空が夕映えに薄紅に染まる頃、フルートたちの一行は荒野にいました。
街道沿いの開拓地を抜け、人の住まない場所に出たのです。たどっていた小道ももう消えて、行く手に広がるのはただ、なだらかな丘を描きながら地平線まで続く、乾いた大地でした。
夕日がさえぎるもののない地平線に近づいていきます。みるみるうちに、空が紅に染まっていきます。薄くたなびく雲が燃えるような赤金色に変わり、空と大地を輝きで照らし始めます――。
フルートは荒野に立って、そんな夕暮れを眺めていました。
「ワン、綺麗ですね」
と足下からポチが話しかけてきます。彼らは荒野に住んでいて、こんな夕焼けを何度も眺めてきましたが、それでも、見るたびにやはり感動するのです。夕暮れは荒野が一番美しく見える時間帯です。何度見ても見飽きることはありません。
けれども、他の仲間たちは美しい夕焼けに全く感心を示していませんでした。メールはずっと皇太子と話し続けています。今も、昨夜のように離れた場所に火をおこして休んでいる皇太子に、しきりになにか話しかけています。そして、ゼンはというと、こちらで火をおこして夕食を作りながら、あきらかに腹を立てた様子をしているのでした。
そんなゼンをそっと見ながら、フルートはポチに尋ねました。
「これ、どう思う?」
「どうって、見てのとおりでしょう」
人間ならばさしずめ肩をすくめるような調子で、ポチが答えます。
「メールは皇太子と友だちになっちゃったし、ゼンはものすごく怒ってる。そういうことですよ」
「それって――」
言いかけて、フルートは困惑したように口をつぐみました。ゼンはフルートと同じようにポポロが好きなはずです。それは間違いありません。けれども、今のゼンの姿は、皇太子と親しくするメールに、やきもちを焼いているようにしか見えないのです……。
すると、そこへメールがやってきました。なんと皇太子と一緒です。渋る青年の腕を取って無理やり引っ張ってきます。大柄な皇太子が、か細いメールに引きずられるように連れてこられる様子は、何とも奇妙な光景でした。
「お、おい、私は……」
「いいから来なって。毒なんか入ってないんだからさ。そっちのほうでポツンとやってないで、一緒にまざりなよ」
ゼンはそれを聞いたとたん、一瞬、本当に皇太子の食事に毒でも入れてやろうか、と物騒なことを考えました。いっそう不機嫌になって、彼らに背を向けます。
メールが皇太子の大きな体を押さえつけるようにして、自分たちの火のそばに座らせました。
「そら、楽にしなって、オリバン。よく知りたいんなら、そばにいなくちゃわかんないだろ」
「何の話?」
とフルートは近づきながら尋ねました。とたんに、皇太子は険しい表情に変わって顔をそむけました。
「私は戻るぞ、メール」
と立ち上がろうとします。
ゼンは彼らに背を向けたまま、太い薪をへし折りました。オリバン、メール、と彼らが名前で呼び合っているのが、無茶苦茶しゃくにさわります。人の感情をかぎわける子犬が、はらはらした顔でゼンを見ていました。
メールが皇太子の腕をつかんで引き止めました。
「ダメだったら! ここにいなよ、オリバン」
「メール、私は別に――」
ついにゼンの忍耐力が切れました。いきなり火のそばから立ち上がると、振り向きざま皇太子にどなります。
「うるせぇ、この野郎! 一緒にいたくねえなら、とっととあっち行けよ! めざわりだ!」
皇太子も、むっとした顔になります。
「一緒にいたいわけではない。メールに連れてこられただけだ」
ゼンはなおさら、かっとしました。皇太子がメールの名前を呼ぶだけで、とにかく不愉快でたまりません。本気で拳を握って殴りかかろうとします。
「ゼン!!」
フルートが鋭く制止の声を上げます――。
そのとたん、その場にいた全員が飛びのきました。
ゼンも皇太子もフルートも、メールもポチも、いっせいに大きく飛び下がり、ひとつの方向へ身構えます。
たった今まで何もなかった空間に、巨大な影が姿を現していました。地平線に太陽が沈み、薄闇が迫り始めた空からにじみ出てくるように、生き物の輪郭が浮かび上がってきます。
皇太子が腰の大剣を引き抜きました。フルートも背中から剣を抜きます。黒い炎の剣です。
ワン! とポチが吠えました。
「みんな、気をつけて! 魔獣ですよ――!」
一頭の巨大な獣が彼らの前で実体になりました。全身金茶色に輝く毛でおおわれた猫です。長い二本の牙が口の両端から突き出ています。
「サーベルキャットだ。何と大きい……」
と皇太子が言いました。唖然としているような口ぶりですが、実際には油断なく剣を構え続けています。
すると、猫が突然鋭く前足を繰り出してきました。一撃でたき火と、その上にかかっていた鍋をひっくり返します。シューッと音を立てて、灰混じりの煙がわきたちます。
「あ、この野郎――!」
せっかくの夕食を駄目にされて、ゼンが歯ぎしりしました。
すると、上の方から、のんびりした男の声が聞こえてきました。
「ふぅん――キミたちが金の石の勇者の一行。ずいぶんと小さいんだねぇ」
フルートたちは驚きました。声は巨大な猫の上から聞こえてきます。首をねじるようにして目をこらすと、猫の頭の上にねそべって、こちらを見ている若い男が見えました。やたらと細身で、なんの緊迫感もなく横になって、にやにやと笑っています。
フルートは反射的に仲間たちの前に出ました。剣を構えながら、誰だ、と尋ねようとします。
すると、それより一瞬早く、同じように前に出た皇太子が大声を出しました。
「きさま、何者だ!?」
「んんー……?」
細身の青年は、寝ころんだまま、確かめるように皇太子を眺めました。すぐに、ひらひらと片手を振って見せます。
「ああ、部外者はどいたどいた。怪我したり、死んだりしたらつまらないだろう? ボクが用があるのは金の石の勇者だけなんだからね」
地上にいる者たちは、いっせいに、はっとしました。フルートが尋ね返します。
「ぼくに何の用だ!? おまえは誰だ!?」
言いながら、右手の剣と左腕の盾を油断なく構え続けます。
猫の上の男が言いました。
「ボクはランジュール。ちょっとキミを殺してくるように、って命令されてね。で、こうして来てみたってわけさ」
口調はとてものんびりしているのに、言っていることは限りなく物騒です。
「こいつ、ふざけやがって! 結局、刺客だろうが!」
ゼンがどなりました。ついさっきまでの争いのせいで、頭に血が上ったままです。いきなり巨大な猫に飛びかかっていこうとします。
「ゼン!」
フルートは、とっさに親友の前に飛び出しました。魔法のダイヤモンドで強化された盾を構えます。
とたんに、鋭い爪が盾とフルートの鎧の胸を直撃しました。一瞬のうちに、息もつけないほど激しく胸を打たれ、跳ね飛ばされて後ろのゼンもろとも地面に倒れます。
フルート、ゼン――! とメールは叫ぼうとして、思わず息を飲みました。あらゆる攻撃からフルートを守るはずの魔法の鎧に、深い爪の傷痕がついています。それも、何十本もです。猫は一撃しただけに見えたのですが、実際には、目にも止まらない速さで、何十回と爪でフルートを殴りつけていたのでした。
「お、おい、フルート……!?」
地面につっぷしてあえぐフルートに、ゼンが我に返りました。あわてて飛びつきます。
すると、フルートがゼンを見ました。今にも吐きそうな青ざめた顔をしながら、鋭くにらんできます。
「馬鹿、何やってるんだ! いきなりかかっていっていい相手かどうかも、わからなくなってるのか……!?」
化け猫の上の男はひどくとぼけた様子をしていますが、全身から恐ろしいほどの殺気と気迫を放っていたのです。
ふぅん、とランジュールと名乗った男は目を細めました。
「サーベルキャットの連打攻撃にとっさについてくるなんて、金の石の勇者は反射神経がいいんだねぇ。これはちょっぴり楽しみ、かな」
うふふふ……とまるで女のような含み笑いをします。
ゼンはまた歯ぎしりをしました。エルフの矢をお見舞いしたくても、弓矢は料理を作るときに、火のそばに下ろしてしまっています。今は、化け猫のすぐ足下です。近づけば、たちまちまた攻撃されてしまいます――。
すると、シュン、と風の音を立ててポチが風の犬に変身しました。たちまち化け猫より巨大な姿になって飛びかかっていきます。
「風の犬かぁ。悪いけど、つまらないよ」
ランジュールがそう言って、猫の頭上から片手をかざしました。
すると、いきなりその目の前にドラゴンが現れました。純白の毛でおおわれた、長い首と頭だけの存在です。飛んでくるポチに向かって、かっと大きく口を開けます。
「かわせ、ポチ! スノードラゴンだ――!」
フルートがまた叫び、とたんに激しく咳込みました。胸の奥がひどく痛みます。どうやら、さっきの猫の攻撃で肋骨にひびが入ってしまったようです……。
ごうっとドラゴンが白い息を吐きました。たちまち吹雪になって襲いかかってきます。
ポチはフルートの声に必死で身をよじっていました。その長い尾が吹雪にさらされ、たちまち幻のような体が吹き散らされてしまいます。
キャン! とポチは悲鳴を上げました。みるみる体が縮んで、元の白い子犬に戻ってしまいます。まっさかさまに空から落ち始めたポチに、またスノードラゴンが吹雪の息を吐きかけようとしました――。