願い石の精霊の呼びかけに、岩屋の鏡の一つが突然生き返りました。銀の表に、よく晴れた空とのどかな町の風景を映します。その中から、少女のような顔立ちの小柄な少年が、驚いたようにこちらを振り向きました。フルートです。
とたんに、すさまじい怒声が響き渡りました。
「てめぇ、生意気だぞ! 何様だと思ってやがる!」
声と同時に、フルートの体が吹っ飛びました。小さな体が小石だらけの地面にたたきつけられます。
「きゃぁっ!!」
鏡を見ていたポポロとルルが思わず悲鳴を上げ、他の者たちも思わずぎょっとしました。鏡に映るフルートは、いきなり誰かに殴り飛ばされたのです。
しゃがれ声が言い続けていました。
「お高くとまってんじゃねえよ! チビで弱虫のフルートが! 先公に誉められたぐらいでいい気になるんじゃねえや!」
フルートは地面から頭を上げました。口元が切れて血がにじみ、左の頬が赤黒く変わっています。痛みに顔をしかめながら、相手を見返します。
すると、しゃがれ声の相手が、フルートの首元をつかんで、ぐいと引き起こしました。
「なんだよ、その目は? 言いたいことがあるなら言ってみろ、フルート。え? 言えねえだろう! 意気地なしのてめえになんざ、何も言えるもんかよ」
それは大柄な少年でした。怒りと憎しみとあざ笑う表情を混ぜ合わせてフルートに笑いかけ、いきなりまた、拳をフルートの腹にたたき込みます。
ポポロとメールとルルはまた悲鳴を上げました。フルート! とゼンが思わず叫びます。
けれども、鏡の中のフルートはこちらをまったく見ませんでした。殴られた勢いでまた地面に倒れ、そのままうずくまってしまいます。そこへ、数人の別の少年たちがわっと駆け寄り、笑いながらフルートを蹴り始めました。
「どうした、フルート。しっかりしろよ」
「立てよ、お嬢ちゃん。そんな格好してたんじゃ、殴れねえだろう」
「金玉つぶされてホントにお嬢ちゃんにされるのが怖いのかよ?」
どおっと少年たちは笑い声を上げ、またフルートを蹴りつけます。フルートは地面にうずくまったまま動きません。
「ジャックと、子分たちだ……」
と鏡を見ながらポチが呆然と言いました。シルの町の悪童どもです。以前からフルートを目障りにしていて、何かというといちゃもんをつけては絡んでくるのですが――
「ワン、でも、これ、今のことじゃない。ジャックたちもフルートも、ずっと幼く見えます。ぼくたちがフルートに会うより、もっと昔のことなんだ、きっと」
フルートは今十三歳、ジャックはそれより二学年上です。けれども、鏡の中の彼らは、今の歳よりも二、三歳幼く見えていたのです。
「そう。これはフルートの、過去の記憶、じゃ」
と時の翁が鏡に近づきながら風のような声で言いました。「鏡は今、願い石の呼びかけに応えて、フルートの記憶を映しとるのじゃ、よ。フルートの本当の願い、フルートが本当にかなえたいと思うことを、確かめるために、の」
「フルート……」
メールはつぶやいたきり、何も言えなくなりました。鎧兜を身につけていないフルートは、確かに小柄で少女のように優しい顔かたちをしています。メールもたまにそれをからかうことはありましたが、それが理由でこんなふうに集団でいじめられていたとは、想像もしていなかったのです。
皇太子も、鏡を見たまま絶句しています。
少年たちは、他に人気のない空き地にいました。数人の少年たちがフルートを蹴り続けるのを、ジャックが腕組みして眺めています。と、ジャックは急に振り向いて、別の子分に顎で合図しました。
「おい、やれ」
言われて少年がフルートに近づきました。その手には、なみなみと水をたたえた手桶を下げています。そのまま、ざんぶりとフルートへ水をぶちまけます。
ぴゅうっと音を立てて、空き地を風が吹き抜けていきました。色の変わった木の葉が舞い散っています。鏡の中に映し出された光景は、秋も終わりに近い、冷たい風が吹き始める季節のようでした。
いやぁ、とポポロが叫び、とうとう顔をおおって泣き出してしまいました。他の子どもたちも皇太子も、青ざめたまま、その様子を見つめます。
頭から冷水を浴びせかけられ、冷たい風にさらされて、フルートはがたがたと震え出しました。それでも、うつむいたまま、何も言いません。
ルルが叫びました。
「なんで何もしないのよ、フルート! どうして黙ってやられっぱなしなの!? あなたなら、あんな奴らくらい簡単にやっつけられるじゃないの!」
「これは昔のフルートだ。俺たちが出会う前の……まだ金の石の勇者になってない頃の、あいつなんだ」
とゼンが答えました。これまでなかったほど真剣な顔と声をしています。
ふぅむ、と時の翁が言いました。
「この子は、いじめられっ子だったのじゃ、な。毎日のようにからかわれて、いじめられて、つらい想いをしとったわけ、じゃ。そういう記憶は、大きくなっても、なかなか抜けないもんじゃ。いつか仕返しをしたい、いじめた奴らに思い知らせたい。心の底に、そういう想いがわだかまりやすいんじゃ、よ――」
炎のような願い石の精霊は、鏡の正面にじっとたたずんだままでした。表情一つ変えることなく、ただ、鏡の中の光景を見つめ続けています。
すると、ふいに鏡の中の光景が変わりました。
ジャックとその手下たちは画面から消え、フルート一人がとぼとぼと道を歩き続けていました。黄色く枯れた牧草地を、北風が吹き抜けています。ずぶ濡れになったフルートは、両腕で体を抱えて歩いていましたが、風に吹かれると、ぶるっと大きく身震いをして、いっそう強く自分の体を抱きました。金色の髪や服の裾からは、まだ水がしたたっています。あたりには誰もいません。道を通りかかる人もいません。フルートは、たった一人です。
と、フルートが足を止めました。殴られた痕が痛んだのでしょう。腹を押さえて顔をしかめ――痛みが通り過ぎると、顔を上げました。
その表情に、鏡の外の一同は、はっとしました。フルートは泣いていませんでした。怒りの表情さえ浮かべていません。ただ、まっすぐなまなざしを先に向けると、唇をかみ、突然道を駆け出したのです。
殴られ蹴られた体は、走るたびに痛んでいるはずでした。実際、フルートは苦しそうに顔をしかめています。それでも、フルートは走るのをやめませんでした。全速力で道を走り続け、やがて、牧草地を抜けて荒野が見える場所まで出ました。荒野の手前に、ぽつんと、フルートの家が建っています――。
フルートは、自分の家へ走っていきました。走りながら、素早く視線を家の回りに向けたことに、子どもたちは気がつきました。家の外に人影はありません。
フルートは、家の前にある井戸に駆け寄ると、急いで手桶を下ろして水を汲み上げました。そのまま、いきなり頭から、ざあっと水をかぶります。
子どもたちと皇太子は、また、はっと息を飲みました。何故、フルートがそんなことをしたのかわけがわからなくて、目を見張ってしまいます。
すると、水の音を聞きつけて、家の中からフルートのお母さんが出てきました。井戸端でずぶ濡れになっている息子を見て、びっくりして駆け寄ってきます。
「まあ、何をしてるの、フルート!? こんな寒い日に水をかぶるだなんて――!」
「だって、暑いんだもの」
とフルートが答えました。信じられないほど明るく元気な声でした。実際、フルートはここまでの道のりを全速力で駆けてきたので、真っ赤にほてった顔をして、息もはずませていました。
「ずっと町の中から走ってきたんだ。もう暑くてさ。汗だくになっちゃったよ」
見守る子どもたちは、声が出せませんでした。ただただ、鏡の中のフルートの、屈託のない笑顔を見つめてしまいます。フルートは、自分がジャックたちからいじめられたことを、母親に隠したのです。
お母さんは大きく頭を振りました。
「馬鹿なことはやめてちょうだい! 肺炎にでもなったらどうするの。早く着替えなさい!」
「はぁい」
ぺろりと舌を出してフルートが答えます。
と、その顔を見て、お母さんはまた声を上げました。
「まあ、どうしたの、それ!? 左の頬が腫れているわよ!」
さっきジャックに殴られたところです。けれども、フルートはなんでもなさそうに肩をすくめました。
「走ってて、転んで石にぶつけちゃったんだ。大丈夫だよ、これくらい」
「でも、そんなに」
「大丈夫だったら。ちゃんと薬をつけとくからさ。……ほんとに、お母さんは心配性なんだから」
そう言ってフルートはまた笑いました。今よりもずっと幼い声、幼い顔つきをしています。けれども、その時広がった笑顔は、紛れもなく今のフルートと同じ表情でした。相手をいたわるような、優しい笑顔です――。
「じゃ、ぼく部屋で着替えてくる。のぞかないでよ、お母さん。恥ずかしいから」
あらまあ、とお母さんがあきれた顔をしました。
「急にお年頃なの、フルート? しっかり髪の毛も拭いてね。濡れたままだと本当に風邪をひくわ。湿布を貼ってあげるから、着替えたらいらっしゃい」
「うん」
フルートは元気に家に駆け込み、自分の部屋に飛び込みました。後ろ手にドアを閉め、濡れた体のままベッドの上に座ります。
とたんに、フルートから笑顔が消えました。水をかぶり、走った後のほてりが消えた顔は、土気色になっていました。そのまま自分の体を抱え、歯を食いしばり、痛みに耐える表情でうずくまってしまいます……。