでした。

 

 すると、お母さんが言いました。

「フルート、お母さんはね、今のままで充分幸せなのよ。だからね、あなたは他の人たちを助けてあげなさい。世界中には、お母さんよりも、もっともっと苦しかったり悲しかったりする人たちが大勢いるの。金の石の力は、その人たちのために使ってあげてちょうだいね――」

 フルートはお母さんの膝に顔を埋め、すすり泣きながら何度もうなずきました。その手には金の石が握りしめられています。

 

 とたんに、鏡が灰色に変わりました。フルートとお母さんの姿が消えてしまいます。

 願い石の精霊はまた別の鏡へと移動していくところでした。ここにも、かなえるべき願い事はなかったのです。

「子は親の鏡、じゃの」

 時の翁がつぶやいて、その後を追っていきました。

 行く手で、また新しい鏡が明るくなっていました――。

素材提供素材サイト「スターダスト」へのリンク