ゴーリスが馬から飛び下りました。ポポロに抱きしめられている少年へ走り寄ります。
「フルート! 大丈夫か!?」
フルートは泣きじゃくるポポロの肩から頭を上げました。まだ血に汚れた顔で、剣の師匠を不思議そうに見返します。
「ゴーリス……どうしてここにいるの? ジュリアさんはどうしたのさ。ディーラを離れたら危ないんじゃ……」
「そんなことを言えるなら大丈夫か」
とゴーリスはたちまち苦笑いになりました。これだけの目に遭いながらも、やっぱり他人の心配をするフルートです。
「ゴーラントス卿。それにロムド軍の第七辺境部隊も。これはどういうことなのだ?」
と皇太子も尋ねました。何故突然援軍が駆けつけてきたのか、彼らにはさっぱりわからなかったのです。彼らの周囲では、軍隊同士の激しい戦闘がまだ続いています。戦場の中でロムド軍や第七辺境部隊の旗印がひるがえっているのが見えます。
ゴーリスは皇太子に向かってちょっと頭を下げました。
「ご無事で何よりでした、殿下。ですが、今はゆっくり話している時ではありません。この戦闘がすんだら、詳しくお聞かせいたしましょう。――ゼン!」
突然ゴーリスから名前を呼ばれてドワーフの少年は飛び上がりました。
「な、なんだ……」
「フルートはまだ動かせん。おまえがリーダー代理だ。みんなを守れ」
「ゴーリスは?」
「俺は敵を片付けてくる。いいな。しっかり守れよ」
そう言い残してゴーリスは馬に飛び乗り、また戦闘の中へ駆け戻っていこうとしました。
それに皇太子が追いすがりました。
「待て、ゴーラントス! 聞かせてくれ! あの黒い鎧の集団はどこの国の軍隊なのだ!?」
旗印も紋章も一切つけていなくても、黒い軍勢は統制のとれた戦いぶりを見せています。この混戦の中にあってさえ、そうなのです。間違いなく、どこかの国に所属する軍隊でした。
すると、ゴーリスは手綱を引いて、皇太子をちょっと振り返りました。黒い兜の下から、一瞬、鋭いほほえみを向けます。
「ザカラスです、殿下。ついにあの国が尻尾を出したのです」
皇太子は思わず大きく息をして、すぐにうなずきました。
「そうだろうと思っていた」
ゴーリスは黙ったまま一礼すると、そのまま馬の脇腹を蹴りました。剣がひらめき、矢が飛びかう戦場の中へと駆け込んでいきます。
皇太子も自分の剣を握り直すと、戦いの中にまた飛び込んでいきました。ロムド兵と戦うザカラス兵に駆け寄り、一刀のもとに切り倒します。
「ゴーリス! 殿下……!」
とフルートが声を上げました。立ち上がって後を追おうとします。が、とたんに膝が崩れて地面にまた座りこみました。倒れそうになるのを、とっさにポポロがまた支えます。
「馬鹿野郎、無理するな!」
とゼンはどなり、すばやく自分たちの状況を見渡しました。ポチ、メール、ルル、ポポロ、そしてフルート。この中で、まともに戦うことができるのはポチとルルの二匹の風の犬だけです。メールはまだゼンのショートソードを握っていますが、攻撃を防ぐ防具をまるで身につけていませんし、ポポロは弱り切ったフルートを支えるので精一杯です。
ゼンは犬たちに言いました。
「ポチ、ルル、俺たちの周りを固めろ! ポチは飛んでくる矢に警戒しろ。ルルは近づいてくる敵だ」
「ワン!」
「わかったわ!」
ルルがたちまちまた風の犬に変身して、ポチと一緒に空に舞い上がりました。フルートを取り囲む子どもたちをさらに囲むように、周囲を飛び回り始めます。
矢は兵士同士の戦闘の頭上を越えるように、相手側の弓矢部隊を狙っていましたが、ときどき、戦場そのものにも飛んでくるようになっていました。敵の多く固まっている場所を見極めて撃ち込んできているのです。矢が近づいてくると、即座にポチが飛びついて、風の体に巻き込んでたたき落としてしまいました。
戦場の真ん中に固まる子どもたちを見つけて襲いかかってくる敵兵もありました。金の鎧兜を身につけているフルートは、すぐに正体が知れてしまいます。金の石の勇者の命を奪おうと敵が駆け寄ってくるたびに、ルルが体当たりをしました。とたんに、兵士の鎧や兜がルルの風の刃で切り裂かれます。思わずひるんだ敵兵を、二匹の風の犬が追い立てていきます――。
フルートは戦場を見つめ続けていました。血みどろの地獄絵は終わることなく続いています。敵も味方も、ただ相手を切り倒し、打ち倒し、また新たな敵を求めて走っていきます。地面に倒れた者は痛みと苦しみにのたうちます。やがて、苦しみの果てに動かなくなっていく者も大勢います……。
フルートは震え出しました。唇を血がにじむほどかみしめ、寄りかかっているポポロの肩をつかみます。その力の強さに、ポポロが思わず顔を歪めましたが、フルートはそれにも気づかず、戦いを見つめ続けていました。やがて、うめくように言います。
「やめさせるんだ、ポポロ……」
え、と子どもたちは思わずフルートを見ました。フルートは、身震いしながら戦場をにらみ続けていました。その目ににじんでいるのは悔し涙でした。
「戦いをやめさせるんだ。これを終わらせてくれ……今すぐに!」
ポポロはとまどいました。やめさせろと言われても、これだけ大規模な戦闘をどうやって終了させたらよいのでしょう。
戦場は敵も味方も入りまじった混戦状態です。たとえば稲妻や冷凍魔法などで敵を攻撃しようとしても、必ずそばにいるロムド兵まで巻き込んでしまいます。ポポロは適当な魔法がないか、何かよい方法はないかとあたりを見回しました。一生懸命見回すうちに、自分がそれまで泣いていたことを忘れてしまいました。 やがて、その宝石のような瞳が、目の前にそびえるジタン山脈に向きました。吸い寄せられるように山並みを眺め、細い眉をひそめます。
「この山……誰かが結界を張ってるわ……」
「結界?」
ゼンが聞き返しました。
「うん、恐怖の結界……。山に足を踏み入れようとすると、怖くて逃げ出したくなる魔法よ。すごく大規模にかけてあるわ……」
話しながらポポロは決心した顔つきになっていきました。フルートをそっと自分から離すと、青ざめている顔をのぞき込んで言います。
「あたし、あの結界を魔法で強めて敵の兵士にまで広げるわ。そうすれば、きっとみんな恐怖にかられて逃げ出すと思うの……」
フルートはうなずきました。まだひどく目眩がします。敵に刺された時に血を失いすぎて、貧血を起こしているのです。思わずまたふらついたところを、今度はメールが支えました。
ポポロは立ち上がりました。至るところで敵味方が戦い合う戦場を見渡し、宝石の瞳を山脈に向けて、高く片手を上げます。その指先に、星がきらめくように、淡い緑の光が集まり始めました。少女の澄んだ声が戦場に響き渡ります。
「レガーロヒヨイーカツケノフウヨーキエラーハオキテ!」
とたんに、目には見えない何かが、ぐうっとふくれあがった気配がしました。何とも言えない感覚が巨大な幕のように伸びてきて、その場にいる人々すべてを絡めとっていきます。
それは恐怖でした。ことばにできない、どんな手段でも表現することのできない、漠然とした恐れが彼らの胸と頭を打ちのめします。まるで、見えない死神が大きな翼を広げて戦場にやってきて、一気に彼らを黒い翼の下に囲い込んだようでした。
戦場の兵士たちは思わず次々に戦いの手を止めました。とまどったように相手を眺め、周囲を見回し、空を見ます。おびえた空気が広がっていきます。
空を敵が放った最後の矢が飛んでいました。弓矢部隊も騎馬兵たちと同じように、得体の知れない恐怖に包まれて凍りついています。矢が近づいてきたので、ポチが舞い上がり、風の体に絡めとってたたき落としました。そのままうなりをあげて戦場の上空を飛び、Uターンして仲間のところへ戻ろうとします。
そのとたん、戦場にものすごい声が湧き起こりました。恐怖の叫びです。恐れに充たされていた兵士たちは、空をひらめく幻のような風の犬を見て、自分たちを襲いに来たドラゴンか悪霊のように感じたのです。大きな風の犬の姿が、彼らの目にはさらに大きく、恐ろしく映っていました。助けてくれ、悪魔だ、怪物だ、と口々に叫び、武器さえ投げ出して戦場から逃げ出します。それは黒い鎧のザカラス兵も、銀の鎧のロムド兵も、まったく同様でした。
「おい、ロムド兵まで逃げ出してるぞ?」
とゼンがあきれて言いました。ポポロは顔色を変えて両手で口をふさぎました。
「やだ、また巻き込んじゃったわ……どうしよう……」
ポポロの魔法は強力でコントロールが悪いのが特徴です。以前よりはよほど狙いが良くなったのですが、それでも、敵だけに恐怖の魔法をかけるというのは難しかったのでした。
両軍はそれぞれに背を向け、戦場から走って逃げだそうとしていました。国の軍隊の兵士が、これほどあっけなく戦いを放棄するというのはまずありえないことです。けれども、彼らは空を飛ぶポチに攻撃をしかけることさえ思いつかず、ただただ、恐怖に駆られて逃げていました。その場を充たす見えない力に、どんどん追い払われていきます。
敵に逃げられたゴーリスと皇太子が、驚いたようにそれを見ていました。戦場から急速に人の姿が消えていきます。まるで潮が引いていくようです。
すると、逃げていくロムド軍の中から、突然こんな声が上がりました。
「我らが皇太子殿下はまだ戦場におわすぞ! とどまれ! 殿下をお守りするのだ!」
立ち止まり、逃げる友軍に呼びかけている男がいました。とたんに、ロムド軍の逃げ足が鈍りました。とまどうように、自分たちが脱出してきた戦場を振り返ります。そこには本当に大柄な皇太子が立っています。
それを見て、皇太子は即座に握っていた剣を高くかざし、自国の兵に向かって大声で呼びかけました。
「戻れ、勇敢なロムドの兵士たち! 敵はいまだ近くにある! ロムドを守るために私に従うのだ!」
とっさのことばでした。予定していた台詞でもなんでもありません。ただ、パニックに陥ってなし崩しになっていく自国の兵たちを引き止め、立ち直らせたくて、本能的に言っているのでした。
皇太子の声は戦場に朗々と響きました。逃げまどうロムド兵たちの耳に届きます。とたんに、兵士たちは本当に立ち止まりました。自分たちの王子を振り返り、見つめ――そして、突然いっせいにときの声を上げました。
「殿下に従え!!」
「殿下をお守りしろ!!」
大きな叫びが上がり、ロムド兵が駆け戻り始めました。馬の蹄の音と徒歩で走る者たちの足音が戦場を揺るがせます。
波が返すように、ロムド兵たちがまた戻ってきます。その様子を見て、ザカラス軍はいっそう恐怖に駆られました。かろうじてその場に踏みとどまろうとしていた者たちまでが、悲鳴を上げ、頭を抱えて逃げ出しました。敵軍はちりぢりになり、ジタン高原の戦場から遁走していきました――。
戦闘は終わりました。
戦場に残されているのは、死体と、自力で逃げることができないほど深手を負った敵兵たちだけです。
剣を高く構えたままの皇太子の前に、ロムド軍が集まりました。吸い寄せられるように集結して、ひとりでに隊を作って整列します。その数は騎兵、歩兵合わせて百数十名いました。
軍隊の隊長らしき兵が一歩進み出て、皇太子に向かって剣を捧げました。逃げるロムド軍の中で、とどまれ、殿下を守れ、と叫んだ人物です。とたんに、他のロムド兵たちもいっせいに剣を捧げ、皇太子に敬礼をしました。
皇太子は自分の剣を収め、兵たちにうなずいて見せました。ゴーリスが近づいてきて馬から降り、その馬を皇太子に差し出します。
「殿下」
皇太子はまたうなずき、すぐに馬の鞍にまたがりました。そうすると、大柄な皇太子はいっそう堂々と兵士たちの目に映りました。
自分を見つめ続ける大勢の兵士たちに向かって、皇太子ははっきりと言いました。
「よく来てくれた、第七辺境部隊の諸君。我らの窮地を救ってくれたこと、心より感謝するぞ。――ありがとう」
とたんに、ざわめきが軍隊の中に広がりました。皇太子のことばは非常に素直に感謝の気持ちを伝えていました。こんなふうに自分たちの仕える主君から感謝を言われた経験など、彼らはこれまで一度もなかったのです。
怒濤のように、軍勢から声が湧き上がりました。歓声です。勝利と、皇太子を守ったのだという自負の喜びに、ロムド兵たちは剣を空に向け、大きな声を上げました。ジタン山脈の峰々が歓声に震えます。
その様子を見ていたゼンが、仲間たちにこっそり言いました。
「あいつはやっぱり根っからの王子様だったんだな。フルートだって、あんな真似はとてもできねえよなぁ」
「あたりまえだろう」
とフルートは顔をしかめて答えました……。