「逃れましたね……」
ユギルが、ほっとしたようにつぶやきました。
その青と金の色違いの瞳は、机の上の占盤に注がれたままです。滝のような銀髪が机の上にたれかかり、流れを作りながら、さらに机の下へとこぼれています。
今夜も占者の部屋に入り浸っていたピランが、それを聞きつけました。
「無事だったか、あいつらは」
ユギルは目を上げ、小さなノームの鍛冶屋にほほえみ返しました。
「はい、たった今、勇者殿は死神の腕の中から逃れていきました。仲間たちの元へ戻って行く様子が見えました」
「死神の腕の中ねぇ。まったく物騒な話だ」
と鍛冶屋の長がぼやきます。また占盤に目を戻した青年に話しかけます。
「どうなんだ。あとどのくらいで、あいつらは堅き石までたどりつきそうかね?」
「まだ、もうしばらくは……」
言いながら、占者は一行の行く手にまた新たな障害が集まっていくのを見つめていました。一つ乗り越えても、またすぐに別の障害が現れてきます。敵は本当に執拗に彼らの命を狙い続けているのです。
磨き上げた黒い石盤の上に象徴を追い続けるユギルの脳裏に、少年や少女たちの顔が浮かんでいました。自分よりも大きくなってしまった皇太子の姿も浮かびます。体はもうすっかり大人のようなのに、昔と少しも変わらない、少年のまなざしをしている皇太子です。
「ユギル、決めたぞ! 金の石の勇者が現れたら、私も勇者と一緒に戦うんだ!」
そう言っていた幼い皇太子の姿も思い出します。まだ、魔法の鎧を着ていた頃のことです。あの日、皇太子は一途な目をしながら言い切ったのです。
「だから、私はうんと強くなるんだ! 辺境部隊でも一番の戦士になって、金の石の勇者の片腕になる! 絶対に、勇者と一緒にこの世界を闇から守ってみせるから!」
「さて、陛下がお許しくださるでしょうか。殿下は皇太子でいらっしゃいますよ。ロムドの国を守る責任がおありです」
ユギルが穏やかに笑いながら答えると、幼い皇太子は、ぷっとふくれて言い返しました。
「だから戦うと言ってるんだ! 闇はロムドを襲ってくるんだろう? それなら、私も戦うべきなんだ! 私にはロムドの国民を守る義務がある。次の国王は私なんだからな!」
気負いながらも、まっすぐな目で未来を見ていた皇太子です。王が何を守るべきなのか、何をするべきものなのか、幼くとも本能のように承知していました。
そんな素直な皇太子が、ユギルは好きでした。密かに弟のようにさえ思っていたのです。
けれども、勇者の出現を待つ十年間は、誰にとっても長すぎる時間でした。
待ちきれなくなった皇太子は、自分自身が金の石の勇者になるべきではないか、と考え始めました。闇がロムドを襲ったときに、自分が闇と戦うつもりでいたのです。魔の森へ金の石を取りに行きたい、と皇太子が申し出て、国王がそれを拒絶するたびに、父と息子の気持ちがすれ違っていきました……。
そんな様子を、口さがない権力の亡者たちが騒ぎ立て、いつの間にか、皇太子は宮中の噂と権力争いに巻き込まれ、父王を信じられなくなっていきました。父を憎み、反抗の気持ちを隠そうともしないので、なおのこと、宮中の騒ぎは大きくなります。
けれども、それでも皇太子の本質は歪みようもありませんでした。占盤に現れる象徴のとおり、皇太子は、今でも青く輝く堂々とした獅子なのです――。
ふいに、ユギルは息を詰めました。
記憶のさらに深い底から、抑えようもなく一つの光景が浮かび上がってきて、黒い占盤の上に広がっていったのです。
それは壊れかけた建物の中でした。
人気のない石の床に、痩せたそばかす顔の少年が、頭から血を流して倒れています。驚いて駆け寄ったユギルは、まだ少年の姿をしています。遠い遠い昔の記憶――占者でさえなかった頃の思い出です。
「しっかりしろ! おい、ギム!」
自分より小さなその少年を、ユギルは必死で揺すぶりました。少年が頭に受けた傷は深く、流れ出した血が、髪も服も壊れかけた建物の石積みも、赤黒く染め上げていました。
少年が目を開けました。焦点の定まらない視線をユギルに向けます。――目が見えていないのです。声だけを頼りに、痩せた手を伸ばしてきます。
「ユギル……ユギルなの?」
少年のユギルは、小さな手を握り返しました。
「ここにいるぞ。みんなはどうした!?」
わかっていたのに――何があったのかなど、状況を見ただけでわかりきっていたのに、ユギルは尋ねてしまいました。
そばかす顔の少年が震えだしました。
「憲兵が……あいつが、憲兵にちくったんだよ……! 裏切ったんだ……! ユーアもバランもドルクも、みんなやられたよ……みんな連れて行かれた……!」
ユギルは顔を歪めました。この国のやりようは承知しています。自分たちは虫けらにも劣る、貧民街のゴミです。彼らにしてみれば、そのゴミを焼き捨てて、国を綺麗にしているだけなのです。
すると、少年が必死でユギルの腕にすがってきました。頭の傷はあまりにも深く、ユギルには手の施しようがありません。失血のショックで少年がいっそう激しく震えます。襲ってくる痛みと死の恐怖に、少年が混乱しながら叫び出します。
「どうしてさ、ユギル――!? 俺たち、あんたの言うとおりにしていたよ――! あんたの占いのとおりに――なのに――なんで――なんで――!?」
泣き叫ぶ声がユギルの耳と心を打ちます。少年は血がにじむほど強くユギルの腕に爪を立てて、張り裂けるような悲鳴を上げ……それきり、動かなくなりました。
ふいに、チリン、とガラスとガラスが触れあう音が聞こえました。ユギルは我に返り、音のしたほうを見ました。テーブルで鍛冶屋の長が酒瓶からグラスに酒を注いでいました。
「おう、勝手にやらせてもらっとったぞ」
とピランは陽気に言って、二つ並んだグラスの一つをユギルに差し出しました。
「どうだ、一緒にやらんか?」
ユギルは静かに笑い返しました。
「いただきましょう」
酒もグラスもこの部屋の自分のものなのに、ユギルはそんなふうに答えました。ピランとテーブルにつきます。
しばらく二人は黙ってグラスを傾けていましたが、やがて、ピランが言いました。
「まあ、昔を思い出すのもほどほどにしておくんだな。おまえさんの占盤が悲鳴を上げとったぞ。未来を見るための道具なんだろう? 取り返しがつかん過去の出来事ではなくて」
ユギルは苦笑しました。ものの声を聞くことができる鍛冶屋の長には、さすがの彼もかないません。すこしの間、考えるように沈黙してから、ユギルは答えました。
「人は、過去に動かされるものなのかもしれません……。過去は変えようがなく、取り返しもつかないものです。だからこそ――これからくる未来だけは、後悔することがないように、なんとかしたいと思うのかもしれません」
「それでもやっぱり後悔ばかりするのが人生というもんだがな」
とピランが笑い、机の上の占盤を眺めました。
「まあ、存分にやればいい。思い描いたのとは違う結果が訪れることになったとしても、精一杯じたばたすれば、それだけ後悔も少なくなるというもんだ」
「あの子たちに関しては、後悔などさせません。決して」 ユギルは、はっきりと答えました。遠い日の小さな仲間の悲鳴を、耳の底で聞きます。「どうしてさ、ユギル!? 占いのとおりにしていたのに――!」あんなことばは、もう二度と言わせないのです。皇太子にも、そして、金の石の勇者たちにも――。
また一人物思いにふけってしまった占者を、鍛冶屋の長は静かに笑って眺めていました。まだまだ青いのぅ。ノームの老人の顔は、そんなふうに言っているようでした。