鏡の中に小さな子どもが立っていました。
金色の髪に青い大きな瞳の、女の子のような少年です。三歳くらいの大きさですが、顔つきはそれよりもう少し年上に見えました。小柄なので幼く見えますが、おそらく四、五歳の年齢にはなっているのでしょう。
「かっわいい……」
メールとルルが思わずつぶやきました。まるで人形のように愛らしい姿のフルートでした。
けれども、鏡の中のフルートは、人形とは似ても似つかないことをしていました。部屋の真ん中に立って小さな両足で地団駄を踏み、金髪の頭を振り回して、わめき立てていたのです。――そんな様子さえ、はた目にはかわいらしく見えてしまっていましたが。
「お母さんのバカ!!」
とフルートは叫んでいました。
「ロイのお母さんに赤ちゃんが生まれるんだよ! リサにだって弟が生まれたじゃないか! どうしてお母さんは赤ちゃん産んでくれないのさ!?」
「フルート……」
今よりずっと若々しいお母さんが、困った顔で息子を見ました。息子によく似た金髪の頭を振ります。
「だめなのよ、フルート。それはどうしても無理なことなの」
「どうしてさ!? みんな、きょうだいがいるじゃないか! どうしてぼくだけ一人なの!? ぼくだってお兄さんになりたいよ!」
フルートはわめき続けていました。言いだしたら聞かない気の強さが、幼い声ににじみ出ています。お母さんは、ますます困った顔になりました。
「フルート、お母さんはね、もう赤ちゃんを産めないのよ。どうしても無理なの――」
「いやだ!!」
とフルートは母親の声をさえぎりました。おそらく、その答えはもう何度も聞かされているのです。知っていて、なお強く否定したのでした。
「ぼくは弟がほしいんだ!! ロイやジューイやクリスみたいに、ぼくもお兄ちゃんになりたいんだ!! 弟を産んでくれないお母さんなんか、きらいだ!! 大っきらいだ!!」
小さな体からは想像がつかないほどの大声でどなると、フルートは部屋を飛び出しました。そこはもう、小さな家の外です。泣きながら怒りながら、家の前の荒野を走っていきます。
「フルート――」
後ろからお母さんが追いかけてくる気配がしました。フルートはますます速く走りました。とても怒っていたのです。絶対につかまるもんか、許すもんか、と考えているのが顔つきでわかります。
その時、フルートの後ろで細い悲鳴が上がりました。それはお母さんの声でした。ザザッと何かが崩れるような音が聞こえてきます。フルートは、思わず振り向き、驚いて立ち止まりました。
お母さんが家の前に倒れていました。地面にうつぶせになって、苦しそうにあえいでいます。その片手は胸を強く押さえていました。
「お母さん……お母さん!?」
フルートは真っ青になって駆け戻りました。うずくまるお母さんの顔は、フルートよりも青ざめていました。苦しそうに目をつぶり、歯を食いしばっていて、フルートの方を見ようともしません。
「お母さん!! お母さん!!」
フルートは泣きながらすがりつきました。激しくあえぐお母さんの体が、大きくけいれんし始めます。おぅ、おぅ、と信じられないほど恐ろしげな声が、お母さんの咽からもれてきます。
フルートはおびえて後ずさりました。
お母さんは苦しみ続けています。胸を押さえたまま、もう一方の手で地面をかきむしっています。
ついにフルートは金切り声を上げました。
「だれか――だれか来て!! お母さんが死んじゃうよ!! だれか、お母さんを助けて――!!!」
場面は薄暗い部屋の中に変わりました。フルートが椅子にぽつんと座っています。
そこへ、ドアを開けてお父さんが入ってきました。今よりもずっと若いお父さんです。小さな息子に歩み寄ると、その両手をにぎってかがみ込み、息子の顔を見上げるようにのぞき込みました。
フルートは泣き続けていました。涙が後から後からこぼれ続けて、ズボンの膝に大きなしみを広げていました。
「ぼく――ぼくのせいだよ――」
とフルートは泣きじゃくりながら言いました。
「ぼくが――お母さんに――弟がほしいなんて言ったから――」
嗚咽と共に、また新しい涙がぼたぼたと落ち、握りしめていたお父さんの手に降りかかりました。
お父さんは優しい目をしていました。そっと、息子に話しかけます。
「フルート、お母さんはね、体の中にある『心臓』という場所が悪いんだよ……。普通に静かに暮らしているなら何でもないんだけれどね、とても驚かせたり、悲しませたり――跳んだり走ったりなんて激しい運動をすると、心臓が苦しくなってしまうんだ。今はもう大丈夫だよ。お医者様が薬をくださったからね。お母さんはもう苦しくなくなったよ。でも、こういうことが何度も起きると、お母さんの心臓は、ますます弱ってしまうんだよ」
フルートは青ざめた泣き顔を上げました。必死の表情で言います。
「ぼく――もうお母さんを困らせない! 絶対にもう、お母さんを驚かせたり、悲しませたり――しないから!」
お父さんはほほえむと、そっと息子を抱きしめました。その胸の中で、小さなフルートは声を上げてむせび泣き始めました――。
少し大きくなったフルートが、町の通りを歩いていました。手に大きな買い物袋を抱えています。小さな体には大きすぎる荷物なので、あぶなっかしい足取りです。
「大丈夫なの、フルート? 無理はしないのよ」
すぐ後ろを歩きながら、お母さんが声をかけてきました。心配そうな顔をしていますが、その表情は穏やかでした。もう心臓は苦しくないようです。
「平気だよ!」
とフルートは答えました。精一杯の表情でお母さんに笑って見せます。
「ぼくは、強いんだからね。もう何でもお手伝いできるからね」
重たい荷物に顔を真っ赤にして耐えながらも、誇らしそうにそう言い切ります。
そんな二人のかたわらを、二人の子どもが通り過ぎていきました。通りには夕暮れの光が差し始めています。遊び疲れて眠ってしまった小さな妹を、十歳くらいの少年が背負って家に帰るところでした。淡く赤い日の光が、少年と女の子の後ろ姿を照らしています。
フルートが立ち止まったままそれを見送っていると、お母さんが、すまなそうに言いました。
「ごめんなさいね、フルート。お母さん、フルートにきょうだいを産んであげられなくて……」
お母さんの優しい目の奥には悲しい色がありました。
フルートは、はっとした顔になると、お母さんを見上げて笑顔で首を振りました。
「いいんだよ、もう。ぼくにはお母さんとお父さんがいるんだもの。お母さんたちさえいたら、ぼくはそれでいいんだ」
そして、フルートはまた荷物を運び始めました。もう、妹を背負った少年の方は振り向きませんでした。
そして、またもう少し大きくなったフルート。やっぱりお母さんと町へ来て、買い物の荷物を運んでいます。小柄ながらも、それなりに大きくなってきたので、もう荷物にふらつくこともありません。
「お兄ちゃん、待ってよぉ!」
小さな男の子が声を上げながら通りを走ってきました。その前を、もう一人の男の子が走っています。フルートより、少し年上に見える少年です。弟を振り返って声をかけます。
「早く来いよ! 置いてっちゃうぞ!」
「やだよ! 兄ちゃんのいじわる! 置いてっちゃやだったらぁ!」
小さな弟はたちまち泣き声になりました。しかたなさそうな表情で、兄が戻ってきました。
「ちぇ、泣き虫。ほら、急ぐぞ」
弟の手を引いて、一緒に走り出します――。
お母さんが、少し心配そうに息子の顔をうかがいました。けれども、フルートはもう、表情一つ変えることなく、平然と歩き続けていました。走っていく兄弟のにぎやかな声にも知らん顔です。
それでもお母さんは、ちょっとすまなそうな表情になると、また前に向き直りました。次の店へと入っていきます。フルートは荷物を持ったまま、それについていきました。店の前の木の階段を、ゆっくり上っていきます。
その時、鏡を見守る子どもたちと皇太子は、またいっせいに、はっとしました。
鏡の中のフルートが振り向いたのです。
お母さんは、店の中に入ってしまって、もう外にはいません。兄が弟の手を引っぱって通りを走っていきます。転ぶなよ、と兄が弟に言っている声が聞こえてきます。次第に小さくなっていくその姿を、フルートは何も言わず、目を細めて遠く眺めていました――。