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第6巻「願い石の戦い」

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85.兄弟

 「願いは、兄弟がほしい、じゃったか」

 と時の翁が言いました。風の吹き抜けるような声です。

 そのかたわらでは、赤い髪に赤いドレスの精霊が、じっと鏡をのぞき続けています。美しい横顔は、鏡の中にどんな光景が映し出されても、まったく表情を変えていません。ただ冷静に見つめているだけです。

「兄弟……」

 ゼンや少女や犬たちは、思わず顔を見合わせました。確かにそれは、どんなに願ってもなかなかかなわない夢です。まして、フルートのお母さんのように体の弱い人には、妊娠も出産も非常に大きな負担になります。下手をすれば母子共に命を落としかねないとなれば、子どもはあきらめるしかないのでした。

「そういや、以前、あいつが言ってたな……」

 とゼンが口を開きました。

「お母さんが体が弱かったから、自分にはきょうだいはいない。だけど、その自分のことも、お母さんは命がけで産んでくれたんだ。だから、産んでもらっただけでありがたいと思ってるんだ――ってな。俺の母ちゃんが病気で死んだ話をした時だ」

 子どもたちはまた、顔を見合わせてしまいました。何だか本当に、誰も何も言えません。

 皇太子は、黙って鏡を見続けました。鏡の中の、平凡そうな少年を見つめます。少年は、少し淋しそうな表情のまま、それでも静かにほほえんでいました。遠い遠い目をしています――。

 

 とたんに、ワンワン! と犬が吠える声が鏡の中から響いてきました。ポチは仰天して、耳をびくりと立てました。それは自分の鳴き声だったのです。

 鏡の中は、いつの間にか暗い霧に閉ざされた景色に変わっていました。夕暮れが訪れたような薄暗さの中、荒野を白い子犬が駆け回っていました。

 銀色の鎧兜に身を包んだフルートが、ゼンと一緒にそれを眺めていました。

「もう大丈夫そうだな」

 とゼンが笑顔で言うと、フルートも一緒に笑顔になり、すぐに心配そうな表情に変わりました。

「明日は人の住むところが見つかるといいんだけど……。だんだん霧の源が近くなってきている。嫌な感じがすごく強くなってくるのが分かるんだ。これ以上危ない方向にポチを連れて行きたくないよ」

 鏡の前のポチとゼンは目を丸くしました。この場面は覚えています。黒い霧の沼の戦いの際に、荒野でフルートたちがポチを助けた時の様子です。闇の霧の中で迷子になって、もう少しで飢え死にするところだったポチを、フルートたちは介抱して、命を救ったのです。

 鏡の中で、場面がせわしく移り変わっていました。

 戦っているフルートとゼン。相手はぼろぼろの服を着て、二本の剣を構えた痩せた男です。狂ったような笑顔で少年たちに向かって言います。

「狩りだよ狩り。俺は狩りをしてるのさ。獲物は人間。へへへ。元気なヤツほど楽しくて好きだねぇ」

 男の姿が銀のオオカミに変わっていきます。人狼だったのです。兜が脱げてしまったフルート目がけて、木の上から人狼が襲いかかっていきます。フルートは気がついていません。

 とたんに、地面に倒れていたポチが、頭を上げて叫びました。

「フルート! 上です!!」

 はっと見上げたフルートが、炎の剣を突き立てました。人狼は魔剣に貫かれ、炎を上げて燃えていきました。

 まだ、ポチがもの言う犬とわかっていなかった頃の出来事でした。ポチは、自分を助けてくれた少年たちに人のことばで礼を言うと、そのまま去っていこうとしました。もの言う獣は闇の怪物と恐れられ、追い回されてしまうからです。小さくはかなげな姿が、暗い荒野を遠ざかろうとします。

 すると、フルートが呼び止めました。

「待ってよ、ポチ。どこへ行こうっていうの? 君はぼくの弟じゃないか――」

 

 鏡の前で、ポチはびっくりして、またいっそう目を丸くしました。記憶が入りまじっています。初めてフルートたちと出会った場面に、もっと後の場面の記憶が結びついているのです。

 いつのまにか鎧兜から普段着姿に変わったフルートが、町の通りで出会った大人たちに話しかけられていました。

「まったく忠義なワン君だなぁ。フルート、いいペットを見つけたもんだな」

 すると、フルートは少女のように優しい顔をにこりとほころばせました。

「うん。でも、ペットなんかじゃないですよ。ポチはぼくの弟なんです」

「弟か!」

「また珍しい弟だなぁ、フルート!」

 大人たちが、どっと笑い声を上げました。

 ロムド城の中庭の小道で、派手なリボンを結んだ貴族のカミチーノ卿が、目を白黒させていました。

「お、弟……? では、そ、その、そちらの犬――殿は、魔法か何かでそんな姿にされているのでしょうか……?」

「違います。でも、ポチは本当にぼくの弟なんです」

 きっぱりと答えて、フルートはカミチーノ卿に背中を向けました。普段あれほど優しいフルートからは想像もつかないほど怖い顔つきをしていました。

「ワン、そんなに怒ることないですよ、フルート。それに、ぼくのことを弟って言うのはやめた方がいい、っていつも話してるじゃないですか」

 とポチがあきれたように言いましたが、フルートは険しい表情を変えませんでした。

「誤解するならすればいい。とにかく、ポチを侮辱されるのは我慢できないんだ」

 

 すると、ファイヤードラゴンの頭の上から、ランジュールが言いました。

「やだなぁ。『元』飼い主のくせに、ボクのワンちゃんをとらないでくれる? あれはもう、ボクのワンちゃんなんだよ。ボクのかわいいペットさ」

 フルートは強く言い返しました。

「ポチはペットなんかじゃない! 仲間だ! ぼくの弟なんだ――!」

「弟ぉ?」

 ランジュールは大笑いをしました。

「いやぁ、素敵な兄弟愛だなぁ。それじゃ、立派な兄ちゃんには、これをプレゼントしてあげるね」

 とファイヤードラゴンに火を吹かせます。とたんに、フルートをまともに襲う炎の塊を、風の犬に変身したポチがねじ曲げてそらしました。フルートの体には届きません。

 フルートは、にっこりしました。宙で渦巻くポチに向かって、両手を広げて呼びかけます。

「おいで、ポチ――!!」

「ワン!」

 ポチが吠えて、まっしぐらにその腕の中に飛び込んできました。たちまち、元の白い子犬の姿に戻って、ぺろぺろとフルートの顔をなめ回します。

 そんなポチを抱きしめて、フルートは優しく話しかけました。

「さ、家に帰ろう。お腹空いちゃったよ。お母さんがケーキを焼いてるはずだから、それを食べてからお父さんの牧場の手伝いに行こう」

 ポチはぴょんとフルートの腕から飛び下りると、そっちこっち飛び跳ねるように駆けながら言いました。

「ワン、急ぎましょう、フルート。きっとお父さんが待ちかねてますよ」

「ポチったら、待ってよ!」

 どんどん先へ行くポチを追いかけて走り出したフルートが、勢い余って転びそうになりました。ポチは驚いて振り返りました。

「ワン、フルート、大丈夫ですか?」

 とっさに地面に手をついていたフルートが、顔を上げて、にやっと笑い返しました。

「大丈夫に決まってるだろ。――弟の前で無様な真似なんかさらせるもんか」

 最後の一言は、自分だけに言ったひとりごとでした。ポチの耳にも届きません。けれども、鏡を見ている人たちには、そのつぶやきが、はっきり聞こえていました。

 通りをはしゃぎながら駆けていく少年と子犬は、とても幸せそうに見えました。ワン、と子犬が吠えて飛びついたのを、少年が笑いながら受けとめました。そのまま、ぎゅっと抱きしめます――。

 

 突然鏡が灰色に変わりました。今まで見えていた光景が一瞬で消えていきます。

 子どもたちと皇太子は、夢から覚めたように我に返りました。炎のような願い石の精霊は、鏡の前から離れて、また別の鏡へと移動していくところでした。この願いもまた、願い石にかなえてもらうようなことではなかったのです。

 

 一同は、思わずそこにいる本物のポチを見ました。ポチはとても驚いた顔をしていました。

「ぼ、ぼく……」

 とまどいながら言いかけますが、それ以上ことばが続きませんでした。

 フルートはこれまでも、何度となくポチを弟だと言っていました。でも、ポチ自身が、それはただの親愛の情を込めた冗談なのだとばかり思っていたのです。

 ぽん、とゼンがポチの頭に手を置きました。見上げたポチに黙ってうなずいてみせると、願い石の精霊の後について、次の鏡へ向かいます。他の者たちも、その後に続いていきます。

 ポチが何も映さなくなった鏡を見上げていると、最後まで残っていたルルが近づいてきて、ぺろりとポチの顔をなめました。

「私は、フルートの気持ちがわかるわ。……すごくよくわかる」

 そう言って、先に行ったポポロへ目を向けます。犬と人。種族の違いはあっても、ルルにとってもポポロはかわいい妹なのでした。

 

 フルート、とポチは心の中でつぶやきました。

 いつも自分を抱きしめ、話しかけてくれる、優しい腕と声を思い出します。

 とたんに、ポチはたまらなく怖くなってきました。恐ろしいほどの虚無感が襲ってきて、背筋の毛を逆立てていきます。フルートはここにいません。鏡の中に現れるのは、どれも過去の記憶の中の、フルートの姿ばかりです。

 フルート! とポチはまた心の中で呼びました。

 フルート、どこですか!? どこにいるんですか!?

 けれども、どんなに必死で呼びかけても、自分を弟と言ってくれる優しい少年の声は、どこからも聞こえては来ませんでした……。

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