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第6巻「願い石の戦い」

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66.守護

 皇太子は夜の高原に腕組みをして立っていました。

 微動だにせず眺めているのは、ロムド軍辺境部隊の野営地です。いくつもかがり火がたかれ、大勢の兵士たちがその周りに立ったり座ったりしながら過ごしている様子を、ただ黙って見ています。野営地から夜風に乗って賑やかな声が届いてきます。

 すると、皇太子の背後にやってきた人物がいました。ごく静かな声で話しかけます。

「殿下……」

「ユギルか」

 振り向くことなく皇太子は答えました。それに向かって占い師は深く頭を下げました。冷たい風を避けるためにかぶったフードの中から、長い髪が一束こぼれます。

「このたびは、殿下と皆様方をだますような真似をして、皆様方を非常に危険な目にお遭わせしてしまいました。まことに申し訳ございません……」

 ユギルの口調はいつも丁寧です。が、この時の声には、それを越える何かが混じっていました。本当に詫びるような、悔やむような響きです。一同の前で皇太子とフルート暗殺の真相を語った時とも、また違った様子でした。

 皇太子はそれには答えませんでした。鎧の前で太い腕を組み、賑やかな野営地を眺め続けます。ユギルはその後ろで、ひっそりとたたずみ続けていました。頭は下げたままです。

 

 すると、皇太子が言いました。

「昔のことを思い出していた。私がまだ小さかった頃のことだ」

 と唐突に話し始めます。

「私は一つの辺境部隊に一年から一年半くらい在籍したが、そこから次の部隊に移るときだけ、城に戻ることができた。だが、父上はその間、どんな催し事にも私をお呼びにならなかった。外国から賓客があっても、私が皇太子として紹介されることはまずなかった」

「その集まりの中に刺客が紛れ込む可能性が高かったからでございます。今でこそ殿下はお強くなられましたが、あの頃の殿下を大勢の集まる場所に引き出すのは大変危険でした」

 とユギルは答えました。

 皇太子はまた少しの間黙り込み、やがてこう言いました。

「私が城にいる間は、だいたいおまえがそばにいたな、ユギル」

 ユギルは思わず顔を上げました。何故だか、皇太子が見えない距離を超えて、急に近くに歩み寄ってきたような気がしたのです。それを振り向いて、皇太子は続けました。

「ずっとそうだったから何の疑問も持っていなかったのだが、考えてみれば不思議だ。ユギルは父上の専属の占者で、私のお守り役ではなかったのだから。だが、私が城の中にいる間は、おまえは当然のように、いつも私のそばに控えていた。あれは、城に入りこんだ刺客が私を狙わないように見張っていたのだ。そうだったのだろう?」

 ユギルは、かすかにほほえむような表情を揺らしました。

「仰せのとおりでございます、殿下。……占盤がなくても、殿下の命を奪おうと企む者は、わたくしの目にははっきりと見えますので」

 皇太子は占者の顔を見つめました。占者の瞳は、右が青、左が金の不思議な色合いをしています――。

 

 皇太子はまた、野営する辺境部隊へ目を戻しました。風に乗って聞こえてくる陽気な声に、しばらく耳を傾けてから、また口を開きます。

「隊長から聞かされた話は本当に意外だった……。私が知らない間に皆に守られていたことも衝撃だったが、なにより、私があんなふうに見られていたとは思ってもいなかったのだ。兵たちが私を慕っているなどとは、本当に、想像したこともなかった」

 ユギルは、はっきりほほえみました。

「殿下は辺境部隊では絶大な人気がおありなのですよ……。殿下は昔から偉ぶらないお人柄ですし、辺境部隊のような場所で一兵卒と同じ扱いを受けても、文句一つおっしゃらなかった。しかも、実際の戦闘になれば、人一倍勇敢にふるまわれる。そういうところが、一筋縄ではいかない辺境部隊の兵士たちから好かれたのです。殿下が滞在したことのある部隊では、どこが一番殿下をお守りできたか、どこで殿下が一番居心地良く過ごされたか、部隊同士で競い合って自慢し合っていると聞いております。今回も、殿下をお救いに上がる役目を第七部隊に命じたところが、他の部隊も一緒に駆けつけてこようとして、ゴーラントス卿が思いとどまらせるのに苦労なさったほどです」

 皇太子はまた振り向きました。とまどうような表情が現れています。

 やがて、皇太子は組んでいた腕を下ろしました。ちょっと目を伏せると、上目づかいで占者を見ます。

「おまえはどうなのだ、ユギル……。おまえの目には、私はどう映っているのだ?」

 ユギルは驚いた顔をしました。皇太子から、こんなストレートな質問をぶつけられたのは初めてのことでした。

 皇太子は続けました。

「私はこの国の王位継承者だ。だから、みんな私を守ろうとする。私は皆を守る王になりたいと思ったが、実際には皆から守られていたのだ。おまえは何故、私を守ってくれていた? 私が皇太子だったからか?」

 大きな体を少しかがめて、うかがうような目をする皇太子は、まるで十も幼い小さな少年に戻ってしまったように見えました。

 ユギルは穏やかにほほえみ返しました。

「国王陛下に頼まれたのです。殿下を守ってほしい、と」

「父上に?」

 皇太子は驚いた顔になりました。辺境部隊の隊長は、国王から皇太子を守るようにと言われた、と確かに話していたのに、それでも皇太子はその事実を信じていなかったのです。

 

 ユギルは小さく苦笑すると、灰色の衣のフードを脱ぎました。夜の中、銀の髪が遠いかがり火を受けて光ります。それを片手で衣の中から引き出すと、長い髪はばさりと波打ち、銀糸の滝のようにこぼれていきました。その美しさに皇太子が一瞬目を奪われると、ユギルは言いました。

「殿下はいかがです? わたくしのことは、どのようにご覧になりますか?」

「え……?」

 皇太子はとまどいました。尋ねられている意味がよくわかりませんでした。綺麗だと思うが、と言いかけて、さすがにためらって口ごもります。

 ユギルは静かに続けました。

「銀の髪、青と金の色違い目、浅黒い肌……わたくしが生まれた南方諸国では、これらはすべて異形です。あそこの人々はほとんどが黒か茶の髪の色をしていますし、色違いの目は悪魔の子だという言い伝えがあります。この肌の色は、海を越えた南大陸の種族の血を引いているからです。わたくしは父親を知りません。船で立ち寄った行きずりの男だったと母親から聞かされました。髪の色のほうはどこから来たものかさえわかりません。母はやはり黒髪でしたので。その母親とわたくしは折り合いが悪く、五歳の時には家を飛び出しておりました……。幼い頃から占いはできたので、それで生きのびてまいりましたが、わたくしのまわりにいたのはいつも、わたくしのこの異形の姿を忌み嫌うか、逆に愛玩動物のように扱おうとする者ばかりでした。特に大人は皆そうでした。わたくしが占いの力を持っていても、そんなことはおまけ程度にしか思っていなかったのです」

 皇太子はことばを失いました。それまで、ユギルの外見についても、その過去についても、何一つ真剣に思いめぐらしてこなかった自分に気がつきます。

 すると、そんな皇太子にユギルはほほえみかけました。

「ですが、国王陛下は違ったのです――。わたくしのこの異形も不作法も、子どもであることさえもまったく意に介さず、ただ、わたくしの占いの結果だけを信じてくださいました。そんな人物に出会ったのは初めてだったのです……。その時から、わたくしは陛下を自分の父とも思ってお仕えしてまいりました。正直、わたくしは宮廷にあるような生まれ育ちの者ではございません。ですが、陛下をお守りするためには宮廷にいなくてはなりません。ですから、必死でふさわしい礼儀作法やことばづかいを身につけたのです……。その国王陛下が誰よりも大切に思われている殿下です。守らずにいられるわけはありません。陛下に頼まれることがなくても、わたくしはやはりお守りしただろうと思います」

 皇太子は目をそらしました。うろたえる気持ちの中で、父王の姿を思い浮かべます。厳しく偉大だったはずの父の姿が、どこかでほんの少しだけ変わってきたような気がします……。

 

 高原を冷たい風が吹き渡っていきます。ユギルはまた灰色の衣のフードをかぶると、静かに続けました。

「ザカラス王は巧妙な人物です。自分はいつもザカラス城の奥にいて、そこから刺客を差し向けるだけで、決して尻尾を出しませんでした。殿下に真相をお知らせしなかったのは、知らせることで、殿下がかえって危険になったからです。ザカラス王が命を狙っているとわかっていながら、知らんふりをすることは、殿下には不可能です。何かの際に、必ず真相に気がついていることが外に出てしまいます。そうすれば、ザカラスは暗殺などという方法をとらず、もっとおおっぴらに殿下の命を奪おうとしたのに違いなかったのです――」

「今回の戦闘のようにか」

 と皇太子は言いました。ユギルはうなずきました。

「今回、ザカラス王が直接兵を動かしたのは、この場所が人も住まない辺境地だったからです。しかも、ザカラスからは国境の山を隔てただけの近い場所です。ザカラス王には誰にも見られずに殿下や勇者殿を始末できる自信があったのです」

「だが、それをユギルは見破っていた」

 と皇太子は言いました。幼い頃から自分をずっと守ってくれていた、銀髪の占い師を見下ろします。その細い姿の後ろに、父王の姿が透けて見えるような気がします……。

 皇太子は、はっきりと言いました。

「ありがとう、ユギル」

 占い師の青年は目を見張りました。やがて、静かに頭を下げ、深々とお辞儀をします。

「身にあまるおことばでございます、殿下」

 ユギルは丁寧に、そう言いました。

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