押し寄せてくる謎の黒い軍団。馬に乗った兵士の数は二百人を超えています。それだけの大集団が、フルート、ゼン、メール、皇太子、ポチのわずか四人と一匹を目ざして突進してきます。その頭上を越えて何十本もの矢が飛んできます。
ワン、とポチが一声吠えて、仲間たちの上で渦を巻きました。雨のように落ちてくる矢を風の体に巻き込んで吹き飛ばしてしまいます。
怒濤のように押し寄せてくる軍勢を眺めて、キマイラの上のランジュールがあきれたように言いました。
「あれまぁ。あれ全部、キミたちを狙ってきてるの? 大げさだなぁ。よっぽどキミたちに確実に死んでもらいたいらしいね」
けれども、フルートたちはそれに返事をするどころではありませんでした。
馬に乗った兵士相手に走って逃げ切れるはずはありません。フルートと皇太子は剣を握り直し、ゼンは後ろにメールをかばいながら弓矢を構えました。霜枯れした荒野にもう花は咲いていません。戦うことができない花使いの姫は、悔し涙を流していました。ポチが、矢と兵士から彼らを守ろうと、激しい風の渦で彼らを包んでいます。
その様子を見ながら、ランジュールがまたのんびりと言いました。
「あれだけの数だよぉ。そんなんで対抗できるわけないじゃないか。キミたち、すぐにやられちゃうね」
ちろっと細い瞳に危険な火がともりました。魔獣使いの青年は、怪物の頭上に寝ころびながら、また軍勢を眺めました。騎馬兵たちはもう、すぐ目と鼻の先まで迫っています。
ふん、とランジュールが鼻を鳴らしました。つぶやくように言います。
「ボクの獲物を盗ろうなんて失礼だよねぇ。彼らはボクが狙ってるのに」
その声に何かを感じたように、キマイラのライオンの頭が首をもたげました。迫る軍勢をにらみつけます。
ランジュールの声が響きました。
「行け、ラーちゃん!」
とたんに、ごぉぉっとライオンが口から炎を吐きました。たちまち先頭を駆ける騎馬兵が何人も炎に巻き込まれます。火だるまになった兵士たちは、絶叫を上げながら燃える馬から転げ落ちました。
思いがけない怪物の襲撃に軍勢が驚きました。怒濤の突撃が鈍り、うろたえるように二の足を踏みます。そこへ、ランジュールがまた叫びました。
「メェメェちゃん、鳴いて!」
メェェェェ……。ヤギの鳴き声が響き渡ったと思うと、今度は十数人の騎馬兵が吹っ飛びました。馬もろとも一瞬で木っ端みじんになって、血しぶきと一緒にあたりに飛び散ります。フルートたちは思わず息を飲みました。
ランジュールが、うふふっと笑いました。
「ボクの邪魔をするヤツは誰だって許さないよ。この勇者はボクが殺すんだからね。絶対に、キミたちになんて渡さないよぉ」
言いながらキマイラと共に軍勢の中に飛び込んでいきます。ライオンの頭で火を吹きかけ、ヤギの鳴き声で兵士を粉みじんにし、尾の蛇の毒の息をまき散らします。怪物の周囲で、兵士や馬たちがばたばた倒れ始めます。
「すげぇ……」
とゼンやメールは目を丸くしていました。キマイラは大軍勢を相手に、たった一頭で大暴れしています。想像以上の強さです。
すると、皇太子が言いました。
「今のうちだ。逃げるぞ」
これまで数え切れないほど刺客に命を狙われ、そこから逃れてきた皇太子です。戦うべき場面と引くべき場面は的確に見極めることができます。
ポチが風の渦をほどいて彼らの前に舞い下りてきました。
「ワン、ぼくに乗ってください。急いでこの場を離れましょう!」
「よし!」
とゼンは答えると、あっという間にメールをポチの上へ投げ上げました。続いて皇太子もつかまえてポチの背中に放り上げてしまいます。幻のように半ば透き通った風の犬です。皇太子は一瞬、自分が風の中を突き抜けて地面に激突するのではないかと思いましたが、すぐに毛が生えた獣の体に受け止められました。驚いている皇太子を、メールがふりむきました。
「あんたもポチに乗れたんだ。良かったね、オリバン。あんた、ポチに嫌われてないんだよ」
風の犬は自分が仲間と認めたものしか背中に乗せないのです。皇太子がますます驚いた顔になります。
ゼンが友人に呼びかけました。
「そら、フルートも急げ!」
けれども、金の鎧の少年は立ちつくしたまま動こうとしませんでした。目の前で繰り広げられているキマイラと軍勢の戦いを眺めています。ゼンはいぶかしい顔になりました。
「フルート、どうした?」
少年は返事をしません――。
フルートは声もなく見つめていました。
巨大な怪物が黒い鎧の兵士たちを相手に暴れ回っています。ライオンの口が炎を、ヤギの頭がなにもかもを破壊する鳴き声を、蛇の鎌首が毒の息を吐き出します。それを受けて、周囲の兵士たちが次々に倒れていきます。
火だるまになった兵士が馬から落ち、悲鳴を上げて地面を転げ回ります。燃えながら必死で鎧や兜を脱ぎ捨てますが、燃えているのはその中の兵士の体自身です。たちまち炎の中で焼けていって、苦しむ姿や形相そのままの炭の塊に変わります。
ヤギの声が響いたとたん、兵士が粉々になります。黒い鎧兜が砕け散り、肉が、骨が、内臓が、人の体を作るあらゆるパーツが、血しぶきと共に飛び散って、ばらばらと地面に落ちます。
黄色い毒の息が吐き出され、それを浴びた兵士たちや馬たちが苦しみ出します。馬が血の泡を吹きながら倒れ、鞍から放り出された兵士が、兜を引きむしります。目をむき、咽をかきむしり、鼻や口から大量の血を吹き出しながら転げ回ります。毒を食らった兵士は、他のキマイラの頭にやられた者より絶命までの時間が長いので、その分長く地獄の苦しみを味わいます……。
旗印も国の紋章もつけていない謎の黒い兵士たち。フルートたちに襲いかかろうとした軍勢です。本当なら、いい気味だと喜ぶべきでした。
けれども、怪物に攻撃されて苦し紛れに兜を脱ぎ捨てた彼らは、ごく普通の人間の顔をしていました。金髪、黒髪、赤毛、褐色――さまざまな髪やひげの色をして、目の色もさまざまならば、顔つきもそれぞれ違っている、あたりまえの人間の男たちです。皆、苦しみのたうちながら、次々と倒れていきます。人間の形の消し炭と、無数の破片になった人間の体と、血を吐いて転げ回る者たちが、キマイラの周りに累々と積み上がっていきます。
そんな人間たちを、ランジュールが眺めていました。とても楽しそうな笑顔です。
フルートは全身を震わせました。
「やめろ、ランジュール! 殺すな!!」
自分でも気づかないうちにそう叫ぶと、フルートはキマイラに向かって駆け出しました――。
「フルート!?」
ゼンは仰天しました。友人が敵の軍勢目がけて走り出しています。怪物とそれを操るランジュールに向かっていきます。殺すな、と叫んでいるのがゼンに耳にもはっきりと聞こえてきました。
「ワンワン、フルート!?」
「フルート!」
「馬鹿な!」
ポチとメールと皇太子も口々に叫びますが、金の鎧の少年は止まりません。
「馬鹿野郎――!」
ゼンは後を追って走り出しました。ポチから飛び下りた皇太子がそれに並びます。手に大剣を握っています。
「あんまり阿呆すぎて、あきれて口もきけんぞ」
と走りながら皇太子が言いました。
「俺もそう思うぜ」
と、うなるようにゼンが答えます。フルートの性格はゼンもよくわかっています。人を傷つけることも、人が傷つくことも、本当は大嫌いな心優しい勇者です。ですが、今この状況でランジュールを止めようとするのは無謀すぎました。押し寄せてくる軍勢は、怪物に一度は驚いたものの、すぐに隊列を立て直していました。怪物と戦うことを一部の兵士たちに任せ、残りの者たちはこちらに向かってこようとしているのです。軍勢のいる方へ向かっていくこと自体が自殺行為でした。
ランジュールがキマイラの上からフルートを振り返りました。あきれた声で言います。
「やだなぁ。なにを言ってるのさ、金の石の勇者。こいつらはキミたちを殺しに来たんだよ。それをこうして親切にやっつけてあげてるんだからさ、やめろなんて馬鹿なこと言ってないで、少しくらい感謝したらどうさ」
「殺すな!!」
とフルートはまた叫びました。全身が震えて止まりません。血を吐くような想いと声で叫び続けます。
「彼らは人間だ! 殺すな! やめろ――!!」
すっとランジュールが目を細めました。薄笑いが顔に広がります。
「人間ねぇ。でも、その人間たちがキミを殺そうとしてるんだよ。そんなこと言ってたら、キミも仲間もあっという間に殺されちゃうよ? それでもいいのかい?」
フルートは頭を振りました。もう何も言えません。相手が人間だろうが怪物だろうが、敵であれば倒さなくてはならない――それはわかっているのです。頭ではわかっているけれど、どうしても心が納得しないのです。キマイラに焼かれ、砕かれ、毒を浴びせかけられて死んでいく人々。それを見続けることも、見て見ないふりをすることも、フルートにはどうしてもできませんでした。炎の剣を握り直し、キマイラに切りかかっていこうとします。
すると、その怪物の脇をすり抜けるようにして、黒い鎧兜の騎馬兵が飛び出してきました。フルートを見て叫びます。
「いたぞ! 金の石の勇者だ!」
その声に誘われるように、他の兵士たちが、どっとフルートの方向へ動き出しました。怪物と戦うことは周囲の兵士に任せて、フルートに殺到しようとします。
フルートは、炎の剣を握りしめたまま立ちつくしました。青ざめた顔で、迫ってくる敵を眺めます。
「そぉらね、言わんこっちゃない。――さあ、どうする、優しい勇者くん? 人間を殺すかい? それとも、殺されてあげるかい?」
ランジュールが楽しそうに言っています。
フルートは動くことができませんでした。